第34話
加奈子は弘毅の腕の中にいる子犬を見ると、不思議そうに首を傾げた。
「あら、駿一。その子犬、どうしたの?」
弘毅は胸の中で落ち着かない様子の子犬を優しく撫でた。
子犬はまだ加奈子を警戒しているのか、小さく唸り声を漏らしている。
「森で出会ったんだ」
弘毅は子犬の頭を撫でながら答えた。
「ひとりぼっちみたいでさ……」
そして少し遠慮がちに続ける。
「しばらく、ここで飼ってもいいかな?」
加奈子は困ったように微笑んだ。
「そうねぇ……」
診療所兼自宅で犬を飼うのは簡単なことではない。
返事に迷っていると、診療所の奥から狭間が姿を現した。
「しょうがない奴だな」
呆れたように言いながらも、その口元には笑みが浮かんでいる。
「ちゃんと自分で面倒を見るんだぞ」
その言葉を聞いた弘毅の顔が明るくなった。
「本当か?」
「その代わり最後まで責任を持て」
狭間はそう言って弘毅の頭を軽く小突いた。
その仕草は、まるで本当の父親のようだった。
弘毅は思わず笑った。
「わかったよ」
気づけば自然にそんな言葉が出ていた。
記憶は戻らない。
自分が何者なのかもわからない。
それでも、この場所にいると不思議と心が安らいだ。
まるで失くしていた居場所を見つけたような気がする。
すると急に空腹を思い出した。
弘毅は加奈子の方を向く。
「それより、ご飯はまだ?」
その一言に加奈子は思わず吹き出した。
「はいはい」
優しく微笑む。
「今すぐ用意しますからね」
その笑顔は、まるで息子を見守る母親そのものだった。
加奈子は子犬に一度だけ微笑みかけると、診療所の奥へ向かう。
夕食の支度を始めるためだ。
弘毅は子犬を抱きながら、その後ろ姿を見つめていた。
胸の奥がほんのりと温かい。
しかし同時に、森で遭遇した黒服の男達のことが頭から離れなかった。
穏やかな時間の裏側で、何かが少しずつ動き始めている――。
そんな不安だけが、心の片隅に残っていた。




