第五章(七)「かけがえのない友人でありたかった!」
思わずベッドから飛び降りて、三畳程度しかない狭い部屋を何度も見回すが、彼の楽器や荷物すら残されていない。途端に、えも言われぬ不安が押し寄せてくる。
──そうだ、「防衛術式」。
今晩もすべからく範囲内の動くものを感知できる例の魔術を施してあり、術式は背負い袋の下に隠してある。ボグーがそれを反応させずに部屋を出ていくことは不可能なはずだ。
部屋の隅に何気なく置いておいた背負い袋を持ち上げると、いつもならそこで銀色の淡い光を放っているはずの魔術式が、きれいさっぱり消え失せている。
一旦効力を発揮した魔術を消すのは、術式に付された魔力を一部でも阻害するだけでよいので容易いことなのだが、それは魔力を制御できる魔術師であればの話だ。
悪い予感がムクムクと頭をもたげてくる。
今すぐ、ボグーを探さねばならない。彼が何を企み、何をしているのかを突き止めなくてはならない。
床に術式を描く。何年か前に、召喚魔術で忽然と消えてしまったズエンカを探す時にとっさに編み出した、防衛術式を応用した「人探し魔術」の術式だ。
ズエンカに限定した部分を「ボグー・フィ=ラ=ボース」に書き換え、魔力を込めて発動させる。感知の範囲を、どんどん広げていき──
思いの外近い距離に、ボグーの動きを、五感とは違う感覚で捉えた。
その存在に集中すると、彼は誰かに話しかけているようだった。その言葉が、音声ではない形で伝わってきた。
「……では・さいしょうどの、ろうぜばじょうの・こうぞうずと・おうこくの・へいりょくの・いさいを・しるした・しょるいを・わたして・もらいましょう……」
──ロウゼバ城の構造図と、王国の兵力の委細を記した書類?
彼の発した言葉を理解しようとする脳の機能がマヒしたかのように、ぼくは呆然とした。
どう考えても、国の防衛に関わる最重要機密だ。そんなものを一国の宰相がおいそれと渡すわけがない。
何がどうなっているのか、さっぱり意味が分からない。
分からないが、ボグーが何かとんでもないことをしようとしているのだけは伝わった。
ぼくは木製の窓の鎧戸を引き開け、自身に素早く「飛行魔術」を施した。漆黒の空に躍り出て、魔族の青年の存在を感じる方に向けて飛び急ぐ。
「……たしかに・いただきました、あなたの・やくめは・おわりました──しんでください」
ほのかに銀の光をまとって夜空を駆け抜ける間も、ボグーの「声」はぼくの中に届いてくる。その感情が感じられない淡々とした口ぶりに、背筋がぞっとする。
彼の反応が、かなり近づいた。その発信元は、現在上空を飛行中のロウゼバ城の城門からあまり離れていない、住宅地の片隅にあった。
ボグーに気取られないよう手前から地上に降り、足音を殺して建物の陰から接近していく。暗闇の中からそっと彼方を覗き込むと、そこに立つ長身の人影が遠目に映った。その足元には、身体を地面に横たえてぴくりともしない、中年の男がいる。倒れ伏した男からは、まるで人形のように生気が感じられない──すでに事切れているのだろう。
ボグーが、こんなにも冷酷に、人を殺めるなんて。
目の当たりにしても、まだ信じられない。信じることができない。
やがて彼は、指先を口元にあてがい、ぴゅうと甲高い音を立てた。
その音に誘われたのか、ほどなくして虚空から何か大きな黒いものが、ばさりと羽音を立てて彼の下に舞い降りてくる。
ゆらめくような禍々しい気配を放つ輪郭に、妖しく血のような赤い光をたたえる二つの瞳。
魔物だ。
巨大な体躯の鷺に似た鳥型のそれは、魔族の青年の目の前に着地すると、じっとして動かなくなった。従順なペットのようにおとなしくしていて、今までぼくが遭遇してきた魔物のような猛々しさはみじんにも見られない。
「命令です。この書簡を、魔王城に届けてください。分かりましたか?」
魔物はギャッと短く鳴いて、そのくちばしに、彼の差し出した筒状のものをくわえた。
事情はほとんど理解できていないが、あの魔物を行かせてはならない。
そう直感したぼくは、物陰から飛び出すと、彼らの前に勢いよく踏み込んだ。
「待て!」
一喝に、ボグーは険しいまなざしをぼくに向けた。それから視線を外すことなく、「行け」と短く声を発すると、鷺魔物は力強く羽をはためかせてふわりと宙に舞った。
