15、どなたのせいなんです?
障子越しに差し込む朝日が、部屋をやわらかな光で満たしている。
——もう朝……。
緊張して眠れないかと思ったけど、意外と眠れるもんだな……。
再び葵が目覚めたとき、葵は熟睡中の丙に抱きしめられていた。
目を開けた瞬間に、はだけた着物の前合わせと隙間から覗く胸板が見える。
わあ。
驚いたが、声を上げるのは堪えられた。
意外と重い腕を持ち上げて、起こさないように気をつけながら、隙間から抜け出す。
心臓はどきどきと脈打っていた。布団から抜け出して振り返るが、丙はよく眠っている。
規則正しく呼吸を繰り返す寝顔を凝視するのは、はばかられる。
葵は視線をそらし、音を立てないように忍び足で隣室へ続く扉から自分の部屋へと逃げた。
ちょうどその時、廊下からフミが洗面器と手拭いを載せた盆を運んでくる。葵の姿を見たフミは、静かに頭を下げた。
「お目覚めでございましたか、葵様」
朝の挨拶は小声だ。まだ隣室で眠っている人がいるからだろう。
「これからお声掛けしようと思っておりました」
「あ……ごめんなさい」
「とんでもないことでございます。お湯をお持ちいたしました」
衣装棚に並ぶ嫁入り道具として持ってきた着物の中から、桜鼠色で菱文様の単衣を選び、生成色の帯を結ぶ。
フミに手伝ってもらいながら身支度を進めていると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。
すると。
「あら……まあ」
葵の髪に櫛を通していたフミが何かを見つけたように声を上げた。
……?
顔を見上げると、フミは慈愛に満ちた菩薩のような笑顔になっている。
「葵様、首筋に跡がございますよ。昨夜はお帰りが遅かったですのに……新婚さんですものね……うふふ」
フミは何を言っているのだろう、と気になって鏡で首筋を確認させてもらうと、虫刺されができていた。
「虫に刺されたみたいです」
「あら、うふふ。そうですね。困った虫さんですわね」
フミは「目立つとお恥ずかしいでしょうから」と意味深に微笑みながら首筋に小さなガーゼを当て、絆創膏でそっと留めた。そして、菩薩のように慈愛に満ちた眼差しで微笑む。
「奥様。お食事の支度はなさらずともよろしいのですよ。ゆっくりお休みくださっても大丈夫ですの。お疲れでしょう……」
「いえ。私に料理をさせてください」
尭司家で波美子の世話係として働く間も料理はしていたし、作るのも食べるのも好きなのだ。
隣室で寝ている丙に自分が作った朝食を食べてもらうのを想像すると、作り甲斐があるように思える。
葵は料理の支度をさせてもらうことにした。
◇
庭先でヒヨドリが鳴いている。
葵は厨房に入り、袖をたすきで留めて、棚を見回した。
食材を前に、何をつくるのかを考える時間は嫌いではない。出来上がりを思い浮かべながら、葵はフミに提案した。
「今朝は味噌汁と卵焼き……それに、鯵の干物を焼きましょうか」
すると、フミが目を輝かせた。
「まあ、葵様。丙様の好物を把握していらっしゃるのですね」
え、どれ?
