14、我が家へようこそ、葵さん
これは夢だ。そう思いながら、幼い葵は泣いていた。
りん、りん、と風鈴が鳴る。遠い夏の日の記憶を呼び起こすような、か細い音だ。
葵はそれが恋しくて、懐かしくて、寂しくて——悲しい。
「くすん、くすん……」
子供の目には広くて長い廊下は、似通った白い襖が延々と続く。
自分は、どこかに行きたい気がする。
けれど、どこに行ったらいいのかわからない。
誰かに手を引かれていた気がするけど、気づいたら誰もいなくなっている。……ひとりぼっちだ。
こんなときに、波美子なら母親を呼ぶのだろうか。そんな考えが泡沫のように浮かんで消える。
葵の母は、いない。葵が赤ちゃんの頃に亡くなっている。
なんか、しんどいな。
足を止めて座り込みそうになったとき、廊下の向こうから父が顔を覗かせる。
「葵。どうしたんだ……」
まだ若い父、琢朗は葵の味方だ。葵はほっとした。
「おとうさま」
「泣いてるのか。お父様のお姫様は何が悲しいのかな?」
葵は言葉に詰まった。
夢を見る葵の思考はふわふわしている。
なんでだっけ。
それを、お父様に言っていいのだっけ。
これは過去の夢だ。
どうして泣いていたのか、何が悲しいのか——葵は、その心を隠さないといけないと思った。
だから、何も言わなかった。
父はそんな愛娘から無理に聞きだすことはなく、優しくその体を抱き上げた。
「よおし、よし。お父様のお部屋に珍しいお菓子があるぞ」
父に抱えられるのは好きだった。
父の腕の中だけが、世界で唯一、何も怖くない場所だった。自分が特別な存在なのだと浮かれて、誇らしくなる。
縁側に座り込む。
りん、りんと風鈴が鳴る。
陽射しが風鈴の縁に当たってきらきらしている。
——ああ。私の夏は、ここにある。
葵はぎゅっと父に抱きついた。父はそんな葵を愛しそうに撫でてくれた。
——あったかい。ここには私の居場所がある。
母親はいないけど、私にはお父様がいる……。
「おとうしゃまー」
無邪気で明るい声が飛び込んできたのは、そのときだった。
葵を見ていた父が、そちらを見る。
「おお、波美子か。どうしたんだい」
「あのね、えほんをよんでもらって、えをかいたの。あ、葵もいるのね」
◇
なんだか、胸がもやもやとする夢を見た気がする。
葵はぼんやりと瞬きをした。
深呼吸すると、爽やかな果実のような匂いがする。
自分は布団の中で横たわっていて、部屋はまだ暗い。深夜だ。
何気なく首を横に傾けて、葵は目を瞠った。
壁にもたれかかって座る姿勢で、丙が眠っている。俯いた鼻先に、緩く下がった銀縁眼鏡が落ちそうになって引っかかっていた。
ね、眠っていらっしゃる……。
丙は顔色が優れず、疲れているように見える。
いつ帰ってきたのか知らないが、遅くまで働いてようやく入眠したのなら、ゆっくり休ませてあげたい。
しかし、どうすれば。
葵はそろそろと布団から這い出た。
布団をかけてあげた方がいいのではないかと思って掛け布団を摘んだとき、ちょうど丙が目を開けた。
「……うーん……あれ。葵さんが起きてる」
「あ、起きました……?」
二人合わせて首を傾げて制止すること三秒、葵は三つ指ついてお辞儀をした。
「君をお迎えする大切な日に帰りが遅くなってすまなかったね。急患が運ばれてきたものだから」
「それは大変でしたね……お疲れ様です」
助けられたよ、と微笑む顔は優しくて、葵も自然と顔を綻ばせる。
この人は誰かの命を助けてきたんだ。誰かを救えたことを喜んでいるんだ。
そう思うと、胸の奥が温かくなる。
「先に休ませていただいてました。本日からよろしくお願いします」
「あ、うん。こちらこそよろしくお願いします。葵さん、その……我が家へようこそ」
