第63話
「はい……ママ。」
奈津は小さく頷くと、糸で操られた人形のようにゆっくりと弘毅の方へ向き直った。
その瞳には、もう優しかった奈津の面影はない。
感情の消えた瞳が、ただ弘毅だけを見据えていた。
「奈津……?」
弘毅は戸惑いながら、その名を呼ぶ。
「奈津! 俺だ。わかるだろ?」
何度呼びかけても、返事はない。
奈津はまばたきひとつせず、弘毅を見つめ続けていた。
その時だった。
気を失っていた彩香が小さく身じろぎし、弘毅の腕を弱々しくつかんだ。
「に、逃げて……。」
「彩香!」
「ここは……私が何とかするから……早く……。」
か細い声だった。
それでも彩香は必死に弘毅を逃がそうとしていた。
その様子を見ていた加奈子の姿をした女は、不気味な笑みを浮かべる。
どこからともなく一本のナイフを取り出し、奈津へ差し出した。
「さあ……我が娘よ。」
奈津は無表情のまま、そのナイフを受け取る。
「この男を殺しなさい。」
その命令に、奈津は静かにうなずいた。
そして、一歩ずつ弘毅へ近づいてくる。
「奈津……やめろ!」
弘毅は叫ぶ。
しかし奈津の足は止まらない。
刃先がゆっくりと弘毅へ向けられる。
「くっ……。」
弘毅は拳を強く握り締めた。
(戦えない……。)
目の前にいるのは敵ではない。
自分が守ると決めた奈津なのだから。
「彩香、一旦ここを離れる!」
弘毅は彩香を抱き起こすと、奈津の動きを見極めながら後退した。
そして隙を見て、近くの部屋へ飛び込む。
扉を閉めると、ようやく息をついた。
彩香を壁にもたれさせると、弘毅は心配そうにその顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
彩香は苦しそうに息を整えながら、小さくうなずいた。
弘毅は唇を噛み締める。
「どうすればいい……。」
奈津を傷つけず、この研究施設も止める方法――。
「もう、他に方法はないのか?」
弘毅は最後の望みを託すように、彩香へ問いかけた。




