第三章(二十三)「人生の濃度が違うのだ」
海面に水精霊力が走り、瞬時に波を凍らせ、ウツボ魔物の首根を締めつけるように氷塊が包む。
枷をはめられたそれは、多分、必死の抵抗を試みただろう。しかし出来ることといえば、口をぱくぱくさせながら、わずかに頭を震わせるだけだった。
確実に息の根を止めるべく、魔物の頭部が頂になった氷山の上空へと飛翔し、手中の一点に膨大な火精霊力を集中する。
紅炎をまとわせた直径数十メートルの灼熱の球が奴の目の前で生まれ、一瞬でボンと轟音を立てて消え去ると──ウツボ型の魔物の頭は、下あごの一部だけを残して、無残に砕け散っていた。
やがて残された躯体も濃密な魔素の塊になって崩れ始めると、ぼくはようやくほっと息をついて、ゆっくりと空を滑り、砂浜へと足を下ろした。
ぼくは、今までになく強大な敵を相手に、戦いに勝った。
なのに、「勝った」という実感が、高揚した思いが、以前のように腹の底から湧き上がってこない。
明らかに、戦場慣れしている自分がいる。
命の危険を感じていても、一度に何十人もの命を奪えるほどの業を繰り出す時も、アドレナリンが身体を駆け巡る感覚はあっても冷たい機械のように心身が動いた。
この世界で、戦える技術と戦える精神は必須のものだ。
だがそれを得ると共に、ぼくの中から人間味というか、人として捨ててはいけない何かがこぼれ落ちていくようで、そのことに怖れを禁じ得ない。
ぼくはこのまま、戦い続けてもよいのか──
その自問自答は、ふと砂浜の向こう側から近づいてきた人の気配で中断された。
そちらを見やると、船長を中心にした船乗りの集団が、不安げな面持ちでおそるおそる歩み寄ってきていた。
「は、ハイアート君。あの、化け物は──」
「ええ、ご安心ください。魔物は倒しました」
あえてにっこり笑みを浮かべて答え、船員らは一堂に、手にした槍や棒切れやらを振り上げてわっと歓声を上げた。その騒ぎの中からぴょんと子どもの人影が飛び出して、ぼくの腰元目がけて真正面からどしんと体当たりをしてきた。
そのままおでこをくっつけて、コートにしがみつく。
「ズエンカ、怖かったか? もう大丈夫だよ」
「……別に。あんなの、全然怖くない。けど──あんな大きいのがハイアートにやっつけられるのか、ちょっと心配になっちゃった。ハイアートが勝てないなんて、あるわけないのに」
ぼくが負けないなんて、それこそ決してあるわけがない。
しかし彼女を、仲間であるみんなを守るという命題の上では、ぼくは「勝てないなんてあるわけがない」ぼくでなければならない。絶対に。
……そうか。
ぼくは──ぼくが冷酷になることを、怖れてはいけないんだ。
「お、おい……あれは……!」
誰かがかすれた声を上げて、ぼくも間もなくそれに気がついた。
揺れ動く、いくつものたいまつの光。
それに照らされて、群れた仮面の者たちが、闇夜の中からおもむろにこちらに近づいてくるのが見えた。
また、ぼくたちに襲いかかろうというのだろうか。
それならば……もう、ぼくの心に惑いはない。
危害を加えようとしたその瞬間に、全員まとめてバーベキューにしてやる。
そんな殺意を込めた目で原住民らの動向をにらんでいたが、彼らは特に武器を振りかざすこともなく、歩みを止めた。それから、かぶっていた木彫りのマスクを外し、それに彫られていた面相と同じようなペイントを施した素顔を露わにする。
そして、全員が揃えたようにひざをつき、左右に武器と仮面を置いて──地面に両手をついて、上体を臥した。
ぼくらと島民たちを隔つ数メートルの空間に、何とも言えない、微妙な空気と時間が流れる。
「……えっと、その……これはつまり、『土下座』?」
「……『ドゲザ』って、なに?」
それを形容するダーン・ガロデ語が思い当たらず、日本語でつぶやいたぼくに、ズエンカが訊いた。
空にそびえるメインマストに張られた白布が、たっぷりと風をはらむ。
波間にゆったりと揺れながら、帆船は洋上をなめらかに進んでいく。降りそそぐ日光で海面にはかげろうが立ち上り、ぼくはその向こう側に霞んで消えようとしている島影をじっと見つめていた。
あの後、島の先住民が特に抵抗するそぶりを見せなかったので、翻訳魔術を施して話を聞くことができた。彼らは、自らを「ウォドゥヌ」と名乗った──個人名ではなく、部族としての呼称と思われる。