折目正しい挨拶を返しながら、丙が照れたように笑う。葵はつられたように気恥ずかしさを感じて布団に潜り込んだ。
「お疲れでしょうし、寝ませんか?」
顔を半分隠して言うと、丙は亜麻色の髪を揺らしてうなずく。
「それでは寝かせてもらいます……」
二人並んで布団に横になると、柚子を思わせる爽やかな香りがする。
いい匂いだな、と居心地よく思うのと同時に、葵は自分が臭くないかが心配になった。
同じ布団に横になっていると、無駄に動くのも躊躇われる。
誰かと一緒に寝るというのは、結構、気を使うものだ。
「帰ってきたときに君が寝てたから、今日から一緒なんだなぁとか勝手に横に潜り込むのはどうだろうとか、でも起こすのもなぁとか考えていたんだよ」
「さようでしたか」
「寝相はいい方だし、いびきもかかないけど、嫌なことがあったら教えておくれ」
「私も、大丈夫だとよいのですが……何かあれば申し訳ございません」
雨だれのような静かな声で会話を続けているうちに、少しずつ緊張がほぐれていく。
葵はゆったりと意識を手放し、心地よい眠りに身をゆだねた。
◇
丙はまだ眠れずにいた。
「葵さん。僕の父母は愛がない一夜の関係で、僕は望まれない子供として生まれて捨てられたんだ。それもあって、夫婦の関係は急がなくていいと……」
新婚の床で話すには、重苦しくて風情がないだろうか。
気にしながら話しかけていた丙は、ふと言葉を止めた。
隣から規則正しい寝息が聞こえている。視線をちらりと隣に向ければ、葵はすやすやと寝入っていた。
——思えば葵さんも疲れていただろうに、あれこれ話しかけて眠るのを邪魔してしまったな。
丙は目を閉じた。
疲れているはずだが、一度眠ったせいか、まだ寝付けない。
今日は早く帰らないといけなかったのに、最近増え始めた自動車による事故で運ばれてきた急患を救命していたら、すっかり帰りが遅くなってしまった。
患者はなんとか一命を取り留めたが、くたびれて帰ってみればフミが怒っていて、茄子川は土下座をする。
いったい、なんなんだ。
新婚の夜らしい雰囲気は、すっかり消え失せていた。
もっとも、早く帰ってきても、艶めいた雰囲気にはならなかっただろうな、とも思う。
丙は女と付き合った経験はない。貧民窟時代からの仲間や患者の中にはもちろん女性がいるが、恋愛をしたことはなかった。
貧民窟時代は生きるだけで精一杯だったし、子供だった。
芦屋家に引き取られてからも、医者になる夢を叶えたくて懸命に勉学に励んだものだ。
彼女を起こさないように寝室に忍び込んだときは、奇妙な背徳感に襲われたものだ。
近づくのが躊躇われて、丙は壁に張り付いて座っていた。
妙なことばかり考えながら眼鏡をはずして拭いてみたり、かけなおしてみたりと、落ち着かない気分で時間を過ごしていたのを覚えている。
そうこうしているうちに、日中の疲れもあって、一度眠り——目が覚めたときには、葵が自分に気づいていた。
「先に休ませていただいてました。本日からよろしくお願いします」
三つ指ついてお辞儀をする所作は美しく、「お嫁さんを迎えたんだな」という実感が湧いてきた。
それから浮かれたようになって、妙なことを話した気がする。丙は焦ったが、葵は素直な声色で言葉を返してくれた。
葵の声は、暗闇にひとすじだけ注ぐ月の光のようで、こころに染みわたる。
もっとたくさんの言葉を聞いてみたくなる。
遅く帰ってきた丙を責めることもなく、疲れていて眠かっただろうに、話し相手になってくれて、葵さんは優しいな……。
振り返っているうちに、ようやく睡魔がやってくる。
丙は夢の中で彼女を抱きしめて、首筋に唇を寄せた。夢の中の自分は大胆だ。
そういうことは、まだ早い……と思う。




