第五章(五)「『闇』の一言だと思います」
空が、夕闇の紫紺に染まりゆく。
日没が近かったため、ぼくとボグーはそのまま大木の下でキャンプの支度を始めた。そうして太陽が遠くの山陰に完全に隠れる頃には、ぼくたちはすっかり準備を終え、焚き火を挟んでゆったりとした時の移ろいを楽しんでいた。
ボグーはウギーロルの音を緩やかに立てて、例の魔界の古い歌を歌っている。「一曲いかがですか?」と訊く彼に、ぼくが是非にとリクエストしたものだ。
この歌は、不思議と何度も聴きたくなる。相変わらず歌詞の意味はまったく分からないが、聴く度に複雑な感情が込み上げてくるのだ。
「……何回聴いても聴き飽きないね、この歌は。歌詞にはどんな意味があるんだろう」
楽器を下ろし弓をしまう途中のボグーに、何気なく訊ねた。彼は微笑みを崩すことなく、小さく肩をすくめる。
「実は、詞を丸憶えしただけで、わたくしにもほとんど分かっていないのです。ただ、現代の魔界語に近い言葉も所々にあって、ごく一部意味の分かる箇所があります。
『闇に、光来たる
運び手が、救いの手』
……これだけです」
「うーん……分かるような、分からないような。どんな趣旨の歌だったんだろうね」
腕組みをして首を傾けるぼくに、ボグーはわずかに頭を横に振った。
「それも不明です。故事の伝承とも言われていますし、未来の予言ではないかとも言われています。それでも、芸術性の高さ故に魔族の間で昔から愛されている歌なのです」
ぼくはふーむとうなって、数秒思案した後、再び訊いた。
「──ボグーは、そのどちらだと思ってる?」
「そうですね……『予言』、であれば良いかと思います」
ボグーは真顔になって口を閉じ、やや間を空けて、言葉を継いだ。
「正直、今の魔界を表せば、『闇』の一言だと思います。これが予言であるならば、この先に光があり、そして救いがあるということですから……」
オド老師の予知が正しければ、ぼくは世界の『救い手』だ。
それは同時に、魔界の『救い手』でもあるのだろうか。
未だ世界の救い方も見えていない。何が正解かも分からない。
でも。少なくとも。
ぼくはこの魔族の青年が望む救世主でありたい。
急ぎ足でデール・アリアの国境を越えた。
その道中は都城からの追跡に悩まされるようなこともなく、穏やかものであったことは幸いだ。
そこから半日を費やして、午前中の早い時間にココロウゼバの西端の辺境の「湖」という名前の町にたどり着いた。その名のとおり、国境を隔てる川の上流にある大きな湖のほとりにあって、街中を走る幾筋もの水路と窮屈に建つ建造物のごみごみした街並みをしていた。
「さて、ハイアートさん。ひとつお願いしてもよろしいでしょうか」
少し疲れたような表情で、ボグーは言った。彼は湖の市門を通ることを禁止こそされはしなかったが、他の通行人と比べてひどく念入りなボディチェックを受け、旅人なら誰でも持っていて当たり前の小型ナイフひとつにもさんざんケチをつけられた後だった。
「いいよ。何?」
「食糧を買い入れていただきたいのです。お金を預けますので、買えるだけ買ってください。頼めますか?」
今までの彼に対する民衆の態度を見るにつけ、町で食べ物を買い付けることすら困難だろうことは想像にかたくない。ぼくは即座にうなずいて答えた。
「もちろん。お安い御用だ」
「使い走りのようなことをお願いして、本当に申し訳ないです。その間、わたくしはどこか歌える場所を探しておりますので──それでは、こちらをお持ちください」
ボグーが何かを握りこんだ拳を差し出してきたので、ぼくは手のひらを上にしてそれを待ち構える。手の中にうやうやしく置かれた一枚分のコインの重みを感じ、「あれ?」と思わず口をついて出そうな言葉を飲み込んだ。
おかしいな。銀貨一枚だけじゃ、大した量は買えないぞ。
そう思って手の内を一瞥した時、ぼくは「うぇっ?」という驚嘆を、今度は飲み込むことができなかった。
多少のくすみはあるものの、鈍くも気品ある光沢は、それが「金」である確かな証だった。
おそらく──ソット金貨だろう。
ソット金貨は貨幣としては広く流通しているものであるが、そもそも金貨なんて貴族や豪商が国家間の貿易などの大商いで用いるようなもので、市井でそうそうお目にかかれる代物ではない。ごく一般的な通貨であるネベ銀貨と比べれば、十数倍の価値があるだろう。
