23、鰻屋とあやかし
「これから行くお店は江戸時代創業の老舗で、帝都を代表する鰻屋だよ」
到着した先は、料亭風の格式ある木造二階建てのお店だ。
白い暖簾がひらひらと揺れている。硝子戸から中に入ると、食欲を煽る蒲焼きの匂いがした。
「いらっしゃいませ」
来店を歓迎する声には品がよい。
店内の客の多くが背広や山高帽の紳士で、夫婦連れもいる。
店主のおじさんは恭しく頭を下げ、二人を席に案内してくれた。
「これはこれは先生、よくいらっしゃいました」
「お邪魔します。こちらは僕の妻だよ。相変わらず賑わっているね」
紹介されて葵が頭を軽く下げると、周囲からざわめきが起きた。
またか。
「風の噂でご結婚の話は聞いたことがありましたが、兄君のことだとばかり思っていましたよ。兄君と同じく、尭司家のご令嬢だと聞きましたが?」
「そうそう。兄弟姉妹で仲良く夫婦二組になったんだ」
親しい雰囲気で話していると、江戸紫の御召姿の女給が礼儀正しく言って湯呑に煎茶を注いでくれる。ほわりと立ち上る湯気は、落ち着くいい香りだ。
「おやっさん、そちらのお方は樹宮殿下とお呼びせなあきまへんのやおへんか?」
近くの席の男性客が声を挟む。
店主が返事する前に丙は首を横に振り、苦笑した。
「呼び方なんて好きにしておくれ。名前が変わる前からお世話になっているのだし、僕だって店長のことを間違ってお父様と呼びたくなるときがあるくらいだ」
「ややっ、ご冗談を! 恐れ多くて禿げちまいますよ!」
和やかにやり取りする間に、テーブルの上に黒塗りの重箱が置かれる。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
蓋が持ち上げられた瞬間、湯気とともに甘辛い鰻の蒲焼きの香りが立ち上った。
重箱の中では艶やかな飴色の蒲焼きが白飯を覆っていて、おいしそうだ。
いただこうか、と促され、葵は「いただきます」と手を合わせた。
ひとくち、頬張った瞬間にハッとする。
おいしい——脂は舌の上で溶けるようで、甘辛いたれがたまらない。
白飯と一緒に食べると、たれを吸った米も味わい深くて、幸せだ。
「おいしい……!」
「そうだろ。僕も気に入っているんだ」
「これは人気が出ますね」
「江戸の人間はせっかちで、脂の多い鰻を短時間で柔らかく食べられるよう工夫した結果が今の蒲焼きだと言われているんだよ」
そうそう、と店主が微笑み、ふと表情を曇らせる。
「ですが最近、ちいと困っていることがありまして。どうも鰻のあやかしが……」
鰻のあやかし?
「なんだい、それ」
「なんですか、それ」
葵と丙が一緒になって首をかしげていると、近くの客が声を挟む。
「おやっさん、そないな話はあとにしとき。鰻がまずぅなってまうやろ」
「ああ、すまないねえ。ほら、先生は兄君が有名な方だから。退治を頼めないかなと思ってね」
「ここには鰻のあやかしなんて、おらへんよ」
なるほど、金烏の軍神様は頼られていて、怪異事件の相談をされたりすることもあるらしい。
葵はお茶をいただきながら、店主の方に視線を向けた。
店主に笑いかけているのは、どこか遊び人めいた男だった。
細い目を笑ませ、くたびれた色合いの着物を粋に着こなして、煙管をくゆらせている。
食事はちょうど終えたところで、「ほな、勘定を頼む」と帰る気配を見せている。
「ごちそうさん」
男は煙管を懐へしまい、暖簾をくぐって店を出ていく。その背中を視線で追いかけていた葵は、視界の隅にわだかまる黒い煙に気づいてぎくりとした。
黒い煙は、空席の椅子の下に置かれた風呂敷から吹き出している。
忘れ物? なんだか……悪い予感がする。
葵が目を凝らしていると、向かいに座る丙が箸を置いた。
「葵さん、どうしたの?」
「あの……あの風呂敷から、黒い煙みたいなものが出ているんです」
「君にしか見えないものがあるってこと?」
丙はすぐに察した様子で立ち上がり、風呂敷に近づく。葵は一緒についていった。
風呂敷の近くに落ちていたものを丙が拾う。
それが薄黒い花弁に見えて、葵の腕に鳥肌が立った。
……それ、なに? まさか。
脳裏に、琢朗の忠告がよみがえる。
『そのあやかしが立ち去ったあとには、墨で染められたような桜の花弁が残る』
『もし、それらしいあやかしを見たら、逃げなさい』
丙は花弁をポケットに仕舞い、しゃがみこんで風呂敷包みを解いた。眼鏡を持ち上げて中を検分する眉間に皺が寄り、穏やかな彼にしては珍しく大声を発する。
「ここに爆弾がある。全員、外へ!」
「なっ……⁉︎」
葵の背筋を、ぞわりと悪寒が駆けあがる。
「爆弾だって⁉︎」
「きゃああっ!」
店内に悲鳴と怒号が湧き、がたがたと椅子を鳴らして客が逃げていく。それを背景に、葵の目には金色に煌めく蝶の群れが黒い煙に向かって集まり、煙を薄めていくのが見えた。
蝶が舞い、淡く光る鱗粉が散る。それが黒い煙を消していく。煙がなくなると用が済んだというように蝶も消えていく。
それは、恐慌状態の店内とは真逆の、静かで、幻想的な光景だった。