「どれが好物なんですか? 知りません」
「あら、知らずに偶然ですの? それはそれで運命的ですわ」
フミの喜ぶ理由はよくわからないが、丙は鯵が好きらしい。
身がしっかりしており、脂が程よく乗る鯵は、葵も好きだ。
水分を抜くことで旨み成分が凝縮し、焼いたときに香ばしい風味が立つ。
先に焼いた面の方がきれいな焼き色がつくので、葵はフライパンに油を熱し、盛り付けのときに上部に向けられる予定の身を下にして焼く。
身側に焼き色がついたら裏返し、お酒を鍋のふちに沿って大きく円を描くように入れる。
ふたをして少し蒸し焼きにすること、しばし。
ふたをはずして弱火で水気が飛ぶまで焼くと、美味しそうなふっくら焼きの、出来上がり。
フミが作ってくれた大根おろしを添えて皿に盛る。
新しい環境にいるのに、料理をしていると、いつも通りな気分になる。
フミは江戸味噌をお玉に乗せて箸で湯に溶いていて、島では麦味噌を使っていたので、そこは新鮮だ。
味噌汁、出汁巻き卵、鯵の干物の焼き物、大根おろしに沢庵、それに炊きたての白飯。順番に盛り付けて二人用の食卓が置かれた食堂へと運ぶ。
西屋敷の食堂はこぢんまりとしていて、四人も座ればいっぱいになる程度の広さだ。大きな窓からは朝日が差し込んでいて、明るい。
丙は背広姿で椅子に座り、新聞を読んでいた。
食卓の中央には花瓶が置かれ、淡い紫色の桔梗が一輪だけ活けられている。
フミが耳打ちして、「あの花は丙様が買ってこられたのですよ」と教えてくれた。
「おはようございます、丙様」
フミが料理を運ぶ後に続いて葵が最後の一品として鯵料理の皿を置いて席に着くと、「おはよう」と挨拶が返ってくる。
丙は眼鏡の奥で鳶色の瞳を細めた。
「なんだか別人のようだ。お嬢さんっぽい」
素朴な声色で呟かれた感想に、葵はどきりとした。
「丙様はお嬢さんより使用人がお好みでしたっけ」
「え。ああ……あのときのあれか。まだ覚えていたの。君は記憶力がいいな……」
否定しないので、葵は半眼になった。一瞬褒められたと勘違いしかけたが、この青年の「お嬢さんっぽい」は「好みから遠ざかった」という意味なのだ。
——そんなことを言われても、私は好きな格好をするけどね。
「葵さん? 何か怒ってる?」
「いえ、全然」
「ほんとかな。一応、言い訳をするけどね、僕は別に使用人が好きなわけじゃないんだよ。ただ、身分が低い相手のほうが僕のやりたいことに適しているなと思って……普段話していて気楽なのも……」
「それって身分が低い相手が好きってことでは?」
こほん、こほんとわざとらしく咳払いする丙から目を逸らして、葵は手を合わせた。
「まあ……好みは仕方ないと思うので。いただきましょう」
つい指摘してしまったけれど、食事はおいしくいただきたい。
気持ちを切り替えて料理を見ると、丙も手を合わせて「いただきます」と唱えた。
葵は出汁巻き卵を口に運んだ。うん、おいしい。
「おいしいね。葵さんは料理上手だな」
「おそれいります」
「なんか、島で話していたときより距離が遠いな。もっと気安くしても誰も咎めないよ……、ん?」
丙は顔を上げ、左手で眼鏡を持ち上げると、葵の首筋を注視した。
「葵さん、その絆創膏はどうしたんだい?」
フミがその言葉に眉を寄せる。
「まあお坊ちゃま。どなたのせいなんです? 人目に触れるのが恥ずかしい繊細な乙女心がわからないなんて」
何の話をしているのだろう。葵はフミの心がわからなくなった。たぶん、丙も同じだろう。不思議そうにしている。
「フミはどうして怒ってるのかな。昨日も言ったけど、お坊ちゃまと呼ぶのはやめてほしいな」
「立派な紳士の配慮を身につけてくださればお坊ちゃまとは呼びませんよ」
「僕は立派な紳士だよ」
なにやら剣呑な言い争いに発展しそうな気配ではないか。
葵は慌てて口を挟んだ。
「昨夜、虫に刺されたんです。フミさんが手当てしてくださったので、問題ございません」
「あぁ……帰りに蚊取り線香を買ってくるよ」
フミはぶつぶつと何事かを呟きながら食堂を出ていく。
「蚊のせいにして……旦那様を庇われて、葵様はなんて健気なのでしょう」
いったい、何の話だろう。
「よくわからないけど、フミは葵さんが気に入ったようだね」
「フミさんには、よくしていただいています。なんというか、元気が出る方ですよね」
西屋敷に着くまでも、着いてからも、フミの明るい声は葵に元気をくれたように思う。
葵はそれをありがたく思いながら、丙に気になっていた点を聞いてみた。
「丙様って、金烏の力や蟲術が使えますよね? そして、それを内緒になさっておいでです……?」
「ああ、うん。そうなんだ。僕、町医者の仕事が気に入っているものだから」
丙はその言葉にあっさりとうなずく。
その言いようだと、能力がないほうが町医者をしやすい、ということだろうか。
芦屋家は能力主義だとフミは言っていた。
「能力が高いと町医者なんてしてないで芦屋家のために陰陽師をしろ、と言われる?」
「いや。皇族業をがんばれ、と言われるかな」
「おお。そちらでしたか。では、私も内緒にしておきますね」
「助かるよ。ありがとう」
少しわかってきた気がする。葵はすっきりと話を切り替えた。
「私、帝都を見てみたいんです。あと、芦屋家の書庫にも興味があって……」
まるで弱みを握ってお願いを聞いてもらうようで、少し可笑しい。
丙は肩を竦めておねだりを聞き入れてくれた。




