20、怠け者の置時計
翌朝の青空には、浮世絵師が気ままに筆を遊ばせて描いたような薄雲が流れていた。
「まあ、ご夫婦で街歩きですか。初めての街歩きは人生を彩る格別な思い出となりましょうから、とびきり着飾っていってらっしゃいませ」
フミは張りきって外出着を選んでくれた。
白地に薄青の流水と撫子が散る絽の単衣だ。
薄藤色の名古屋帯を締めて水晶細工の簪を挿し、薄水色の鼻緒の草履をはいて外に出ると、丙が待っていた。
丙は淡い灰色の三つ揃えに黒革の靴を履いている。
手にはカンカン帽子を持ち、銀縁眼鏡の奥で鳶色の瞳を細めている姿は、雑誌や絵葉書で見た帝都の紳士風だ。首の後ろで結わえた亜麻色の髪も優雅で、葵は束の間、「あの髪を半結びにしてリボンで飾ってみたい」と思ってしまった。
「葵さん、涼やかで清楚な着物だね。よく似合っているよ」
「おそれいります。あと、今日の帝都のお天気は、夕刻から崩れるそうです!」
葵が新聞で知った情報を教えると、丙は「そうなの」と空模様を仰ぐ。
「教えてくれてありがとう。それじゃあ、軽く買い物して雨が降らないうちに帰ることにしようか」
真っ白髪の運転手、風切が黒塗りの自動車のドアを開けてお辞儀する。その瞬間、中にいた真っ黒の毛玉がポンポン跳ねる。車童だ。
「あおいしゃま。じゅじゅちゅしでございます」
「じゅじゅちゅし? ……呪術師?」
「それでございます〜! じどしゃこであやしい動きをしていたのでございます」
「じどしゃこ……」
車童の言いたいことは、いまいち要領を得ない。葵は丙の袖を引いた。
「丙様、じどしゃこってわかりますか? 呪術師があやしい動きをしているみたいなのですが」
「どうしたの、葵さん?」
丙が不思議そうにしているので、葵は車童がいる場所を手で示した。
「丙様、ご存じですか。この車に小さなあやかしがいるんです。真っ黒で、まんまるで、可愛い……」
「きゃー! ぼく、かわいいでございます? てれるでございます~!」
車童は丸い体を左右に揺らして喜んでいる。
葵はそっと車童を指でつまみ、撫でてみた。さらっとしていて、手触りがいい。
丙はそれを見ようとするように眼鏡を持ち上げる。
「へえ、僕にはまったく見えない。そこにいるの?」
「愛嬌たっぷりですよ。小さな子供みたいに喋るんです」
「いいなあ。僕も見てみたいよ……」
丙は残念そうにしながら、視線を門の付近へと彷徨わせた。
「それで、呪術師だっけ? あやかしが呪術師がいるって教えてくれてるのかい」
視線の先には、木造の小屋がある。
「自動車庫。あれのことかな。芦屋家の自動車を停める倉庫だよ」
丙が小屋に向かうので、葵はその後ろをついていく。
「じどしゃこ。自動車庫。なるほど……」
「芦屋家は陰陽道の名門だから、招かれざる客が敷地内に入ればすぐに誰かが気づくよ。だから、いるとしたら一族の呪術師だと思うけど。誰だろうね」
「芦屋家には呪術師もいるんですね」
「一応、三人いる」
丙は警戒する様子もなく小屋を覗き込む。葵はその後ろからそっと中を見た。
小屋は広くて、何台も自動車が並んでいた。自動車はかなり高価な乗り物のはずなので、芦屋家の資産が恐ろしくなる。
しかも——気になるものを見つけてしまった。
「誰もいないな」
丙が呟く声を聞きながら、葵は手前に停まっている黒い自動車に近づいた。
自動車には、黒いもやもやとした煙がまとわりついていた。よく見るとそれは、術式が読み取れる。
「葵さん? それは東屋敷の自動車だよ。何か見えるの?」
「これ、呪術です」
そこにあるのは、蝶子夫人が扱っていたものと酷似している術式だった。
『ブレーキを踏むと加速する』
あまり聞いたことのない言葉が組み込まれている。葵は困惑しつつ、丙を見上げた。
丙の眼鏡の奥で、鳶色の瞳が「気になる」という好奇心の色を見せている。
——私も気になる。この仕掛けはどういうものなんだろう。
「丙様、この呪術は、ブレーキというのを踏むと加速する仕掛けのようです。意味がわかりますか?」
