30、禁じられた呪術
空には綺麗な虹がかかっていて、蝶々がひらひらと視界の隅を飛んでいる。
「お待たせ、波美子」
葵は乳白色の縮緬に淡い紫や山吹色の花々を裾へ散らした着物に水色の帯、柿色の帯揚げを合わせた装いで、大きな空色のリボンを後頭部につけている。
それを見て、波美子は「似合うわ」と褒めてくれた。
「葵は男の子の格好も格好よかったけど、女性の装いをするのも素敵だわ。素材がいいのね」
波美子は白地に臙脂や黒の大胆な意匠を染めた友禅に、若草色の帯姿。長い髪を半結びにして、葵が贈ったリボンで結んでいる。
爪の色は、薔薇のような鮮やかな紅色だ。
「葵も爪紅をつける? お揃いにしましょうよ」
「じゃあ、丙様や武政様もお揃いに?」
「いいわね。すごく嫌がられそう!」
全員がお揃いの爪をしているのを想像すると、笑ってしまいそうになる。おかしな夫婦、二組だ。
「葵。浅草に寄りましょう。時間はたっぷりあるのだもの。人力車を待たせているの。乗ってちょうだい」
「重くないか心配になっちゃう」
「二人で一緒に乗るのですもの。重くてごめんなさい、心付けをはずむので許してね、でいいのだわ」
クッションの柔らかな座席に二人並んで座ると、麦わらで編んだ菅傘を被った車夫は軽く会釈して「心付けありがとうございます」と大声でのたまう。
「あら、まだあげてないのに喜んでるわ」
「くださると話していらしたので楽しみにしております」
「うふふ、商売上手さんね。あげますわ」
波美子は車夫が気に入った様子で心付けを渡した。
車夫は満面の笑みで感謝を唱え、意気揚々と人力車を引く。
その菅傘の上にテントウムシがひっついていて、赤い宝石みたいに陽射しに煌めいているのが目を引いた。
「風が気持ちいいわね」
波美子はそう言い、首元を扇子で仰いだ。
波美子から漂う薫りが、風に乗って届く。まるで薔薇園にいるようだった。
「わたくし、この前あのお店で舶来物のハンカチを入ったの。でも、三軒隣にもっと安いお店があったのよ。腹立たしいわ」
波美子は「あのお店はいいお店、あのお店はだめ」と扇子で指して評価を教えた。まるで女王様と一緒にいるみたい。薔薇の香りを漂わせる着飾った波美子には、そんな高飛車な振る舞いがよく似合う。
——では私は?
葵の心に丙の顔が浮かんだ。「権力志向の兄が好きか」と問う丙の姿が、自分と波美子をくらべる葵に重なる。
彼は、こんな気持ちだったのだろうか。
化粧品店の店先に香水瓶が並んでいるのが目に入り、葵は波美子の袖を引いた。
「波美子。寄り道してもいい?」
「いいわよ。車夫さん、ちょっと待っていてくださる?」
「へい、かしこまりました」
車夫に心付けを渡し、葵は香水を買った。すみれの香りだ。
自分からいい匂いがするのは、うれしい。
「葵、荷物はしっかり抱えないとスリに狙われるわ。都会って物騒だもの。さあ、カフェーに行くわよ。甘くて可愛い、流行の最先端のお菓子を食べるのよ」
二人は寄り道を終えて、再び人力車に乗り込む。
少しすると、人力車は『カフェー』の看板が出ている店の前に到着した。
狸の焼き物が招き猫の人形と並ぶ店先には、籐籠いっぱいに白と桃色のラッパ形の花が咲き誇り、道行く人の目を楽しませている。
波美子は葵の手を引き、耳元に口を寄せた。
「ここの給仕さん格好いいのよ! 制服がとっても似合うの」
「武政様とどっちが格好いいの?」
「あいつより給仕さんの方が、ずっと上品で素敵だわ」
「それは楽しみ」
期待して中に入ると、小さな鈴が澄んだ音を立てた。
中には銘仙に白エプロンの女給さんも何人かいたが、二人を見て近寄ってくるのは男性の給仕だった。
「いらっしゃいませ。お二人様でいらっしゃいますか?」