ウォドゥヌは海の向こうから島にやって来る異質のものを拒むことで、どんな動物よりも永い時を生きられることを「ズズ」──神か、それに近い概念の存在らしい──に許されているという独特の宗教観によってぼくらを襲撃し、またダーン・ダイマの文明社会から知られざる種族となっていたようだ。
しかし四世代前の族長の時代から、黒く巨大なものに島民が脅やかされるようになった。ウォドゥヌはそれを「良くないズズ」、要するに邪神と称して恐れ、いつか再びズズの許しが得られると信じて、より島の言い伝えやしきたりに厳格になっていったという。
そんな折りに、彼らから見れば炎や光を操る常人ならざる業で、良くないズズを殺したものが現れたわけで……つまり、ぼくは「ズズ」として、彼らから許しを乞われたのだ。土下座で。
ぼくはただの人間で、ただの魔術師でしかないのだが、そんなことを一から説明するのもひどく面倒な上に大して意味がない。
だから、こう言った。
「ぼくらはズズではないが、ズズが新たに許しを与えるために島の言い伝えを正しにきた使者だ」と。
そしてウォドゥヌたちに、「島の外から来た人間は、敵意のない限りは戦わず、島の外に帰すための手伝いをしなければならない」ことを、新しい島の定めとして言い伝えるよう指示したのだ。
原住民たちはそれを申し訳ないぐらい素直に受け入れ、早速船の修理のための木材の供出を快諾してくれた。特に気候の問題で樹木があまり高く育たない中風雨に耐えて高く伸び、ズズの許しを得たものとして大事にされていた「神木」をマスト用に譲ってもらった時には、さすがに良心が痛んだ。
「どうしたの、ハイアート。何か困ってるの?」
不意に、隣でカラカラと風車を回していたズエンカが訊いてきた。怪訝そうに、こちらのシワ寄った眉間の辺りをじっと見つめている。
「いや、ウォドゥヌのことで……ズズの伝言とか適当なことを言って、彼らに無責任なことをしたんじゃないかなぁ、って」
「……あたしは、そうは思わないなぁ。もしあの島に誰かが流れ着いても、わけもなく殺されなくなるのは、いいことだし……島の人たちにしたって、今までより安心して言い伝えを守れるんだから、よかったんじゃないかなって思うの。ね? イイコトをしたって考えとこうよ。ホーベン、ホーベン!」
ズエンカはぼくの背中を強めにパチーンと叩いて、屈託なく笑った。ウォドゥヌらに大ボラを吹いた時に、彼女には教育上よろしくならないように「日本では『ウソも方便』と言って、相手を思いやるために時にはウソをつくことも大事なんだよ」と言っておいたのだが、どちらかといえば「方便」という語感の方がお気に召したようだった。
「……そう言われれば、そのとおりなんだろう、けど……」
「もう、ハイアートは考えすぎ。それがダメっていうんじゃないけど、後からアレコレ悩むのはダメ。たくさん考えたのなら、どうなってもそれが正解だった、って思わないと」
微笑みを崩さず、ズエンカは諭すように言った。ぼくの瞳をまっすぐに差す彼女の視線が、ぼくの心の芯までのぞき込んでくるかのように感じて、思わず胸がドキリとした。
時折、ズエンカは年齢に見合わないような、大人びた説教を忌憚なくぶつけてくる。だからといって生意気だとか小しゃくな小僧だとかいう印象を覚えないのは、ただ頭がいいから、目端が利くからというだけではない。
きっと、人生の濃度が違うのだ。ぼくが日本で生きてきた十五年とは、比べものにならないほどに。
だから、ぼくはただ苦笑いを浮かべて、ひとつうなずいた。それしかできなかった。
「おうズエンカ、ハイアート。今日はいい風だな」
船室の方から上がってきたハリの声に、ぼくたちは振り返った。あいさつは普段どおりだが、いつも携えてくるはずの釣竿が、今日は彼の手にない。
「やあ、ハリ。どうした、今日は釣りをしないのか」
「いや、もう釣りはこりごりだ。二度とあんな大物に出くわしたくねえからな」
理由を承知した上であえて訊ねるぼくに、ハリは、朗らかに高く笑った。
ハリの態度も、船上での暮らしも、以前と変わらない日常へと戻っていた。
その日常が、ぼくにはやけにせつなく、そして愛おしく思える。
帆船はあと数日のうちにフベリンへとたどり着く。
それはハリと、船の仲間たちとの、永遠の別れを意味するのだ──




