17、霊障の女学生
その頃、丙は勤め先の診療所で患者を診ていた。
——葵さん、今頃は書庫を楽しんでいるかな。
気に入ってもらえるといいけど。
僕が書庫を案内してあげたかったな。葵さんがどんな顔で本棚を眺めるのか、見てみたかった。
精霊蜻蛉を飛ばして見に行こうかな。
いや、人の命を預かる医者としては、診療中は余計なことを考えないで目の前の患者に集中しよう。
下町にある診療所は、祭り囃子や、べらんめえ調の親爺たちの怒声が聞こえてくる。
貧民窟育ちの丙は、上流階級の集まりよりも、下町のほうが好きだ。地域に根差した診療所で働く仲間たちや、そこに安心して通ってくる町民が好きだ。
患者が「診療代が払えないが、代わりに庭で育てた野菜を」と渡してきたり、「弟にやちゃしくしてね」と言いながら弟の手を握って診察を見守る幼い付き添い人を見ると、優しくしたいと思う。
「次の方どうぞ」
「失礼します、先生」
診察室に新たな患者が入ってくる。初めて見る女学生だ。
矢絣模様の銘仙の着物に袴姿で、マガレイトに結った髪には女学校の規約ぎりぎりの大きさのリボンが二つ結ばれている。
——そういえば、こういうリボンは流行してるんだよな。葵さん、こういうの好きかな。似合いそうだな。
「今日はどうしましたか」
「先生、ごきけんよう。今日は体調がいいの。どこも診る必要はないわ」
丙は「そうでしたか」と微笑を浮かべた。居心地がいいのか、単に立ち寄ってみたり世間話をするだけの患者はめずらしくない。
雑談してみると病に気づくこともあるので、気軽に訪れてもらえるのはいいことだ。
女学生も、「体調がいい」と言いつつ顔色がよくない。目もどこか遠くを見ている……。ちゃんと診察したほうがよさそうだ。
「診察と治療が必要なのは、先生です。人生の診察と治療です」
なんだか気味が悪いことを言い出したぞ。どうしよう。
「先生、私、聞いたんですけど……結婚なさったんですよね」
「はあ。そうですね。僕は結婚しました」
「絶対に不幸になりますよ。離婚するべきです」
「なんてことを言うんだ」
思わず口調が乱れてしまう。
近くで見守っていた助手も「ええ?」と驚いた声をあげ、よく見ると目が楽しそうに輝いていた。面白がられている。
「先生に憧れていたんですか。つらいよね。先生ひどいね」
——僕を悪者にするな。なにもしてないよ。
助手が女学生の肩に手を置くと、女学生はすぐに振り払った。拍子に、墨色の花弁がひらりと袖口から落ちる。
「とっても偉い方が私を選んでくれたの」
焦点の合わない目で陶酔するように言うので、丙の背筋に冷たいものが走った。
「……偉い方というのは、どなた? どこで知り合ったのかな?」
「忘れちゃった。でも、その方が丙先生のお嫁さんの話をしたの。もし本当なら、別れたほうが絶対ええよ、教えてあげたらって」
「そんなことを言われたからと別れる夫婦がいるものか」
丙は思わず真顔で言い返し、机の上に置かれた南京錠付きの薬箱を開けた。薬箱の中には、丙特製の霊障用の治療道具がある。
女学生の症状は、帝都で暗躍する有名なあやかしによる霊障だ。
丙は過去にもこんな霊障患者に出会ったことがあった。
そのあやかしの被害者は毎回、墨色の花弁を落とす。まるで怪盗の予告か何かのようだ。
霊障患者を放置するとどうなるかというと、暴れて本人や他者が怪我をしたり、体調が急変して奇病としか言えない症状で亡くなったりする。
「僕は妻と別れる気はありません」
丙は薬箱から丸々としたどんぐりを取り、女学生の手に握らせた。
すると、まるで静電気のような反発が一瞬起きる。
常ならぬもの、人外のもの。
そういったものが、丙には見えない。
だが、どんぐりからは金色の芽が出て、女学生に憑いたものを祓い始めているはずだ。
——自分が使っている異能の効果が自分の目で見えないって、不器用だよな。
自分の偏った能力に苦笑気味になりつつ、丙は診察終了を告げた。
「ご助言はお断りいたします。そのどんぐりは、お土産にあげます」
「……先生? あれ? 私、寝てたみたい……」
「そうみたいですね。お大事に」
女学生は憑きものが落ちたような顔になり、診察室を出ていく。
——芦屋家にも報告したほうがいいだろうな。
最近、あやかしによる霊障被害が増えている。
丙がポケットに入れた花びらを指先で弄っていると、助手が「ふふ」と笑う。
「先生でもあんな冷たい声で怒っちゃうことがあるんですね。でも、お気持ちはわかります」
「僕、そんなに冷たかった?」
その日の午後には、診療所の同僚や患者の間で妙な噂が広まっていた。
足の骨折で通院していた大工の親爺さんが言ったのだ。それはもう、真剣な顔で。
「先生、奥さんに何をして嫌われちまったんだい」
「はい……? な、なんの話でしょうか?」
「おれは味方だ。男同士、腹割って話そうや。先生、結婚したてなのに離婚の危機なんだろう。でも、別れたくないんだって?」
「えっ……」
「結婚生活三十年の俺が謝り方を教えてやるよ、頼ってくれや」