くっとのどの奥で小さくうめき、「魔力弾」の術式を紡ぐ。
光線が、まっすぐに魔物の頭部を狙う──が、命中する寸前に、それは目に見えない何かにぶつかって四散した。
防壁魔術。
魔力弾を防いだものの正体に気づいた次の瞬間には、魔物はさらに大きく羽ばたきを打ち、その黒い巨体を夜の闇へと溶け込ませてしまった。狙いのつけられない相手に次弾を撃つのは魔力の無駄づかいだ──ぼくは手の中の術式を解くと、その右手に防壁術式の光を掲げているボグーに対して真正面から向き直った。
「……どういう……ことなんだ、ボグー?」
カラカラになったのどから、ぼくはかすれた声をしぼり出した。彼は氷のように冷たい無表情をびくりともさせずに、こちらをじっと睨めつけている。
「──任務上の極秘事項です。どうか何も訊かず、この場を立ち去っていただきたい」
「そんなわけにはいかない。ボグー、君の『任務』とは、一体何だ。答えろ!」
二人の間に、一時の沈黙が訪れる。それを破ったのは、ボグーの深いため息だった。
「……仕方ない。あなたには、あなたの善意を利用させていただいた恩義もあります。そのお礼といっては何ですが、すべて正直にお答えしましょう──わたくしの任務とは、『密偵』として各国を巡り、その国力を探ることです。政治、軍事、経世済民……我が魔界を利するための、あらゆる国のあらゆる情報を調べ上げ、魔界に届けるのがわたくしの使命です」
「密偵だと……? じゃあ、君が吟遊詩人というのは、ウソなのか」
「いいえ。わたくしが歌を愛し、各地の伝承や歴史を基にした歌を収集しているのもまごうことなき真実です。国々やその民が滅亡するとともに、そういった歌まで失われてしまうのは、残り惜しいことですから」
「……ちょっと待て。『滅亡』だって? まさか、魔界が国力を探る目的というのは──」
「おや、察しが良いですね。その目的は──戦いの準備に他ならないです。我々魔族は、もう間もなくこのダーン・ダイマの魔族以外のすべての民族を跡形もなく滅ぼすための戦争を始めるのです。いえ、そのためのあらゆる諜報や工作が行われており、すでに始まっていると言っても過言ではありません」
ぼくは途中から愕然としながら、恐るべき陰謀をさも世間話のように淡々と語るボグーの言葉を聞いていた。あまりの衝撃に、のどの奥の方から上手く声が出てこない。
なぜ、そんな戦争を──そんな疑問はまったく沸いてこなかった。決して長い時間ではなかったが、ぼくは彼と旅路を共にすることで、その動機に足る屈辱的な扱いをさんざん目の当たりにして、そして体験してきたのだ。
魔族の、魔族以外の民族に対する怨嗟は、相当なものだと想像にかたくない。
彼らにとって、戦争という実力行使に打って出ることは正義なのだろう。
ボグーと過ごした記憶が頭を駆け巡る。と同時に、ダーン・ダイマの地に降り立ってから今日までぼくが関わってきた多くの人々の顔が次々と思い出された。アーエン師匠、ヘベニッフ、ズエンカ、トットー、ブンゴン、アハドー伯爵、ハリ、ナホイ……そして、オド老師。
ぼくは、彼らも守りたい。守らなくてはいけないんだ。
「だ……ダメだ、そんなこと……そんなことは、絶対にさせない。戦争なんてやめるんだ」
「説得は無意味です。戦争は我らが魔王がすでに下された厳命であり、わたくしの一存でどうにかなる問題ではありません。そして、我々の作戦を阻害するつもりであれば──わたくしは、あなたを排除せざるを得ない」
無表情だったボグーの顔に、一瞬、ほんの一瞬だけ曇りが差した。
刹那、突き出した左の手のひらから、冷気のレーザービームが白い水蒸気の筋を引いて迫る。
ギリギリ、ぼくの右手から放出された火精霊力に相殺された。
「やめろ! 戦いたくないんだ……やめてくれ、ボグー!」
叫ぶが、その返答と言わんばかりに、彼は無言で二撃目の水精霊術を飛ばしてきた。
再び火精霊力を込めて、今度は少し強めに打ち返す。威力の優った火精霊力が発火し、火の玉となってボグーを襲った。
「何という精霊力! ならば、これでどうでしょう」
ボグーの右手が素早く術式を描く。生じた魔術に捉えられた瞬間、火の玉はこちらにまっすぐ跳ね返ってきた。
とんでもない業だ! ぼくの精霊術のコントロールを、魔術で奪うなんて!
