第六章(一)「魔族以外を根絶するつもりだ」
黒い巨躯が、宙に躍った。
身長は五メートルほどだが、まるでキングコングのように隆々とした猿型の魔物がどしんと地響きを立てて着地し、数人のジダバン兵が鮮血にまみれた肉塊と化した。
後詰めの長槍兵が怒号を上げて突進し、数本の穂先が猿魔物の左腕に刺さる。それにまったくひるまず、魔物は血しぶきのように魔素をまき散らす腕を振り抜いて、さらに多くの兵士を吹き飛ばした。
その中の一人が、ぼくの目の前に転がってくる。首と右腕が絶望的な角度にねじ曲がっていた。ぼくは短くうなり声をくぐもらせながら、この戦が始まってから数えて八十四発目の魔力弾を発射した。
疲れのためか、狙いはわずかに右に逸れたが、それでも猿魔物の頭の左半分をえぐり取る。巨体は仰向けにばったりと倒れ、その後ろに隠れていた二体、いや三体の大蛇に似た魔物が迫るのが露わになった。
魔物だけでも何体攻めてきているのか、まったく見当がつかない。しかも魔物は魔界軍の尖兵でしかなく、歩兵や騎兵、そして多数の魔術師がその背後から侵略の歩を進めているのだ。
「撤退ー! 総員撤退ー!」
遠くから声がかすかに届き、それが兵士間で伝言ゲームをするように伝播して、押し寄せる波のごとく次第に大きくなる。
ジダバンの劣勢は火を見るより明らかだ。総員撤退の号令は、むしろ遅すぎるぐらいに感じる。
「総員撤退ー! 総員撤退ー!」
ぼくも伝言ゲームの輪に加わって叫びつつ、敵勢を牽制するための魔力を蓄えながら、後ずさりを始めた。
普段謁見に使用されているという、ココロウゼバ王国ジダバン辺境伯マヒッタ卿の居城の大広間は、血の匂いでむせかえるほどおびただしい数の負傷者で埋めつくされていた。正確に言うと、約三分の一がケガ人、約三分の一が瀕死のケガ人、残りの約三分の一が少し前までケガ人だった死人だ。
まだ動ける兵が薬も清潔な包帯もない状況であわただしく応急手当に回っているが、正直間に合っていない。無論、ぼくも治療魔術で手助けをするが、犠牲者は増す一方だ。
というのも、ぼくが治療しているのは、比較的軽傷の者だからだ。今この時において最優先に治療すべきは、治癒すればただちに動ける者であり、戦える者なのだ。
すぐに出血を止めたり、傷口をふさげば命だけは助かるであろう人間も少なからずいるのに、とやり切れない気持ちを抱くが──今も城門や城壁を打つ音が轟き、振動が絶えず続いているこの状況では、残酷な判断もやむなしと割り切って考える他にない。
急に、大広間の一角でざわめきが起こった。
目をやると、二人の兵士が両脇を抱えて、新たな重傷者を運び込んできていた。一般兵と違い鈍色の板金鎧を着けているが、騎士ではない。
この城の主でありジダバンの領主たるマヒッタ卿本人だった。
「『大魔術師』殿! 治療を……!」
呼ばれる前からすでに駆け寄っていたぼくは、床に横たえたマヒッタ卿の元にひざまずき、早速出血の多い額の傷から魔術を施そうとした。
その指先を、マヒッタ卿は弱々しく、ぐいと押しのけた。
「? 閣下、何を……」
「よい。吾輩はすぐには死なぬ、他の者の治療を優先してくれ──それより誰か、イテサ将軍を探してきてくれぬか。急ぎ兵をまとめ直して、城の防衛態勢を整えるよう伝えたいのだ」
マヒッタ卿がそう言うと、周りの兵士たちが、気まずそうにお互いの顔を見合わせた。間もなく、閣下の最も近くにいた一人の兵が、覚悟を決めたように表情を固くした。
「……閣下。イテサ将軍は、先刻お討ち死にされました」
何とも言えない一瞬の間を置いて、マヒッタ卿は、静かにため息をついた。
「……そうか。もはや、これまでだな──皆に伝えよ。すべての兵の、役務を免じる。すべてを捨てて、散り散りに逃げよ──皆、何としても生き延びるのだ」
「……仰せの、ままに……」
さっきまでジダバン兵だった者たちがあわただしく動き出し、マヒッタ卿の傍らには、愕然とするぼくだけが残された。
「……『六行の大魔術師』殿……お噂どおり、貴殿は強く、慈悲深き勇者であった。貴殿の助力がなければ、今日まで戦い続けることはできなかったであろう……感謝してもしきれぬ」
「──いえ、ぼくはあなたの国を、救いに来たのです。それが果たせなかったことは、何よりぼくの力不足に他ならないです……伯爵閣下、あなたも脱出を。すぐに治療します」
