31、嘘つきな軍神
いつの間にか、黒い煙が葵と波美子の四方を囲み、外界から隔離していた。
雑踏の声も、車の音も遮断され、吹き抜けていた爽風も消えている。
煙の隙間に覗く都市景色は色を失い、陽炎めいて揺らいでいた。
葵は息をのみ、黒い煙の隙間から逃れようとした。すると、その足首にぬるりと黒煙がまとわりつく。
「きゃっ」
黒煙がまるで蛇のように両足を縛り上げたので、葵はバランスを崩して転んでしまった。
「【逃がさないわ】」
倒れこんだ体に、波美子が覆いかぶさってくる。
顔にはくっきりと血管が浮き、目は血走っていて、その形相は鬼のよう。
「ひっ——」
恐怖に喘ぐ葵の脳裏に、車童の声がよぎる。
『わるいものが出たら、おふだを貼っておやゆびを隠すでございます!』
——そ、そうだ。何もしないで、やられてたまるか。
葵は袂からフミの退魔護符を取り出して波美子の首に押し付け、親指を内側へ折り込んで拳を握り締めた。そして、風切に教えてもらった土御門家の呪文を唱えた。
「闘わんと臨むもの、前に在らんと常世の理を越えて暴れるならば、汝の力をわれもまた奮おう。退き、汝を産みし母なるものへと還りたまえ。急ぎ律令の如くせよ」
直後、波美子の口から、女とも獣ともつかない絶叫がほとばしる。
「ああああああっ!」
苦悶の悲鳴と共に、黒煙が波美子の口からあふれ出して、鼻を刺すような悪臭が広がった。
——き、気持ち悪い。
葵は口と鼻をハンカチで押さえて吐き気に堪えた。
波美子の身体から離れた黒煙は地面を這い、やがて数歩離れた場所で渦を巻く。
「【苦しい。恨めしい。憎い。消えたくない。いや……いやよ……】
もがき苦しむような怨嗟の魂の吹き溜まりは、どことなく蚊取り線香に神経を冒された蚊を連想させた。
「【消えたくない。あたくしは……ひとりじゃ、さびしいわ。さむい。ねえ、だれか。だれか、あたくしのそばに……】」
黒煙からまぎれもない蝶子夫人の声がする。
その哀れっぽい声がむしょうに勘に障って、葵は泣きたくなった。
ほかならぬ蝶子夫人の、かつて葵をなじった声が思い出される。
『なによ、哀れっぽい声を出して』
『可哀想ぶるんじゃないわよ』
わかる。わかる。わかってしまう。
「あなたの気持ちが、いまさら、わかるようになったわ——哀れっぽい声を、出さないで。反吐が出る」
葵は波美子の首から退魔護符を取って、煙の塊に投げてやった。
「いい加減にして。もう、うんざり。波美子だって可哀想。あざを消して、解放してあげてよ。大切な娘じゃないの?」
黒煙はどんどん小さく薄くなる。
もう消えてしまうだろう、と葵は見通して、警戒を解きかけた。
と、その瞬間、轟、と空気を震わせる音が響いて、金色の烈風が空から吹き抜ける。
「うわっ」
豪快な金風は、消えかけの黒煙も護符も一息に吹き散らした。
——まぶしい。
風は、葵と波美子を閉じ込めていた黒い煙の結界までも跡形なくかき消していく。
煙が完全に消えると、街の喧騒が一気に復活した。
「なんだ?」
「金色の光が……」
「女性が倒れているぞ」
騒然とした気配に包まれて、群衆の中にいる安心感がこみあげてくる。葵は倒れている波美子を抱きしめ、呼吸があることを確認した。
「よかった。生きてる……」
「お嬢さんら、なんぞありましたんか?」
煙管を手にした細目の男が声をかけてくる。
言葉を返しかけたとき、どよめきが大きくなって、周りの人々が次々と空を見上げた。
「金烏だ!」
その声につられ、葵も顔を上げて目を見開いた。
「な……」
——なに、あれ。
澄み渡る青空を、金色の烏が悠然と舞っている。
煌めく羽毛にふさふさと覆われた大きな翼に、堂々たる黄金の体躯。目は優しそうで、尾っぽが長い。
くちばしは、黄金の槍みたいに先端がとがっていた。
誰が見ても一目で特別だとわかる神秘的な烏は、背中に人を乗せていた。
「軍神様だ!」
「武政様ーっ!」
周囲の人々は高揚した様子で手を振っている。
葵はそれを見て気づいた。
彼らは、この立派で不思議な烏を見るのが初めてではないのだ。
わあわあと歓声が迎える中、烏は黄金の翼をひとたび羽ばたかせると、葵たちの前へと舞い降りる。
その背から軽やかに飛び降りたのは、見慣れた二人の青年——軍服に軍刀を佩いた武政と、白衣姿の丙だ。
金烏を帝の守護鳥として信じている民にとって、その姿はあまりにも神々しくて、特別だった。
こりゃ、皇位継承順位が上がるわけだ。
特別すぎるよ。
葵が呆然としていると、武政は猛突進してきて葵の手から波美子をかっさらっていった。
「波美子おぉ! 俺が来たぞぉぉ!」
鬼気迫る声と表情に、群衆も息を呑む。
ぐったりとした波美子の頬に手を添え、呼吸を確かめると、武政はお日様のように破顔した。
「よし、生きてるぞ。まあ、こいつは殺しても死なん強い嫁だ」
息を詰めていた群衆は、ほっとした様子で息を吐く。葵は芝居でも見ている気分になってきた。
「た、武政……?」
波美子の目がひらく。
その瞳がまっすぐに武政を見つめるのを見て、葵はなんだか人魚姫のお話を思い出した。
「気がついたか。警護を付けずに外歩きするのは危ないと言っていただろうに」
武政は安堵したように目を細めて、悔しそうに声を高めた。
「妻に手を出すとは、どこの陣営の仕業か知らぬが、卑怯者め」
芝居がかっているのに、周囲からは「許せんなあ!」とか「武政様、おいたわしい」という声が聞こえてくる。
そして、波美子は嫌そうな顔になった。
葵と目が合うと、口をぱくぱくさせて無音で「ほら、こういうところよ」と伝えてくる。今は全力で同意だ。
「うそくさい」
葵が唇の動きで共感を返すと、波美子は勝ち誇ったような笑顔を咲かせた。
路面に東屋敷の迎えの車がやってきたのは、その後だった。
「皆、騒がせてすまない! 俺は妻と共に失礼する!」
武政はしかめっ面をして嫌そうにしている波美子をさも大切そうに抱き上げ、横付けされた車へ乗せる。
付き合いの長い葵の目には、波美子の目に紛れもない照れ隠しと喜びが含まれているのがわかる。
——波美子、なんだかんだ言って好きではあるんだよね。
近くにいた婦人が「素敵ねえ」と恍惚とした呟きを漏らした。
「いいものを見たなあ」
「今のはどういう事件だったんだい?」
「よくわからないが、そのうち新聞に記事が出るだろうよ」
何が起きたのかはよく理解していないが、群衆は満足そうに武政への印象を向上させて日常に戻っていった。
「なんだかなあ……」
「葵さん。怪我はない?」
「あっ、丙様」
「実はずっといたんだけど、君、兄さんばかり見て……」
丙に手を差し伸べられて、葵は手を取った。風がふわりと吹いて、丙の香りがした。
「いえ、武政様のことが嫌いかもしれないなーって思いながら見てたんです」
「ほんとうに? うれしいな」
「喜んじゃうんだ」
握った手は、いつもより熱かった。




