18、キューピーちゃんを拾うなよ
一方、芦屋家の書庫では、葵が休憩を挟みつつ、読書を満喫していた。
茄子川は高い棚の本を取ってくれたり、選んだ本を持ってくれたり、読書用机に麦茶を運んでくれたりと、意外にも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
「お勉強熱心なところは丙様と似ていますね」
「丙様はお医者様ですものね。一生懸命お勉強なさったんだろうなあ」
「それはもう。私はずっと見ていましたよ」
心なしか、態度は柔らかくなっている。
話してみて感じたのは「茄子川さんは丙様が好きなんだな」ということだった。
同じ貧民窟育ちだというので、それでだろうか。家族的な感じがする。
「丙様は芦屋家にいらっしゃる前……まだ五つ六つのころから文字の読み書きを独学で勉強なさり、私が盗んできた本をあっという間に読んでしまわれたのですよ。天才だと思いましたね」
「それはすごいですね」
途中で「盗んできた」という不穏な言葉が聞こえた気がするが、その点に触れて改善しかけている関係を悪化させる必要もあるまい。葵は読み終えた本を棚に戻し、新しい本を選んだ。
何冊目かの本を手に取ったとき、事件は起きた。
本棚が、ぶわりと黒い煙を吹き出したのだ。
「葵様……!」
「えっ——」
茄子川が腕を引き、後ろへと葵を下がらせる。
直後、鼻先を掠めて人形が落ちてきた。
可愛い顔立ちの人形は、流行りのキューピー人形だ。
煙はすぐに消えて、人形だけが残される。
「こ、これは——」
茄子川はキューピー人形から大げさに距離を取り、深刻な顔で言った。
「これは、書庫の妖精による、祟りではないでしょうか」
はい?
葵は眉をひそめた。
「芦屋家の書庫には妖精がいるんですか、茄子川さん?」
「妖精はどこにでもいます、葵様。お花の妖精などは有名ではありませんか。ならば書物にも妖精は宿るはず」
「それが、なぜ祟るのでしょうか」
「きっと書庫の妖精は私と同じく女子供が苦手で、奥様が書庫にいらっしゃるのをいやがっているのかも。一刻も早く外に出ましょう」
「茄子川さんは女子供が苦手なんですか」
——でも、一応守ってくれたんだな。
丙を慕っているみたいだし、根は悪い人ではないのだろう。
キューピー人形を拾うと、茄子川は慌てた様子で悲鳴を上げた。
「なっ、おい、待っ……馬鹿、キューピーちゃんを拾うなよ、祟られちまうだろが」
「茄子川さん、素が出ちゃってます」
——わが家の家令は、素が出ると口が悪くなる。
葵は冷静に棚を調べた。
「この仕掛け、前にも見たな。芦屋家の門のところで。ということは、犯人は……本邸の怜央坊ちゃま?」
呟いたとき、右側の棚のあたりからゴトッと音がした。茄子川は「妖精かッ」と叫び、両手に本を持って剣と盾のごとく構えた。
一応、葵の右に立って構えてくれているので、守ってくれようとしているらしい。
なお、二人揃って視線を投げかけた右側の棚の陰からは、男の子が登場した。
腕を組み、えらそうに二人に近づいてきた男の子は、八歳ほどの年齢に見える。
「ふん。おれの仕掛けを覚えるとは、見どころのあるオンナだぜ」
格好つけたい年頃らしく、背伸びして偉そうにしている。
仕立ての良いセーラー襟の白い上衣に紺色の半ズボンが似合っている。さらさらの金髪をしていて、子猫のような碧眼はくりくりと大きく、釣りあがっている。
その表情が毛を逆立てて威嚇する子猫を想わせて、葵はきゅんとなった。
「怜央坊ちゃま、初めまして。葵でございます。茄子の人形ってあるんですね」
「お前、東屋敷の悪霊憑き女の仲間だな」
「東屋敷って、もしかして波美子のことですか? 悪霊憑きとは?」
膝をついて首を傾げると、怜央坊ちゃまは「おれの話をききたいのか?」と目を輝かせる。
もしかして誰かに構ってほしかったのだろうか。
「あの女は花に墨を塗っていたんだ。それに、蛙を赤ちゃんって呼んでた。料理しようとしてぼや騒ぎも起こしたんだぜ。悪霊憑きだ。変なことばっかしてるんだ」
「波美子は料理に慣れていないですからねえ」
でも、がんばろうとしたんだな。
波美子の元気な姿が目に浮かぶ。葵は懐かしくなった。
そこに、使用人がやってくる。
「怜央坊ちゃま、西屋敷の方々と、なにかございましたか」
「東屋敷の悪霊憑き女の話をしてやったんだ」
と、そのとき、葵の手から誰かがキューピー人形を取り上げる。
キューピー人形を視線で追いかけて、葵は「あっ」と声を上げた。
「武政様」
「おう。久しぶりだな」
武政がいつの間にか隣に立ち、八重歯を見せて笑っていた。
墨色の羽織に鼠色の着物を重ね、仙台平の袴を端正に着こなしている。
久しぶりに見る武政は、前にもまして威風堂々として見えた。
軍人らしいというか、もっと昔の時代なら武士と呼ばれるのが似合いそうな偉丈夫だ。
武政は顎を引いて葵の肩をぽんと叩き、前に出る。
そして、低く落ち着いた声で使用人たちを見渡した。その視線が怜央坊ちゃまで止まると、坊ちゃまは使用人の後ろに身を隠した。
「嫁に頼まれて本を探しにきたのだが、俺の嫁の陰口が聞こえたぞ。それに、怜央坊ちゃまは、また異能を乱用なさったのか?」
「おれはわるくない。ほんとうのことを言っただけだ。イタズラだって、挨拶みたいなものだろ」
「俺の愛妻を悪霊憑き呼ばわりするのは不快だな。次におっしゃったら、うっかり大人げないことをしてしまうかもしれないぞ」
「むう……」
武政は波美子を大切にしている様子なので、葵はほっとした。
怜央坊ちゃまは、使用人の脚にしがみつきながら逃げていく。葵はハッと思い出し、怜央坊ちゃまを追いかけてキューピー人形を返してあげた。
「それはあげたんだ。ばーか」
馬鹿と言われる理由はわからなかったが、怜央坊ちゃまは可愛かった。
「怜央坊ちゃま、波美子って、実家にいるときも蛙を赤ちゃんに見立てたりして、ちょっと面白い子なんです。でも、優しくていい子なんですよ。私の大切な妹なんです」
「そ、そうなのか」
「悪霊が憑いていたら大変ですから、私が様子をみて、必要ならお祓いしますね」
「……そうするといい。その……」
怜央坊ちゃまは、腰に手を当て、むすりとしながら言った。
「わるかったな」
頬が夕陽に照らされて、苺のように赤くなっている。
昼間の青空を閉じ込めたような瞳には、少しだけ照れくさそうな好意が揺れていた。
——くっ……。
葵の胸がきゅんとときめいた。怜央坊ちゃまは可愛かった。




