第六章(二)「その色彩を忘れるはずもない」
「ええ、ハイアートです。バンダ=ラバ侯……よく、ご無事で……」
「……無事なものか。イダラバは私のすべてだった。魔族は……命以外のすべてを、私から奪い去ってしまった」
痛々しい表情を浮かべ、彼は弱々しくつぶやいた。
その生気のなさに、胸が苦しくなる。
「……命は、何物にも代えられません。生きて難を逃れられたことは、何よりも大事です」
わずかでも慰めになるような言葉を必死に紡ぐが、バンダ=ラバは小さく首を横に振った。
「であれば、この老いぼれから死すべきであった……魔族の攻撃を受けた時、デルヒズが私を街から逃がしてくれたのだ。私がここに帰ってきたのは──そのデルヒズと、多くの兵、多くの無辜の民の亡骸を埋葬するためだ」
あまりの悲惨さに、二の句が継げない。
デルヒズは領主の側近の魔術師だった。意地の悪そうな顔つきと口ぶりの男だったが、それほどの忠臣だったのかと内心驚くと同時に、彼を誤解していたことを申し訳なく感じる。
「……ここは危険です。ぼくも手伝いますから、早く終わらせましょう」
やっとしぼり出した言葉だったが、老人は再び首を横に振った。
「いや、それには及ばん。それよりハイアート君、君を偉才なる魔術師と見込んで、是が非にも頼みたいことがある」
「はい。ぼくに出来ることであれば、何なりと」
即答すると、バンダ=ラバはほんの少し安心したように、目を細めた。
「──数日前、この街の最後の市民らが、オンデ・ボーを目指して南へと発った。残った兵をすべて護衛に当てたが、彼らを守るには心許ない。ハイアート君、どうか市民たちの後を追って、安全な場所に着くまで守ってはくれんか。謝礼は、何ひとつ出せないが──」
「謝礼なんて、元より欲しいとも思っていません。すぐそちらに向かいます」
バンダ=ラバは満足げにうなずきを返し、ぼくは飛翔魔術の術式を描き出した。
あとは風精霊力を与えるだけの状態まで術式を施して、その手を止める。
「……あの、ぼくみたいな若造が、生意気だと思われるでしょうが──あなたの命が今も在るのは、デルヒズさんたちの『願い』なんだと、ぼくは思うのです。自分の命をどう扱おうが本人の自由ですが、皆さんの『願い』を無下にするような命の扱い方は、考え直すべきです」
バンダ=ラバはしばらく何も言わず、魂の抜けたような表情は変わらなかったが、やがて静かに目を伏せると、
「……そうだな、私は自暴自棄になっていた。ハイアート君、君の言葉、しかと胸に刻もう」
「……ええ。そしてぼくにも、あなたの命が在ることを、願わせてください──では、ぼくは行きます。バンダ=ラバ侯、どうかお達者で!」
風精霊力を目一杯に注ぎ、上空へと高く舞い上がる。滑空へと移行しながらちらりと振り返ると、バンダ=ラバの姿はもう、黄昏にまぎれて見えなくなっていた。
人間の反応があった。
南へと伸びる街道に沿って、風精霊力が尽きるまで空を駆け抜けては着陸し、走りながら風精霊力をためては離陸する作業を、夜が更けて曙を迎えるまで、寝る間を惜しんで繰り返した。
その間は、ただ無人の荒野が続いていた。
正確には、人がいなくなった荒野だ。イダラバ同様に破壊され尽くした町や、総出で避難したのであろうもぬけの殻となっていた集落が、数多く見られた。
心痛な思いと共にそれらを飛び越えて進み、ようやく数キロの範囲で展開していた防衛魔術に人の群れが引っかかった時、ぼくはほっと息をついた。
いや、待てよ。
群衆の中に魔物と思われるような人外のモノの気配はないが、これが魔界の軍勢である可能性も否定できない。ここは慎重を期して近づくべきだ。
地上に降り立ち、光精霊術で姿を隠しながら反応を追う。
やがて街道の先に、ひとかたまりになって進む、人影の集団が見えた。その最後尾には数人の長槍を携え、軍旗を掲げた兵士が守りに就いている。
その旗印は、薄い黄色地に濃い紫色のテッポウユリに似た花の意匠。
イダラバ領家の紋章であり、黒いカラスのような鳥を描いた魔界軍の軍旗でないことに、ぼくは今度こそ全身の緊張が緩むような安堵感を覚えた。
「おーい、おーい! 待ってくれ!」
精霊術を切り、ぼくは手を振って列の最後尾に大声で呼びかけた。しんがりの兵士たちは不意に姿を現したぼくにぎょっとして、槍を腰に据えて警戒を露わにする。
「何者だ!」
