第12話
弘毅は、自分の額に当てられていたハンカチをそっと外した。
冷たかった布は、もう少し温くなっている。
「あ、ありがとう……」
弘毅は隣に座る奈津へ、小さく頭を下げた。
「少し、楽になった気がする」
そう言って、弘毅は濡れたハンカチを軽く絞り、丁寧に奈津へ返す。
奈津はホッとしたように笑った。
「そっか。良かった」
その笑顔を見ていると、不思議と胸の緊張が和らいでいく。
夜の公園は静かだった。
遠くで車の走る音が聞こえる。
街灯の白い光が、ベンチをぼんやり照らしていた。
しばらく沈黙が続いた後、奈津が遠慮がちに口を開く。
「……そういえば」
奈津は少し首を傾げた。
「貴方、名前は?」
「え……」
弘毅の表情が固まる。
「名前……?」
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
自分の名前。
当然わかるはずのもの。
なのに――出てこない。
胸の奥がざわつく。
思い出そうとすると、また頭の奥に鈍い痛みが走った。
「どうしたの?」
奈津は不安そうに弘毅の顔を覗き込む。
「何か、まずいこと聞いちゃった?」
「いや……その……」
弘毅は言葉に詰まった。
どう説明すればいいのかわからない。
名前がわからないなんて、自分でも信じられなかった。
奈津は気まずそうに苦笑する。
「あ……ごめんね。言いたくないなら別に――」
「ち、違うんだ!」
弘毅は慌てて顔を上げた。
そして少し迷った後、観念したように小さく呟く。
「……わからないんだ」
「え?」
「自分の名前が……思い出せない」
奈津の表情が止まる。
驚いたように、じっと弘毅を見つめていた。
夜風が静かに吹き抜ける。
公園の木々が揺れた。
「……それって」
奈津はゆっくり口を開く。
「記憶喪失、ってこと……?」
弘毅は答えられなかった。
自分でも、何が起きているのかわからない。
未来の駅。
ギャラクシア。
タイムトンネル。
銀色の少女――彩香。
断片的な記憶だけが頭の中を漂っている。
だが、一番大切なはずの“自分自身”だけが抜け落ちていた。
奈津はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
そして、少し困ったように笑う。
「そっか……」
その声は、思ったより優しかった。
同情でも、疑いでもない。
ただ純粋に、弘毅を心配している声だった。
「じゃあ、とりあえず……」
奈津は弘毅の顔を真っ直ぐ見つめる。
「名前、思い出すまで私が考えてあげようか?」
「え……?」
弘毅は思わず目を瞬かせた。
奈津は悪戯っぽく笑う。
その笑顔を見た瞬間。
弘毅の胸の奥で、また小さく何かが揺れた。




