13、歓迎されてないんだな
白髪交じりの黒髪を後ろに撫でつけた西屋敷の使用人らしい男は、駆けつけた葵に気づいて眉をあげた。
「どなたですか、あんた」
磨かれた靴も上質な洋装も所作も一流なのに、口から出る言葉だけが妙に荒っぽい。葵は妙に親近感を覚えた。
自分だって令嬢らしく着飾っているけど、そんなにお上品じゃないもの。
「初めまして。私は料理をしにきました、葵と申します」
「は? あんた……」
「ぎゃあっ! 茄子川、何をしているのです! 他の使用人はどうしました?」
後ろから飛び込んできたフミの悲鳴が耳に痛い。
この人は茄子川さんというらしい。
葵は名前を覚えつつ、厨房の食材と調理器具を確認した。
「どうせ私が作るつもりだったので、問題ありません。フミさん、手伝ってください」
初めて使う厨房は何がどこにあるのかわからない。
葵は尭司家の書庫を思い出した。
黒焦げでぼろぼろの厨房で物を漁りながら郷愁に駆られるなんて、おかしな話だ。
ひとしきり説明してから、フミが「手伝いを募ってまいります」と厨房を出ていく。すると、茄子川は何かを呟く。どことなく仄暗さの滲む早口ながらも、使用人として教育を受けたのが窺える丁寧な言葉遣いで。
「お料理がおできになるのは結構ですが、丙様のお仕事は邪魔なさいませんように。丙様はあの縁談を、少なからず後悔しておられるそうです」
葵は茄子川を凝視した。茄子川は呟いたあとで気まずそうに視線をそらし、背中を丸めて自分が焦がした鍋を洗っている。
彼の口の端からは、わずかだが黒い煙が漏れていた。葵には、それが感情に反応して漏れ出しているように見えた。
——敵意だよね、あの煙。私、歓迎されてないんだな。
「まあ、そうですよね。丙様、求婚直後にすでに撤回したそうな顔してましたもの。かと言って今さら実家に帰ったりしませんけど」
そう返した瞬間、フミが入り口からにょきっと顔を出す。会話が聞こえたらしい。
「わたくしが離れかけたのを見計らって何をほざいているのです」
「げっ」
「何が『げっ』です。わたくしが席をはずした隙に葵様をいびろうなどと、性根の腐った真似をして」
フミは厨房に戻り、包丁を手に取って先端を茄子川に向けた。
こ、怖い。茄子川も恐怖の表情で鍋を抱きしめている。
「フミさん、包丁下げて」
強めに言うと、フミは素直に包丁を置いてにっこりしてくれた。
「はい、葵様」
そして、刺すような眼差しを茄子川の上から下へと流した。
「次にやったら、ちょんぎりますよ」
葵はこっそりと胸に誓った。
——この人は怒らせないようにしよう……。
フミはそのあと茄子川を厨房から追いやって、本邸から使用人を呼んできた。手伝いのおかげで夕食は無事に用意することができたのだが、丙が帰宅する気配はいまだにない。
食堂のテーブルに夕食のお盆を置いて窓の外を見ると、夕陽が街並みを茜色に染めている。赤く染まった屋根や窓が、まるで別世界の景色のように美しい。
そこへ、茄子川がやってくる。
「葵様。丙様から、ご帰宅が遅くなるので先に休んでほしいと連絡がございました」
茄子川は丙から届けられたものらしき絵葉書と贈り物の包みを渡してくれた。
青い朝顔の花が咲く絵葉書には、丁寧な印象の文字が書かれている。
『西屋敷へようこそ、葵さん。申し訳ありませんが、今夜は帰宅できるかわかりません。フミはもともと本邸の怜士様付きだった優秀な人、茄子川は貧民窟にいたころからの仲間です。安心して頼ってください。それと、東屋敷の波美子夫人が葵さんにお手紙を書くと宣言なさっていました。お返事を書くために必要なものを贈ります。丙より』
贈り物の包みをほどいて確認すると、黒軸の万年筆と桜の透かし模様が入った白百合色の便箋と封筒が入っていた。可愛くて、使うのがもったいない。葵が便箋と絵葉書を何度も見比べていると、フミはぷりぷりと怒り出した。
「帰宅できるかわからないだなんて、ひどいですわね。殿方はこれだから。花嫁様がいらした特別な日ですのに」
茄子川はこそこそと逃げていく。怯えている……。
ひとりきりの食卓に気を使ってか、フミは夕食の間、そばに控えて料理の話や武政や丙の話をしてくれる。
身の丈ほどもある大きな金烏を出して二人でその背に乗ったと言う話など、すごい話ばかりだ。どこまで本当でどれぐらい誇張されているのか判別つかないが、「武政様の尻もちで北海道が生まれた」というのは嘘だろう。
話を聞く限りだと、兄弟は兄の武政が金烏の力を奮い、弟は何もできない……らしい。
「武政様は、蜻蛉を飛ばして偵察したり、蜻蛉の体でしゃべったり、蜻蛉がいるところに人間の体を召喚したりできますか?」
「蜻蛉? いいえ、葵様。武政様は蟲術は扱われません。そういった術が得意なのは、蜂須賀家の異能者ですわね」
「丙様は、蟲術が扱えるのですか?」
「葵様。あいにく、丙様は何も……」
——これ、どういうことなんだろう。能力を隠しているとか?
フミと話しながら違和感を飲み込んでいくうちに、食事はすっかり平らげることができた。お腹いっぱいだ。
「葵様。お口に合いましたようで、なによりですわ」
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
お母様がいたら、こんな感じだったのだろうか。ふとそんなことを考えてしまう。
夕食の後に檜のお風呂に浸かると、心身がゆったりと寛いだ。
◇
夜空を流れる薄雲の向こうに、上弦の月が静かに浮かんでいた。
まだ満ちきらぬ月の淡い光は、見慣れない寝室に静かに差している。
葵は新しい居場所になるその空間を、ひとつひとつ確かめるように見回した。
天井には照明の電灯があり、照明をつけたり消したりするための紐が垂れている。
枕元に置いてある照明は、しっかりした板上の土台の上に金属の首がまっすぐ伸びて釣り鐘型の電灯を支えている形だ。
縦長の箱型の置時計もあって、上部に呼び鈴が付いていた。
土台の部分に電源があるので、葵は照明を消した。
ふっと部屋が暗くなる。
目が慣れるまでの間、庭の虫が絶え間なく涼やかな声を重ね、遠くでは風に揺れた草花がさやさやと葉擦れを奏でていた。
しばらく耳を澄まして、なにか足りない気がして、考える。
——ああ、この部屋には、風鈴の音がないんだな……。
葵は少しだけ郷愁に駆られそうになり、苦笑いしながら寝返りを打った。
寝具は柔らかく、寝心地がいい。
横になってすぐ眠気が訪れ、ほどなくして、葵は寝息を立て始めた。