問いかけてみると、丙は表情を曇らせた。
「葵さん、ブレーキというのはね、自動車が速度を緩めるための減速装置なんだ。それを踏んだときに加速する仕掛けが施されているなら、大変だよ」
丙が深刻な声と表情で言うので、葵は驚いてしまった。
「帝都では自動車の事故が増えているんだ。速度を出した自動車が何かに衝突すると中の人間は大きな衝撃に見舞われる。大けがをしてしまったり、命を落とすことだってあるんだよ」
「大変じゃないですか」
しかも、東屋敷の自動車ということは武政や波美子が危険だ。
——誰がこんなことを。
「私、この術式を安全なものに書き換えます。気づいてよかった。車童くんに感謝しないと」
「ああ……人を呼ぼうと思っていたところだったけど、葵さんは術式を書き換えられるんだったね……」
「任せてください」
「ありがとう。兄さんは高い地位を目指して目立った活動をしがちなので、敵も多いんだ」
やはり、権力闘争みたいなものがあるらしい。
——同じ芦屋家の内部で、命を奪うような仕掛けがされるなんて……。
葵は波美子が心配になった。
蝶子夫人の術式に似ているので、書き換えるのに手間取ることはない。
『ブレーキを踏むと減速する』
「これでよし」
問題のない文言に変えていると、丙は芦屋家の使用人を呼んで何事かを言いつけていた。
「この件は兄さんと芦屋家の当主にも報告しておくよ。誰が仕掛けたのかの調査や、再発防止措置も必要だろうから」
その後始末が済むと、丙は改めて葵を西屋敷の自動車へと誘った。
「家を出る前に出鼻をくじかれるとは思わなかったけど、おかげで兄さんたちの危機に気づけた。気づかなかったらと思うと恐ろしいよ。本当にありがとう、葵さん」
「じゅじゅちゅし、たおせたでございます~? 金烏がたおしたでございます?」
車童はきゃっきゃっと声をあげる。葵は車童に頭を下げて感謝を示した。
「車童くん、ありがとう。自動車に危ない仕掛けがされていたみたい。教えてもらえなかったら大変なことになるところだったよ」
「さいきん、おおいのでございます! ぼくのおともだちのくるま、何台もこわれちゃったでございます」
中の座席に落ち着くと、自動車は銀座通りへ向かった。
自動車の中では、車童が楽しそうに跳ね回っている。
「お出かけでございます~? 仲良しでございます~?」
車童が無邪気な声をあげるので、葵は丙の横顔を窺った。
視線に気づいたように葵に視線を流す彼は、車童がどんなに騒いでも聞こえていない。
車童がキャッキャと肩に乗って跳ねていても、気にする様子がない。
それがなんだか面白いような、滑稽なような。
「そうそう、葵さん。買いたいものとかあるかな」
「あ……はい! とてもあります!」
「元気がいいね。つられて僕も元気が出るよ」
葵は持ってきた風呂敷包みを撫でた。
中身は、働くのをやめてしまった寝室の置時計だ。
車童は「その子は前の持ち主が亡くなってからしょんぼりと働く気を失くして、わざと止まるのでございます」と教えてくれる。
「怠け者でございます〜!」
——時計も持ち主に情を抱いたりするのか。
葵は切ない気分になりながら、教えられた情報を丙にも共有してみた。
「今朝見たら止まっていたので、修理してみてはと思ったのですが」
「ああ……それ、この車と一緒にもらったやつなんだ。何度修理しても止まるんだよね。せっかくだから新しいのを買おうか」
丙は古い置時計を撫でてやり、面白がるように話しかけた。
「君は働くのがいやだったのかい。無理に仕事をさせてすまなかったね。僕の部屋に移すから、これからは好きなだけお休み」
銀座通りには煉瓦や石造りの建物が並んでいる。
着物や洋装の人々が行き交い、路面電車が鐘を鳴らして走るさまは、圧巻だ。
「丙様。私、外を自分の足で歩いてみたいです」
「いいね。街を知るなら、歩くのが一番いい。健康的でもある」
丙は車を停めさせ、外に出ると、真っ白な日傘を広げた。
下に入ると、陽射しが遮られて、ひんやりと涼しい。二人は肩を寄せ合い、帝都を共に歩き始めた。




