第81話
その瞬間――。
弘毅の目の前の空間が、大きく歪み始めた。
まるで水面に石を投げ込んだように、景色が波打つ。
「うっ……!」
弘毅は激しい頭痛に襲われ、その場に膝をついた。
『だ、ダメだ……』
意識が遠のいていく。
このまま飲み込まれてしまう――。
そう思った時だった。
『大丈夫だから……』
優しく包み込むような女性の声が聞こえた。
『私がいるから……』
その声は直接、弘毅の頭の中へ響いてくる。
「だ、誰だ……?」
弘毅は苦しそうに顔を上げた。
「俺を呼ぶのは誰なんだ……?」
周囲を見回す。
だが、そこには誰もいない。
次の瞬間――。
歪んだ空間の向こうに、一つの光景が浮かび上がった。
それは静かな部屋だった。
その部屋の中で、彩香は動かなくなった駿一に寄り添うように座っていた。
二人はまるで眠っているように穏やかだった。
悲しいはずの光景なのに、不思議と温かさがあった。
「彩香……?」
弘毅は思わず、その名前を口にした。
胸の奥が締め付けられる。
なぜだかわからない。
だが、その姿を見ていると、どうしようもなく悲しくなった。
そして――。
幻のような光景は、ゆっくりと闇に溶けるように消えていった。
気が付くと、弘毅は再び迷路のような廊下に立っていた。
「い、今のは……何だったんだ?」
弘毅は呆然と立ち尽くした。
彩香。
駿一。
二人の姿が脳裏から離れない。
その時だった。
カツ――。
カツ――。
静まり返った廊下の奥から、硬い靴音が響いた。
弘毅の表情が強張る。
聞き間違えるはずがない。
ナース姿の奈津だ。
足音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。
「いかん……」
弘毅は重くなった身体を無理やり動かした。
「ここで捕まるわけにはいかない……!」
そう呟くと、再び迷路のような廊下の奥へ向かって走り出した。




