16、禁じられた呪術
「葵さんの都合がよければ、明日あたり帝都観光はいかがかな。休みを取るよ」
「ぜひお願いします」
ふと、丙の温厚そうな瞳の色に、一滴だけ緊張の色が混ざる。
「葵さん。結婚したので少し自分のことを話しておこうと思うのだけど、僕はね、上流階級の付き合いが苦手なんだ。権力を持つ人たちの中にいると、時々疲れてしまう」
「は……はい?」
何を言い出すのだろう、この旦那様は。
「けれど、外にいるときや他人の前では、まあまあ他人様が好きで世俗に順応したふりをして、それなりにうまくする。これは思うに、程度の差こそあれ、みんなしているのではないかな」
「はあ、まあ、そうかもしれませんね」
「うん、うん。家庭によっては、夫婦でもそうだ」
丙はそう言い、立ち上がると、葵に手を差しだした。
左手を重ねると、ポケットから指輪を出して薬指にはめてくれた。
これは結婚指輪だ。葵はどきどきした。
丙の左手を見ると、同じ場所に同じ指輪がある。
小さな白銀の輪は、まるで自分の居場所を示す印のよう。
「波美子とシロツメクサを摘んで指輪を作ってはめ合いっこしたことはあったんですけど、本物の高価な指輪なんて初めてです……あ、いえ」
ぽろりと呟いてから、「貧乏くさいことを言ってしまった」と後悔する。
田舎の貧乏娘みたいな言動をしては、夫や家の恥になってしまう。
気を付けないといけない、と心の中で念じていると、丙はそんな心を見透かすように笑った。
「葵さん。僕も貧民窟にいたころはシロツメクサの茎を吸って、甘い汁を味わっていたものだ。指輪を女性に贈るのも、君が初めてだよ。これから、一緒にたくさんの初めてを経験していこう」
丙はそう言うと、葵の手を持ち上げて指先に口付けをした。
葵がどきりとして固まっていると、続いて濃紺の革製ケースを取り出している。
「葵さん。これは芦屋家の書庫の利用者証だよ」
開くと、中には名刺ほどの大きさの札が収められている。
四隅には桜と蔦の透かし彫りが入っていて、中央には芦屋家の家紋と『芦屋家書庫 閲覧許可証』という美しい明朝体の文字があった。
「書庫は陰陽寮の隣にある。利用するときは茄子川を連れていくといいよ。荷物持ちにもなるし」
それでは行ってきます、と仕事に出かける丙を見送り、葵はさっそく書庫に行ってみることにした。
書庫に向かう道すがら、庭を見ると、庭の隅で梔子が白い花を咲かせていた。風に乗ってふわりと流れてくる薫りは甘やかだ。
新しい家を、贈られた指輪をはめて歩く。可憐な花を眺めながら、いい匂いのする風に吹かれて。
向かう先は、知らない知識が山のように眠っているであろう書庫だ。
——こんなの、浮かれてしまう。なんて楽しい新生活だろう!
◇
芦屋家の書庫は二階建ての独立した建物で、地下室もある。
中に入ると本棚が所狭しと並んでいて、葵は目を輝かせた。
「ここの本を全部読むのに何年かかるだろう。圧倒されちゃう」
それに、掃除も行き渡っていて埃ひとつない。
『呪印図鑑』『あやかし名鑑』『禁じられた呪術』……題名だけでも興味が惹かれる本がいっぱいだ。
——蝶子夫人は、こういう本に載っている術をお父様に使ったのかな。
葵は『禁じられた呪術』を手に取った。
すると、後ろで見守っていた茄子川が「その本は題名がないのですね。珍しい」と呟く。
「……? ここに、題名が……」
指先で文字をなぞり、葵は気づいた。これは普通の人間には見えない文字だ。
——こういう術もあるのか。
しかも、本全体がうっすらとした結界のようなもので守られている。まるで、尭司家で波美子の部屋を鳥かごみたいにしていた蝶子夫人の呪術みたいだ。
葵は丁寧に結界をほどき、本を開いた。
なにせ、ちょっと前まで必死で呪術に対抗する方法を調べていた身。
呪術関連の書となれば、興味を抑えられない。なにより『禁じられている』というのがページを開く背徳感と好奇心をそそる。
——どれどれ。
他人の心を自分好みに染める方法。寿命を永遠に伸ばし続ける方法。
他人の体に自分の魂の一部を移して乗っ取る方法……。
知らなかったことを知るのは高揚するけど、こんな本を読んでしまっていいのだろうか。
でも、そんな背徳感が楽しい気もする。