「ぼ、ボグー! これは……」
「ええ、金貨です。わたくしが持っていることに疑問があるでしょうが──もちろん旅すがらに歌で稼いだものではなく、旅に出る前の故郷での蓄えです。厳しい旅路ではありますが、お金でどうにかなる場面も、多々ありますので」
彼が十分に熟慮し、入念に準備を重ねた上で出立したのだと思うと、ぼくが彼を助けなければなどと浅はかに考えていたことが恥ずかしい。顔から火が出そうな思いを深呼吸で落ち着けて、ぼくは手の中の金貨から目線を上げた。
「……分かった。目一杯買い込んでくるから、期待していてくれ」
たとえ微力であったとしても、ぼくにも彼のために出来ることがある。ボグーが笑顔でうなずき返したのを見届けてから、ぼくは商店のありそうな市街の路地へと足を向けた。
パン。押し麦。根菜に果物。鶏肉に豚肉。
バラエティ豊かな食材を三つの麻袋にはちきれんばかりに詰め込んで、ぼくは重さにふらふらしながら街路をさまよい歩いていた。
思いの外時間がかかってしまった。金貨一枚でどれだけ買えるかを、粘りに粘って店主と交渉し続けたせいだ。こんだけ買ったんだから、塩ひと袋ぐらいオマケしてくれてもバチは当たらないと思うのだが。
それにしても──ボグーは歌える場所を探しに行ったはずだが、一体どこまで行ったのだろう。
目ぼしい酒場や宿屋はあらかた探し尽くしてしまったが、彼の姿は影も形もない。
少し嫌な予感がしてきた。
方々で断られて、今も徘徊中というのであれば、まだ良いが……。
そんな不安を抱えたまま広めの通りへと一歩踏み出した時、通りの先から微かに耳に届いた大衆のざわめきに、ぼくは恐怖に近い感情を覚えた。
肩の荷の重さをわずらわしく感じながら、思わず早足になって路地を進む。
喧噪の渦中に近づいた、その時──
「うるせえ、魔族め! くそ食らえ!」
怒号とともに、その場面がスローモーションのように目に映った。
楽器をかばおうと身をひねったボグーが、悪態をついた男が投げつけた、土くれのような何かを左肩の辺りにぶつけられたのだ。
「ボグー!」
苦悶を浮かべて両膝をついたボグーに駆け寄り、彼の身体を覆うようにして屈み込む──と、むっとする悪臭に、彼にぶつけられたモノの正体が分かった。
馬糞か、牛糞か、豚の糞か、あるいはそれ以外の家畜の糞のいずれかだ。
瞬間、ぼくの全身に、かっと炎のような熱さが宿るのを感じた。
「この……野郎!」
「いけません、ハイアートさん!」
ボグーが、立ち上がりかけたぼくの腕を引っぱる。
滅多に怒らない性格だと自負しているぼくだが、彼のこととなるとなぜか冷静でいられない。かような侮辱を受けてなおこらえようとするボグーにまでいら立ちを覚えてしまうが、ここで事を荒げる愚かさを理解していないわけでもない。
「……町を出ましょう、ハイアートさん」
クッと、のどの奥で怨嗟を押し殺すぼくに、ボグーが小声でささやく。
上体を屈めたまま立った彼の右肩を抱いて、彼のよろよろとした足取りに合わせて、ゆっくりと歩き出す。その場を離れようとするぼくたちの背中に、大衆からのあざけりを帯びた笑い声が容赦なく浴びせかけられた。
ぼくたちが「湖」を離れ、湖の上流にある川のほとりに落ち着いた時には、すでに西の地平線に太陽が隠れようとしている頃だった。
「お待たせしました。お礼が遅くなりましたが、食料品の買い出し、本当にありがとうございます」
川辺から戻ってきたボグーは、小さく頭を下げた。手には自分の上着を引っかけた、一メートル程度の木の枝を携えている。
「お帰り。いやいや、礼を言われるほどのことはしていないよ。──どう? 汚れは落ちたかい?」
「ええ、まあ。少し臭うかもしれませんが、乾けば大丈夫でしょう」
ぼくが用意したたき火から数メートル離れた立木の股に枝をかけながら、ボグーは笑顔で答える。この事件が豊かな水場に近い地域で起こったのは、不幸中の幸いと言うべきか……。
「……乾くかな?」
「ひと晩干しておけば大体乾くでしょう。問題ありません──それより、もう夕飯にしませんか? 心のモヤモヤには、お腹を満たすのが一番です」
自分の心というよりは、ぼくの心情に配慮して言ったことなのだろう。ボグーはぼくの真正面に回って、ぼくの目をまっすぐに見つめながら、快活に微笑んだ。




