29、口外なさらない方がよろしいのでは?
「……っ」
その声が蝶子夫人そっくりだったので、葵はぎくりとして後ずさった。
胸がどくんと大きく跳ねた。
——蝶子夫人?
そんなはずはない。
蝶子夫人は、亡くなったんだ。
ここにいるはずがないのに、耳の奥ではあの冷たい声が何度も反響する。
幼いころ、呼ばれるたびに待っていたのは叱責や折檻だった……。
喉がひりつき、指先から血の気が引いていく。
そこに、波美子が怪訝そうな声をかけた。
「……葵? 顔色が悪いわ。今日は陽射しが強いから、中へ入りましょうか」
「な、波美子……」
波美子の顔を見ると、心配そうにしている。まるで、何もなかったみたい。本当にそうなのかもしれない。今のはきっと、幻聴だったのだ。
……本当にそうだろうか。
胸の奥が、ざわざわして落ち着かない。
「波美子。今、なんて言ったの?」
——今あなた、まるで蝶子夫人が乗り移ったようになって、変なことを言わなかった?
そんな言葉を飲み込んで無難に問うと、波美子は不思議そうに口元に手を当てた。邪気も嘘の気配もない。いつも通りの波美子だ。
「……? 今日は陽射しが強いから、中へ入りましょう? 本当に大丈夫?」
「今、金烏がどうとか言わなかった?」
「え? 言ってないわよ」
聞き間違えだったのだろうか。
葵は腑に落ちないまま、客間へと戻った。襖の前に行くと、中の会話が聞こえてくる。
「波美子は夫を立てるのが嫌らしい。だが、俺の嫁はそれくらい気が強くないとな」
「兄さん、その話何度目?」
「尭司家は女が優位だと言うんだ。まあ、女に支配されていた家だしな。あと、嘘も嫌いらしいが、これは可愛いよな」
「おっと、惚気たね」
兄弟は結婚生活の話題で盛り上がっていて、波美子は唇を尖らせる。
「男っていやね。何を盛り上がっているのかしら」
その様子が可愛らしくて、葵はくすくすと笑ってしまう。
そんな二人に気づいて、兄弟は部屋の入り口に視線を向ける。武政は目ざとく妻の指先に気づいて寄ってきた。
「波美子。指をどうした? 見せろ」
「はい? ……ぎゃあっ! 何するのよ!」
武政が薔薇の棘に傷ついた指をつまんで舐めたので、波美子が真っ赤になって平手打ちをする。
「兄さん、動物じゃないんだから。波美子さん、僕が消毒してあげるよ、おいで」
「丙。人妻に軽々しく『おいで』などと言うな」
「じゃあなんて言えばいいのさ。『恐れながら治療させていただきます奥様』とか?」
兄弟の会話を聞いて、波美子が顎をそらす。
「あら、お義姉さんと呼んでくださってもいいのよ、丙さん」
「ああ……そういう呼び方もありますね」
葵と波美子は葵が姉だが、丙と武政は武政が兄だ。
兄嫁に当たるので「お義姉さん」という呼び方もおかしくない。
「考えてみると私たち、なんだか捻じれた夫婦関係ねえ。姉妹と兄弟があべこべなんだもの」
波美子が面白がるように言うので、葵は波美子が「結婚相手を交換しましょうか」と言い出すのではないかと、はらはらしてしまった。
楽しい時間はそのあとしばらく続き、帰る時間には二組の夫婦は四人お揃いのリボンをつけて次回の茶会の日取りまで決めた。
それとは別に、葵と波美子は二人だけでパフェーを食べに行く約束も決めたのだった。
◇
新聞に「金烏の軍神が有名店を脅かしていたあやかしを退治」という見出しが出たのは、それから数日後のことだった。
丙は新聞をめくり、別の記事を指した。
そこには、『鬼神院家と土御門家が新たに認定された皇族を支持表明した』という記事が掲載されている。
「この記事は本来、一面に掲載されるはずだったんだろうね。でも兄さんが話題になって、目立つ場所を取っちゃった」
丙は新聞を綺麗に折りたたみ、指を三本立てた。
「現在の兄さんの帝位継承順位は三位なんだ。五年ほど前までは皇族として認定もされていなかったのに、金烏の力を見せた途端に順位が変わってね」
「金烏の加護があるって、それだけで特別な感じがしますもんね」
「見た目が神々しいからね。目に見える奇跡は、強い」
雨後の筍のように湧く自称皇族は、大半は正式に皇族認定されることなく詐称の罪に問われ、その人生を終えることが多い。
「兄さんのおかげで僕もおこぼれに預かって詐欺師扱いされずに済んでるよ。もっとも、兄さんは皇族の血なんて継いでないけどね」
なんてこと言うんだ。
葵は思わず周囲を確認した。
「丙様。そういうのは口外なさらない方がよろしいのでは?」
「兄さんに金烏の加護がある限り、何を言っても冗談で笑い飛ばせるんだ、これが」
丙は視線をテーブルの上に落とした。そこには、丙の眼鏡がある。これを付けなくても丙は新聞を難なく読めるということだ——葵は眼鏡を手に取り、丙にかけてあげた。
「嘘つきな方」
「波美子さんは兄さんの嘘をたいそう嫌悪するんだって。葵さんも嘘は嫌いかな? 僕は結構な嘘つきで、先日は注射をした子供に『痛くないって言ったのに』と嫌われてしまったよ」
「それは仕方ないのでは」
「うん、うん。仕方ないと言ってもらえるような例えを選んだんだ」
眼鏡をつまみあげて丙が立ち上がる。
革の鞄の端には、小さな風車が紐で括り付けられていた。
ネクタイを直してあげると、丙はうれしそうに微笑む。屋敷の外では兄や患者に対して、どちらかといえば世話をする役回りの彼が、こうして世話をされて喜んでいる。それが、葵の世話焼き心みたいなものをくすぐった。
「君は兄さんと僕、どちらが好き?」
「はい?」
「権力を掴もう、国で一番尊い地位を目指そうと野心を胸に邁進する男って、市井では人気があるようだよ。『男子たるもの、そうであれ』なんて言われたりしてる」
縁談を申し込まれてそのまま妻になった女の好みを結婚後に聞いてどうするというのか。選択の自由なんてないのに。
葵は半眼になった。
「もし私が武政様の方が好きだと言ったらどうなるんでしょうか? 離婚?」
「離婚なんてしないさ。それじゃあ、そろそろ行ってきます」
「いってらっしゃいませ、丙様」
丙は少し慌てた様子で首を振り、家を出る。
葵はそれを見送り、波美子との約束のために支度をした。
——皇族の血筋じゃないんだ、武政様。
それって大変な問題なのではないだろうか。
葵は今更ながらに教えられた真実の重さに愕然とした。