完全に虚をつかれたが、またもやギリギリ、左手にまとった水精霊術の相殺が間に合った。
火の玉が消滅したその時、ボグーの顔色が変わった。
目つきはさらに険しくなったが、青ざめたというわけではなく、むしろ──口元にはうっすらとした笑みを浮かべていた。
「ああ、やはり──やはり予想どおりか! あなたがあの──世に名高い『六行の大魔術師』! 何と、何と光栄なことか!」
予想どおり?
ボグーは、すでに知っていたのか。
ぼくが魔術師であることはもちろん、世間から「六行の大魔術師」と呼ばれていることを──承知の上で、ぼくは彼の手の上で踊らされていたのだ。
「だが残念だ、このような偉大な傑物を、わたくしの手で葬り去らねばならないとは! 願わくば……願わくば、もっともっと早く、あなたと知り合いたかった。いつまでも──かけがえのない友人でありたかった!」
ボグーの左手が振り上げられる。そこから再び冷気が放たれることを恐れて、ぼくは手中に火精霊力を集中させた。
「ハイアートさん、何度やっても無駄です。火風地水、すべての精霊術はわたくしの魔術であなたへと送り返される」
すでに支度された右手の術式を見せつけて、ボグーは凛と言い放つ。
魔力弾は、彼の防壁を穿つことはできなかった。
火風地水の精霊術をすべて送り返すというのも、おそらくハッタリではないのだろう──
……いや、「火風地水」だって?
そうか、彼は知らないのだ。あの精霊術の威力を──
「……ボグー、ぼくにはとっておきの精霊術がある。それは君に防ぐことはできないだろう──戦いをやめてくれ。ぼくは今ここで死ぬわけにもいかないが、かといって君を傷つけたくもないんだ」
「この期に及んで、何を言うのか。もはやどちらかが倒れる他に、決着はない」
ボグーの言葉は、あまりにも無慈悲だ。
……もう、やるしかないのか。
両の手に、精霊力をたぎらせる。
右と左の手の間で、その力は、青白い電光と化した。
「……馬鹿な! 一体何なのだ、この変化は! このような光精霊術など、見たことも聞いたことも……!」
ぼくは悲痛な吼え声を上げながら、雷撃を地面に叩きつけた。ボグーは魔術を展開したものの、大地の表面を走るそれを捉えることはできなかった。
ボグーの全身のそこかしこで火花が弾け、狂おしい絶叫が夜空をつんざいた。
絶叫は市街地のそこかしこに木霊して、やがて次第に遠く霞んでいくと、怖いほどの静寂だけがここに残った。
「……ボグー……」
ぼくはよろよろとした足取りで、くずおれた青年の元へと歩み寄った。彼の全身は焼けただれ、白煙を漂わせており、明らかに致命傷だった。
そっと、いたわるように上半身を持ち上げて、顔を覗き込む。
か細い呼吸音を立てている口の端のそばに、ぼくの濡れそぼつ目から垂れた雫が、いくつも落ちた。
「……ボグー、君が……君の願いは……ぼくにも分かっている、分かっているつもりだ……だけど、ぼくにも大切なものがある……守りたい人たちがいる……!」
鼻声になって、上手く話すことができない。何度もしゃくり上げながら、ぼくは彼に分かってほしいという気持ちを込めて、必死に言葉を紡ぎ続けた。
「……ぼくは……ぼくは、救世主になるために、この地に立った! ぼくの大切にしてきた世界……そのどれもが、ぼくの救うべき世界、ぼくの救いたい世界……! だから……だからボグー、君も……君の世界も、ぼくに……救わせて……ほしかった……!」
不意に、コートの胸元をぐいと強くつかまれた。
死に瀕しているボグーが、あらん限りの力を込めて、ぼくの胸倉を引き絞ったのだ。
「ボグー……!」
「……だったら……救ってみろ……! この世界も……その世界も……どの世……界……も……」
彼の声はだんだん小さくなり、最後にひと息ついて、それから──呼吸をしなくなった。
ぼくの襟のすぐ下を握りしめたまま、魔族の青年は、ぴくりとも動かなくなってしまった。
そしてぼくは、大声を張り上げて、泣いた。
いつまでも、いつまでも、ただ心のままに泣き続けた。