「そのような暇はない。すべてを捨てて逃げよ、と言ったであろう──さあ、早く行かれよ。貴殿だけは、貴殿の助けを必要とする者たちのために、必ず生き残らねばならん……!」
かける言葉が見つからず、ぼくは黙って立ち上がり、ただ首を垂れた。
それから、魔界軍から攻撃を受け続けている城の正門に向けて、振り返ることなく歩き出した。
できるだけ多くの敵の注意を引きつけて、できるだけ他の者の逃亡を支援してから脱出する。それぐらいしか、ぼくにできることはもう残されていない。
戦場に向かいながら、ぼくは、黒いコートの上から懐に手を置いた。そこには──二十年以上前から肌身離さず、大事に持ち歩いてきた、古びた封筒がある。
もはや疑いの余地はない。魔界の、全世界に対する無差別な侵攻──これが予知にあった、この世を破滅せしめる「大きな動乱」だ。
しかし──救世主であるはずのぼくは、次々と襲い来る魔界の軍勢に対して、呆れるくらいに無力だった。
世界は、ぼくだけじゃ救えない。
よく考えなくても当たり前としか思えないが、いざ直面してみて、まざまざと思い知らされる。
ぼくに世界を救う手立ては、ひとつしか残されていない。
オド老師の遺してくれた紹介状を携えて、ゲイバム王を頼る。まさにその時が来たのだ。
今こそ向かおう。ゲイバム王国へ──
──無残な滅びを迎えたジダバン辺境伯領を後にして、三週間を経た頃。
まっすぐゲイバム王国に向かいたい思いを押し殺して、ぼくは、商業都市イダラバを経由する道を選んだ。
そしてかの地へと達したぼくは、ただ絶句して、がっくりとひざを着いた。
かつてヘベニッフ隊商とともに旅立ったイダラバの北門が、原型をとどめない姿でそこにあった。障壁としての役目を果たさなくなった門扉の先は、見渡す限り、美しい街並みだったものの残骸が広がっている。
完全なる破壊。
魔界の軍団が、今まで攻め入った国や街と同様に、このイダラバにも完膚なきまでの打撃を与えていた。
戦争というのは、普通は、奪うために行うものだ。だから、城や家屋や田畑といった占領後に必要なものをむやみに破壊したりはしないし、奴隷にするなり何なりと利用価値のある市民らをやたらと殺したりもしない。
しかし、魔族たちの戦いは違った。そんなものは欲しくもないと言わんばかりに、全てを踏みにじっていく。
魔族の王──魔王は、きっと、魔族以外を根絶するつもりだ。このダーン・ダイマに生きていたという、痕跡すら消し去ってしまおうと考えているのだ。
ぼくほ頭を振りながらよろりと立ち上がると、がれきを踏み越えて駆け出した。遠い記憶をたどりながら向かった先は、この街で数日間過ごした、ソプレンの宿屋。
そして、足を止めた時。
ぼくは、ぼくの記憶を疑わざるを得なかった。
他と同様に、ただ粉々になった木材と石くれが散乱しているだけの荒れ地。ぼくの思い出にある建物は、そこにもう存在していなかった。
頭が真っ白だった。
何も考えられないまま、ぼくは、気づけば何かを探すように積み重なるがれきの山をかき分けていた。
そこに見たくもないモノが見つかってしまうかもしれないのに、それでも、無我夢中になって何かを求めていた。
少し陽が傾き、少し気温の低下を感じて、ぼくはふと我に返った。暗くなれば探索は困難に──いや、暗くなるまでここで時間を浪費して、何の意味があるというのだ。
ここには何もない。ソプレン氏やエンルバさんは、上手いこと逃げおおせたのだ。
そう考えておいた方が、ずっと健康的じゃないか──
「……!」
自分を取り戻したことで、ぼくは気づいた。
家屋の残骸の中に隠れて、人の気配がする。
身構えつつ、耳に神経を研ぎ澄ますと、つぶてを踏む靴音が微かに近づいてくる。
敵か?
いや、イダラバの生き残りかもしれない。
いつでも左手から火炎弾を放てるよう心の準備をしてから、ぼくは、一気呵成に崩れた廃屋の向こう側へと躍り込んだ。
「誰だ!」
叫んだぼくをはっとして振り見たのは、白髪で、しかし足腰のかくしゃくとした老人だった。
しかも……ぼくは、この男に見憶えがある。歳を経ており、当時の威厳も感じられぬほどにボロボロの身なりだったが──
「あ……あなたは、まさか……バンダ=ラバ卿!」
「何と……君はもしや、ハイアート君……なのか?」
ぼくの登場が信じられないといった風に──イダラバ領主、デイン・バンダ=ラバは目を丸くしていた。