「はい」
「お席にご案内いたします」
なるほど、白い給仕服に黒い蝶ネクタイを締めた給仕が恭しく一礼する姿は美しい。「ね、素敵でしょう」と肘をつつく波美子に笑みを返して、葵は窓際の席についた。
白いテーブルクロスのテーブル椅子席に座ると、葵がメニューを見る間もなく、波美子は慣れた口調で注文を済ませた。
ほどなくして、給仕が銀の盆を手に戻ってくる。
細長い硝子の器には空に遊ぶ真っ白な雲のような生クリームが果物をお供にして飾られている。
スプーンで形を崩すのがもったいないほど、可愛らしい。
「わあ、ふわふわ。甘い」
「これが都会の味よ、葵。都で知るべきことは、お菓子がおいしいってことだけでじゅうぶん」
波美子は目を細め、声を潜めて顔を近づけた。
「葵。わたくしたち、帰らない?」
「うん。これを食べたら帰ろうか。夕飯の献立も考えないといけないしね」
「島に帰るのよ」
「え?」
思いもよらない言葉に、葵は目を丸くした。
「芦屋家は腹黒で嘘つきだらけよ。武政は術が使えないみたい。金烏の加護は芦屋家の術者が演出してるの。それで次の帝の座を狙ってるって、相当いかれてるわ」
その話は知っている。
演出している本人から聞かされたばかりだから。
しかし、カフェーで話すにしては危険すぎる。葵は心臓がどきどきしてきた。
「波美子。ここで話すような内容じゃないよ」
「それもそうね。でも、なんだか変ね。なんだか、もやもやがどんどん膨れていくの。……落ち着いたほうがいいわね、わたくし。どうかしてるわ」
「私は帝都の暮らし、気に入ってるよ。丙様も、いい人だなって思う」
「そう……」
波美子は素直にうなずき、沈黙した。
そして、会計を済ませて店を出ると、再び話を切り出した。
「葵、やっぱり一緒に島に帰りましょうよ」
「本当にどうしたの、波美子。嫁ぎ先が本当に嫌で我慢ならないなら、ちゃんとお父様や武政様とお話して円満に離縁して実家に戻ったら……?」
葵は波美子を振りかえり、ぎくりとした。
波美子の首元から黒い煙が立ちのぼっている……。
——波美子?
「どうして賛成してくれないの? 葵はそんな子じゃなかったよ。わたくしの葵は、わたくしが一番大切なはず。なんでもわかってくれるはずよ。ね、そうよね」
「波美子? なんだか……変だよ」
「何が変なの? おかしいのは葵よ。ううん、違うわね、わたくしが変ね。わたくし、葵には幸せになってほしい。でも、なんだか……」
一拍置いてから、波美子は自分の口を押さえた。
「違う……違うの、葵。こんなこと言いたいんじゃ……」
その手がふっと降りる。
「波美……」
その顔を見て、葵の心臓がぎくりと跳ねた。
波美子は人が変わったように毒々しい笑みを浮かべて、首に付けていたレースのチョーカーに手をかけた。
「なんだか、あたくし、葵の不幸を望んでる」
はらりとチョーカーが落ちたあと、肌に濃く刻まれた蝶子夫人の呪印は黒い煙を濛々と噴出させる。煙に包まれた波美子の形相が蝶子夫人に見えて、葵は吐き気を催した。口に手を当てて、後ずさる。
「……そんな、どうして」
見たくなかった顔。忘れたくても忘れられない、七年もの間、葵を虐げ続けた女の顔。
——あなたは死んだはずなのに。
葵は芦屋家の書庫で見た呪術の本を思い出した。
『他人の体に自分の魂の一部を移して乗っ取る』——そんな禁じられた術を。
「【相変わらず腹が立つ娘ね】
波美子の唇から、紛れもなく蝶子夫人の粘ついた声が零れ落ちる。
——なんて、おぞましい。
葵の喉がひゅっと音を立てた。
七年分の恐怖と屈辱が堰を切ったように一気に蘇って、震える足が一歩後ずさる。
「——蝶子夫人!」




