12、芦屋家の西屋敷
「葵様。そろそろ、よろしいですか?」
「あ、うん。ごめんなさい、フミさん。つい夢中になってしまいました。でも、危ないですね、あの仕掛け。もし包丁とかが降ってきたらイタズラで済みませんよ」
「葵様は、お見受けする限りですと芦屋家の奥方様としての適性が大変高くていらっしゃいますわね。素晴らしいです。たくましくないと、戦えませんからね」
「何と?」
芦屋家の広い敷地は、大きな四つのお屋敷とその周りに展開する建築群で構成された城下町のようだった。
フミは葵を敷地内の西へと連れていく。
「このあたりからが西屋敷でございます」
吹きさらしの渡り廊下から西屋敷の庭を見ると、背丈の低い木枠で区切られた草花の畑が広がっている。
小判形の可愛い葉が規則正しく連なる植物に、ぎざぎざの葉の上に白い小花が傘のように丸く集まって咲く植物。濃緑の葉の付け根に薄紫色の可憐な花を抱える植物——優しい印象の庭だ。
甘草のやわらかな甘み、薄荷の涼やかさ、芍薬の上品な香りが風にほどけて漂ってくる。それが、まだ知らない家の記憶として胸に残った。
「フミさん、いい香りがしますね。あのお花は芍薬でしょうか」
「ええ。丙様は薬草や薬花を好んで育てられておいでです。お薬の調合もなさるのですよ」
薬草庭で穏やかに草花の世話をしている丙を想像すると、胸が温かくなる。
彼に育てられた植物は、誰かの命を助けるお薬になるのだ。
「素敵だと思います」
葵は目を細めた。
フミは「葵様はお優しいですわね」と呟き、芦屋家の説明を続けた。
「本邸には芦屋家当主の怜士様と直系の方々。別邸には分家の方々が住んでおられます。あちらは学び舎の陰陽寮。季節の行事や怜士様が招集なさった際には、本邸に集まっての親族会もございますわ」
フミの話によると、芦屋家の中でも有力な方々が住む大きなお屋敷は四つ。東屋敷、西屋敷、南屋敷、北屋敷だ。葵の嫁入り先、樹宮丙は芦屋家の西屋敷に住んでいる。
「他のお屋敷を訪問するときは使用人を通して、訪問の約束をして訪ねます」
「はい、承知しました」
「芦屋家では夕餉を奥様が作るしきたりですが、もちろんわたくしがお手伝いいたしますからご安心くださいませ」
「フミさんが手伝ってくださるのは頼もしいです」
フミは丙の普段の帰宅時間について教えてくれる。
「丙様はまだお仕事からお戻りになっていないご様子ですわね。お帰りが待ち遠しいこと」
丙の勤務先の診療所は数名の仲間と運営していて、特別な問題がなければ夕刻頃に帰宅するのだという。
「こちらが葵様のお部屋です。お部屋の中にある戸は隣に設けられた寝室に繋がっておりますわ」
「過ごしやすそうなお部屋ですね。ありがとうございます」
葵の部屋は、和洋折衷の雰囲気のある内装だ。モダンな家具が並ぶ室内には、隣室とつながる扉がある。
葵は荷物を置き、訊ねた。
「フミさん、厨房はどちらですか」
「本日は結構ですのよ。ご到着したてでお疲れでしょう」
「私、体力あるんです」
尭司家ではお嬢様生活ではなく使用人として働いていたから。という言葉を飲み込み、葵は厨房の場所を教えてもらった。
「この先ですわ、葵様」
厨房に近づくと、甘い薬草の香りを押しのけるような焦げ臭さが鼻を刺した。視界も薄く煙っている。
……火事?
葵は慌てて駆けだした。
厨房の扉を開けると、焦げ臭い煙の匂いがいっそう濃くなって、盛大な舌打ちが飛んでくる。
「くそっ、また失敗しちまった。丙様にこんなもん出せねえ。本邸から呼んだ使用人は、怜央坊ちゃまに呼ばれたからって帰ってこねえしよ」
首元に蝶ネクタイをした黒い三つ揃え姿の三十路ほどの男が、焦げた鍋の後始末をしていた。




