10、お見えになりますか?
やがて、葵にも旅立ちの朝が訪れた。
本土へは船で渡り、その後、汽車で帝都へ移動する予定だ。
「式をあげる時間を惜しんでさっさと籍を入れるほど入れ込んだお相手と聞いて、お会いするのを楽しみにしておりましたのよ」
道中付き添って世話をしてくれるのは、体格のよい女性だ。
栗色の髪を後ろで丸髷にきっちりと結い上げていて、目元は優しそうな垂れ目で、どこか包み込むような温かさがある。
「フミと申します。お坊ちゃまたちが六歳ぐらいのころからお世話をしてまいりました。護符師としても免状を持っておりますわ」
「護符師……ですか」
「護符を作る術師ですわ。葵様は感知系の異能があり、他者の結界を書き換えると聞きました。誘導師や術式編集師に向いていらっしゃると存じます」
——誘導師? 術式編集師?
名前だけではピンとこないが、都会にはいろいろな術師がいるらしい。
「……葵です。お世話になります」
「葵様。御髪が短いのも素敵ですが、伸ばす予定はございますか?」
「そうですね。事情があって短くしていたのですが、伸ばしてみたいかもしれません」
「ええ、ええ。ぜひに。お坊ちゃまを綺麗な御髪で骨抜きにして差し上げるとよろしいですわ」
成人している男性を使用人が「お坊ちゃま」と呼ぶのは珍しい気がするが、それが許されていそうな雰囲気があるのがフミだった。
「武政様だけがご結婚なさると思っていたら丙様も、と聞いて、それはそれは驚いたのですよ。情熱的な恋に落ちたとお聞きして、本当に……大人になられて……ねえ」
「じょ、情熱的な恋?」
フミは満面の笑みを浮かべている。何か勘違いされているみたいだと気づき、葵は焦った。
「フミさん、そのお話はどこでお聞きになったんですか? 情熱的な恋なんて……」
「あらあら、恥ずかしがってしまわれて。 うふふ。若いって素敵ですわね」
フミに悪意はなさそうだが、一度信じ込んだらそれが絶対になってしまう気質なのかもしれない。
「丙様は、葵様がとても目が良いのだと仰せでしたよ。それに、お優しくて行動力があるのだとか。独学で知識をつけていらっしゃるともおっしゃっていましたね」
「あの方がそんな風におっしゃっていたのですか。なんだか恥ずかしいです」
フミは懐から小さな櫛を取り出して葵に渡した。
「振ってごらんくださいませ」
「……?」
言われるがまま櫛を上下に振ってみると、櫛の輪郭が淡くぶれて、金魚が出てきた。
背なりの綺麗なふっくらとしていて、体の色が赤と白の二色だけで構成された赤更紗の金魚は、神秘的に尾を揺らし、空中を泳ぐ。
「お見えになりますか?」
フミは、どこか試すような笑みを浮かべている。
金魚は空中を優雅に浮遊し、葵の周りを一周して、やがて櫛へと戻った。
「金魚ですね。綺麗。この子、付喪神ですか? 振ったら出てくるの?」
葵がまじまじと櫛を見ていると、フミはうれしそうに言う。
「そのご様子ですと、見えましたのね。わたくしには見えないのですが、本当にお目がよろしいようで」
「金魚が出て、消えちゃいました」
「この櫛には金魚が憑いていて、髪を梳かすとしっとりと濡れたような艶が出るのですわ。芦屋家の関係者は力ある者を重んじますので、無能な嫁は居場所がなくなってしまいますの。お目がよろしくて素晴らしいこと」
フミはすっかり上機嫌になり、どうやら葵を気に入ってくれたようだった。
◇
澄み渡った海へと、船はゆったりと滑り出す。
出航の後、海の景色が望める窓付きの部屋で到着までの時間を過ごしながら、葵はフミが見せてくれた新聞を読んでいた。
「帝は太陽のごとき金烏の加護を持ち、国家の万民にその加護を分かち合ってくださる、神事政務の担い手……」
だから、金烏の加護があるのはすごいことなのだ。
でも、あのときを振り返ると、どうも金烏の力を使っていたのは武政ではなくて丙だったように思えるのだけど。
「都で一目置かれているのは、神裔名家と呼ばれる異能力持ちの家門……」
そこに尭司家の名前があったので、葵は誇らしくなった。
「陰陽道の名門、土御門家に芦屋家。都を捨てた人魚の末裔、尭司家。緑と蟲を従える蜂須賀家。祖先に鬼の花嫁を持ち、その膂力を継ぐ鬼神院家……」
記事は、「尭司家の血脈が続いていることが判明した」と、それがさもすごい知らせであるかのように書いている。葵はその記事を何度も読み返した。
船が帝都に近づくにつれ、思い出すのは琢朗が日記につづった文だった。
『世の中は変化していく。
帝都は、そんな予感を目に見えて感じさせてくれる都だ。
煉瓦造りの洋館と瓦屋根の長屋が同じ町に並び、自動車と人力車が同じ道を走る。電話線が頭上に巡らされていて、夜になれば電灯が街を照らす……もちろん、新しい時代になったからといって、古いものがすぐさま消えるわけではない。
電灯の下を走る市電の車内では、今夜も怪異の噂が囁かれる。
幽霊、怨霊、あやかし――人ならざるものは、昔話の中だけの存在ではなく、実害をもたらす身近な存在。
怪異による災いは今なお各地で起こり、そのたびに陰陽道を受け継ぐ土御門家や妖術師の名門から妖刀を佩いた討滅隊が出動するのだ……』
「楽しみだなあ」
琢朗が憧れた都。
父が夢見た景色を、自分もこれから見るのだ。
フミにもらった金魚憑きの櫛を撫でると、金魚が室内を踊りだす。
ゆらゆらと楽し気に回遊する姿は優雅で、窓辺で少し止まって外の海を見るさまにはなんともいえない愛嬌があった。
「あっ、何かいる」
金魚がふりふりと尾を振るさまを鑑賞していると、金魚は何かを教えるように窓辺で止まる。
外を覗くと、イルカが見えた。
苛烈な太陽の光に磨かれた万碧の海面に白い飛沫を花びらのように散らしながら、群れですいすいと泳いでいく。
「わあ、すごい。あっ……跳んだ……!」
葵は初めて見るイルカにすっかり夢中になり、窓に張り付くようにして乗船時間を過ごした。
——島では見たことのない景色が、これからいくつ待っているのだろう。




