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第29話

「お帰りなさい……駿一」


 加奈子は涙をこぼしながら、そっと弘毅を抱きしめた。


 その腕は小刻みに震えている。


 まるで、もう二度と離すまいとするかのように。


「た、ただいま……母さん」


 弘毅は戸惑いながらも、小さくそう答えた。


 本当はわかっている。


 自分は駿一ではない。


 加奈子が待ち続けていた息子ではないのだ。


 それでも――。


 その温もりは不思議なほど懐かしかった。


 胸の奥がじんわりと温かくなる。


 まるで長い旅を終え、ようやく帰る場所を見つけたような気がした。


 それに弘毅は、加奈子の悲しそうな顔をこれ以上見たくなかった。


 だから今だけは、その言葉を否定できなかった。



 狭間の診療所でゆっくり休んだおかげか、弘毅の体調はかなり回復していた。


 だが、自分が誰なのかという肝心な記憶だけは戻らない。


 名前も。


 家族も。


 ここへ来た理由も。


 何一つ思い出せなかった。


 そんな弘毅を見て、加奈子はますます放っておけなくなった。


「行く場所がないなら、ここにいなさい」


 加奈子は優しくそう言った。


「でも……」


「遠慮しなくていいのよ」


 その言葉には、母親のような温かさがあった。


 狭間も反対はしなかった。


 弘毅自身も、今は行く当てがない。


 結局、しばらくの間、この診療所で世話になることになった。



 しかし、奈津だけはそうはいかなかった。


 翌日には東京で仕事がある。


 いつまでもここに残るわけにはいかなかった。


 診療所の前で、奈津は帰り支度を終えた車にもたれながら弘毅を見つめる。


「ねえ。本当に一人で大丈夫?」


 その声は明るく聞こえたが、どこか寂しそうだった。


 弘毅は苦笑する。


「大丈夫だよ。狭間さん達もいるし」


「そうだけど……」


 奈津は納得できない様子だった。


 短い付き合いのはずなのに、弘毅を一人残して帰ることが妙に不安だった。


 弘毅もまた、胸の奥に小さな寂しさを感じていた。


 気づけば奈津は、自分にとって特別な存在になり始めていたのかもしれない。


 海から吹く風が二人の間を通り抜ける。


 奈津は少し俯き、それから顔を上げた。


「また来るから」


 そう言って微笑む。


 弘毅も微笑み返した。


「ああ。待ってる」


 その言葉を聞いた奈津は、少しだけ安心したように笑った。

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