第25話
弘毅は、目の前の初老の男性を見た瞬間、胸の奥が激しく揺れた。
潮風の匂い。
夕暮れの海。
誰かに肩車をされて笑っている幼い自分。
断片的な光景が、一瞬だけ頭の中に閃く。
そして、自然にひとつの言葉が浮かんできた。
「……父さん」
弘毅はかすれた声で呟いた。
狭間は驚いたように目を見開く。
「え……?」
だが、その答えを聞く前に、弘毅の視界が暗く染まった。
全身から力が抜け、意識が遠のいていく。
最後に見えたのは、慌てて駆け寄る奈津の顔だった。
◇
次に目を覚ました時、弘毅は小さな診察室のベッドに横たわっていた。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓から差し込む昼の光。
『ここは……?』
弘毅はぼんやりと辺りを見回す。
頭はまだ重かったが、先ほどの激痛は少し和らいでいた。
その時、診察室の奥から話し声が聞こえてくる。
「……本当に記憶がないみたいで」
「そうか……」
声の主は奈津と狭間だった。
どうやらここは、浜辺で出会った狭間が営む診療所らしい。
街外れにあるその診療所は、昼間だというのに妙に静かだった。
待合室から人の気配はしない。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
弘毅は天井を見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
自分は何者なのか。
どこへ向かおうとしていたのか。
何をやり直したかったのか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
ただ一つ、胸の奥に残っているのは、あの言葉だけだった。
――父さん。
なぜ、初対面のはずの狭間を見て、そう呼んだのか。
それを考えようとすると、また頭の奥が鈍く痛んだ。
やがて診察室のドアが開き、奈津と狭間が戻ってくる。
奈津は弘毅が目を開けていることに気づくと、ぱっと表情を明るくした。
「弘毅! 気がついたんだね!」
そう言って、慌ててベッドの傍へ駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫? どこか痛くない?」
その声には、本気の心配が滲んでいた。
弘毅はゆっくりと起き上がり、奈津を見つめる。
そして、その向こうに立つ狭間へ視線を向けた。
狭間は静かな目で弘毅を見つめ返していた。
まるで、何かを確かめるように。
診察室の空気が、わずかに張り詰める。
弘毅の胸は、不安と懐かしさの入り混じった感情でざわめいていた。




