第31話
弘毅は狭間の診療所を後にすると、森沿いの細い道をゆっくりと歩き始めた。
海から吹く風が木々を揺らし、葉擦れの音が静かに響いている。
どこか懐かしい景色だった。
弘毅は立ち止まり、周囲を見回した。
「この道……」
胸の奥がざわつく。
「知っている気がする……」
確かに見覚えがある。
だが、それがいつの記憶なのか思い出せない。
森。
細い道。
木漏れ日。
何か大切な思い出がすぐそこまで来ている気がした。
その時だった。
ガサガサ――。
森の茂みが大きく揺れた。
弘毅の身体が反射的に動く。
咄嗟に腰の後ろへ手を回し、身構えた。
まるでそこに何か武器でもあるかのように。
視線を鋭く周囲へ走らせる。
だが次の瞬間、弘毅自身が驚いた。
「……何をやってるんだ、俺」
思わず呟く。
なぜそんな行動を取ったのかわからない。
身体が勝手に動いたのだ。
記憶は失っていても、身体だけは何かを覚えている。
そんな不気味な感覚だった。
しばらく警戒していると、茂みの中から小さな影が飛び出してきた。
現れたのは一匹の子犬だった。
茶色い毛並みの、小さな雑種犬。
震えながら弘毅を見上げている。
「なんだ、お前か」
弘毅は苦笑した。
「驚かせるなよ」
子犬は小さく鳴いた。
まるで自分も不安だと言いたげだった。
その姿を見た弘毅は自然としゃがみ込む。
「お前も一人なのか?」
ゆっくりと手を伸ばした。
だが――。
パクリ。
「あっ!」
子犬は弘毅の指先を軽く噛んだ。
大した痛みではない。
しかし、その瞬間だった。
ズキン――!
鋭い痛みが頭の奥を貫く。
「うっ……!」
弘毅は思わず頭を押さえた。
視界が揺れる。
そして再び、記憶の断片が流れ込んできた。
青々とした森。
木漏れ日の差し込む小道。
楽しそうな笑い声。
その先には、一人の少女がいた。
奈津によく似た顔立ち。
だが、どこか違う。
少女は子犬を抱き上げながら笑っていた。
『可愛いね、弘毅』
優しい声が聞こえる。
『真理……』
弘毅は無意識にその名を呟いた。
少女――真理。
その名前だけははっきりと思い出せた。
だが、それ以上は霧がかかったように見えない。
記憶の映像は再び闇の中へ沈んでいった。
弘毅は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。
「真理……」
胸の奥が苦しくなる。
懐かしい。
会いたい。
なのに、どんな人だったのか思い出せない。
足元では子犬が不思議そうに弘毅を見上げていた。




