第29話
「お帰りなさい……駿一」
加奈子は涙をこぼしながら、そっと弘毅を抱きしめた。
その腕は小刻みに震えている。
まるで、もう二度と離すまいとするかのように。
「た、ただいま……母さん」
弘毅は戸惑いながらも、小さくそう答えた。
本当はわかっている。
自分は駿一ではない。
加奈子が待ち続けていた息子ではないのだ。
それでも――。
その温もりは不思議なほど懐かしかった。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
まるで長い旅を終え、ようやく帰る場所を見つけたような気がした。
それに弘毅は、加奈子の悲しそうな顔をこれ以上見たくなかった。
だから今だけは、その言葉を否定できなかった。
◇
狭間の診療所でゆっくり休んだおかげか、弘毅の体調はかなり回復していた。
だが、自分が誰なのかという肝心な記憶だけは戻らない。
名前も。
家族も。
ここへ来た理由も。
何一つ思い出せなかった。
そんな弘毅を見て、加奈子はますます放っておけなくなった。
「行く場所がないなら、ここにいなさい」
加奈子は優しくそう言った。
「でも……」
「遠慮しなくていいのよ」
その言葉には、母親のような温かさがあった。
狭間も反対はしなかった。
弘毅自身も、今は行く当てがない。
結局、しばらくの間、この診療所で世話になることになった。
◇
しかし、奈津だけはそうはいかなかった。
翌日には東京で仕事がある。
いつまでもここに残るわけにはいかなかった。
診療所の前で、奈津は帰り支度を終えた車にもたれながら弘毅を見つめる。
「ねえ。本当に一人で大丈夫?」
その声は明るく聞こえたが、どこか寂しそうだった。
弘毅は苦笑する。
「大丈夫だよ。狭間さん達もいるし」
「そうだけど……」
奈津は納得できない様子だった。
短い付き合いのはずなのに、弘毅を一人残して帰ることが妙に不安だった。
弘毅もまた、胸の奥に小さな寂しさを感じていた。
気づけば奈津は、自分にとって特別な存在になり始めていたのかもしれない。
海から吹く風が二人の間を通り抜ける。
奈津は少し俯き、それから顔を上げた。
「また来るから」
そう言って微笑む。
弘毅も微笑み返した。
「ああ。待ってる」
その言葉を聞いた奈津は、少しだけ安心したように笑った。