「敵じゃない。ぼくはシラカー・ハイアート、イダラバ領主の依頼で難民たちの護衛に駆けつけた者だ」
兵は怪訝そうに、ぼくとお互いの顔を交互に見合わせる。その時、兵士の一人があっと素っ頓狂な声を上げた。
「ハイアートだって? あの『ハナビ』を催した……?」
ぼくは彼の言葉に、にこりと微笑んで頭を縦に振った。それを聞いた他の兵士と周囲の民衆にどよめきが生まれ、見る間に伝播していく。
「ああ、ハイアートさん! まさか本物に会えるなんて光栄です! 俺も子どもの頃にあの見世物を観てすごく感動して、あれ以来イダラバではずっと語り草になっていて──ハイアートさんのお話は、うちの近所に住んでいたエンルバおばさんからたくさん聞かせてもらっていました」
「──エンルバ!」
今度はぼくが素っ頓狂な声を上げる番だった。笑顔で語っていた兵士が、急に血相を変えたぼくに驚いて息を詰まらせる。
「……え、あ、その。悪い噂じゃないですよ? 心配になるぐらいお人よしで、親切な人だったと──」
「そんなのはどうでもいい、君は──エンルバさんがどうなったか、知っているのか?」
「はい? えっと、その……エンルバおばさんは二十週間ぐらい前に、勤め先のご主人と一緒に北の方へ向かいました。ご主人がミムン・ガロデ近くの小さな町にツテがあるとかで、そこで宿屋を再開すると言ってましたが……」
目の端に涙がにじんだ。
形容しがたい喜びに、全身が打ち震える。
「……ハイアートさん?」
「あ、ああ、取り乱してすまなかったね。教えてくれて、本当にありがとう。二人の消息が知れてよかっ──」
ふと、言葉を途切らせた。彼の背後から、群衆をかき分けてこちらに迫る人影が目に映ったのだ。
「ごめんね、ちょっとどいてくれるかい」
最後にかの兵士の肩をぐいと押しのけて、その者はぼくの眼前へと完全に姿を現した。
地球年齢で言えば、十五、六歳ぐらいに見える少女だった。
彼女はぼくの顔を見るや否や、きっと表情を険しくして、のしのしと詰め寄ってくる。
そして、ぼくの外衣の襟元に、がっとつかみ掛かった。
「ハイアート! あたしのこと──憶えてるよな?」
先端を編み込んだ長髪の、茶色がかった亜麻色。
刺すようににらみつけてくる瞳の、深い緑。
外套に縫いつけられた襟の、鮮やかな赤。
何年経っていたって、成長して姿形が変わったって、その色彩を忘れるはずもない。
「ズエン──」
ぼくが言葉を発しようとした時には、少女は、握り込んだこぶしを頭の後ろまで引きしぼっていた。
正直なところ、よけようとすれば容易によけられる。
でもそうしないのは、ぼくが果たすべき、責任だ。
ゴっ。
「カっ……!」
あごに受けた一発が、頭の芯にまで鈍い音と衝撃を響かせる。
なぜ、サン=サンリから遠く離れた、こんな所にいるんだ。
問いかける間もなく、ぼくの目の前は真っ暗になり、急速に意識が遠のいていった。
全身を、小さな振動が包む。
まどろみの中でしばらくその微動を感じながら、ぼくは自分が動く荷車の中で寝そべっていることに気づいた。
うめき声を上げて、身を起こす。
ぼくが寝転がされていたのは、馬に引かせるような大きさのものではなく、人間が引いて歩く小型の荷車──いわゆるリヤカーの荷台だった。そして視界には、それを引く男の背姿が映る。
奇妙な背中だった。
というのも、着ている短衣の右半分と左半分がそれぞれ赤と黄色に分かれているからだ。加えてウグイス色のタイツに、目の醒めるような青い襟巻きをまとっている。
まるで歩く色見本だ。
「──やあやあ、魔術師殿! ようやくお目醒めだね? 気分はどうだい?」
首をねじ曲げて、肩越しに男がこちらを見やる。その横顔には、地球年齢で二十代にかかるかかからないかぐらいの若さがあった。
「……うーん、正直よくないね。まだ頭の中がグラグラするよ」
「それはそれは、お大事に! しかし何でまた、あそこまでズエンカを怒らせるようなことがあったんだ? いつもはとっても優しい娘なのにさ!」
ええ? ズエンカが、優しい娘だって?
口からついて出そうになる思いをぐっとのどの奥に閉じ込めて、ぼくはゆっくりと深呼吸をした。
「いや、まぁ。昔、ちょっとね。君は──ズエンカの知り合いなのか?」
「知り合い? とんでもない! おいらとズエンカは人もうらやむ、お熱い仲なのさ!」
ぼくは驚きに目を丸くした。




