25、もしも彼女が望んだら
西屋敷の車は、武政の活躍を見届けてから、ゆっくりと動き出す。
窓の外の歓声を聞きながら、丙は眼鏡を外した。
「ああ、笑った。葵さん。ああいうのどう思う? 僕は苦手なんだよね……」
「なるほど、あれが勧善懲悪劇。確かに、なんだかお芝居みたいですね。鰻のあやかしも見えなかったし……」
「あれで兄さんは名声を上げて、大衆は喜ぶんだ。嘘も方便という言葉もあるし、人を喜ばせるための嘘なら、いいよね」
いい、と言ってほしそうな声だった。
「鰻のあやかしを斬ったのが嘘だとおっしゃってます? 別にいいと思いますけど、もし真犯人が別にいるなら、そっちを捕まえないと危ないんじゃ?」
「君は本当に理解力が高いね」
丙は指を葵の唇に当てて片目を瞑った。
「真犯人は、たぶん芦屋家が追っているあやかしだ。僕が報告しておこう」
車童はそんな丙の頭の上に乗り、「あやかしはあぶないでございます」と自分を棚に上げたことを言う。
「フミのおふだはございますか?」
「ああ……うん。持ってるよ」
「わるいものが出たら、おふだを貼っておやゆびを隠すでございます。てを、ぎゅーっとするでございます! ぎゅーっ」
車童は葵に優しい。
心配して、身を守るよう言ってくれているのだ。
「ありがとう、車童くん。ぎゅーってするね」
「ぼくのまえのご主人は、退魔のじゅもんをよく唱えたのでございます。風切に教えてもらうといいでございます」
運転席でハンドルを握る風切に訊ねると、風切は驚いた様子ながらも呪文を教えてくれた。
「葵さん、車童はなんていってるの? 僕も交流してみたいな」
丙は興味津々だったので、葵は屋敷に着くまで二人の通訳になって交流の仲介をしてみた。
丙は楽しそうで、葵は事件のことを束の間、忘れて、微笑ましい気分になった。
◇
車童というのは小さくて丸い見た目をしているらしい。葵に教えられて、丙は目を凝らしてみた。あいにく、まったく見えない。
ただ、葵が「ここにいますよ」とか「こんなことを言っていますよ」と教えてくれるのは、うれしかった。
——すっかり楽しむどころじゃなくなってしまって申し訳ないと思っていたけど、葵さんが笑ってくれてありがたい。
なにせ、下手したら何十人もの命が消し飛ぶような事件に発展するところだったのだ。
さぞ恐ろしいだろう、と案じていたが、今のところ葵は平気そうにしている。もし気丈に振る舞っているのだとしたら、なんて健気なのだろう。
葵のおかげで、一歩間違えれば、何十人もの命が失われる事件に発展する危険物を未然に無害化することができた。
丙には見えないものが、葵には見える。
車の中では車童と遊んでいるし、仕掛けられた危険物までわかるのだ。優れた才能と言えよう。
芦屋家当主が知ったら、手元に置いて才能を育てると言い出しそうだ。
彼女を取り上げられてしまう――それを想像すると、面白くない。
いつの間にか、醜い執着心めいたものが生まれている。いつからだろう。
変化は、それだけではない。
丙はおそらく母方の血により、植物や蟲を扱う異能がある。父方の血により、金烏の加護もある。しかし、植物や蟲、金烏以外はからっきし扱えず、見たり聞いたりすることもできない。
その欠点について、丙はこれまでどうも思わなかった。別に人外のものも怪異も見えたり聞こえたりする必要性を感じなかったのだ。
けれど、葵と一緒にいるうちに、そんな心境にも変化が生じつつある。
彼女が見たり聞いたりしている世界を、自分も知りたい。
そう思うようになったのだ。
知り合って間もないのに、こんなに影響されるなんて。
——もしも彼女が望んだら、僕は彼女を手放してあげられるだろうか。
例えば、あの蝶子夫人のように力に物を言わせて彼女を閉じこめ、自分のそばに留めようとしないだろうか。そんな危うい疑問が湧いて、ぞっとする。
車童がいるという空間へ指先を伸ばし、楽しそうに笑う葵。
その姿を見ていると、胸の奥に芽生えた小さな独占欲が、ひどく醜いものに思える。
丙はそっと心の奥底に醜い自分を隠し、彼女を怖がらせないようにと念じながら微笑んだ。彼女に醜さを知られていやがられてしまうことが、恐ろしかった。




