第三章(十五)「エラの慈愛に誓って」
「は、ハイアート……!」
「だ、大丈夫だ……早く、ここから、逃げろ……」
ハリはおびえた表情で一瞬ためらいを見せるも、すぐにきびすを返して走り出した。──さて、大丈夫とは言ったが……男は外見に見合わずかなりの腕力でぼくの首をがっちりと捉えていて、力ずくでは振りほどけそうにない。このまま頸動脈を圧迫され続ければ、あと数秒でぼくは意識を失う。
仕方ない。もし腕を失っても、恨まないでくれよ。
「ぐああぁぁっ? う、腕が、動かねぇっ……?」
男は悲痛にわめきながら、ぼくを解放した。肩越しに振り見ると、ぼくを締めつけていた両腕はひじから先が青白く変色し、がくがくと震えている。
「悪いな。精霊術で、あんたの腕を凍らせた……壊死する前に、ぬるま湯で温めてくれ。でないと切り落とさなきゃいけなくなるからな」
言い捨てて、ぼくはハリの後を追って駆け出した。建物を飛び出し、港に向けて通りを行くと、間もなくハリの背中が見えてきた。時折後ろを振り返りながら先を行くハリは、ぼくが追ってくるのに気がつくと、顔の緊張をゆるめてスピードを少し落とした。
「ああハイアート、無事でよかった。助けてもらったのに、俺一人で逃げちまって……助けなきゃと思ったんだが、その……」
「大丈夫だって言ったろ。それにな、おまえの気持ちもよく分かる──ぼくも、ケンカは嫌いなんだ。怖いからね」
正確には、ケンカ自体が怖いのではない。人を傷つけることが怖いのだ。
ぼくの魔術や精霊術の業は、たやすく人を痛めつけ、また命を奪うことができる。たとえ相手が悪人であっても、自分に命の危険が迫っていたとしても、そのことに対する恐れは──何年も前に不慣れな魔力弾で相手の指を吹っ飛ばしてしまったあの時から、今も消え去ってくれない。
ただ、昔より業をコントロールできるようになったせいなのか、いざ戦わなければならないという時に術を使うことをためらわなくなったように思う。それが成長なのか慣れなのか、それとも「麻痺」なのか、ぼくに判断はつかない。
だから、この恐怖心だけは、ちゃんと持っておきたい。己自身がただの凶器とならないために。
ガリカを出航して最初の夜が訪れた。
「あーあ、つまんねえな。楽しみがひとつ減ったぜ」
三本あるマストのうち中央にある最も高いマストの頂点近くに据えられた見張り台に、ハリとぼくは並んで立っていた。
ハリは船長から大目玉を喰らい、次の寄港地であるオンデ・ボーに到着しても船を降りることを禁止されたらしい。至極当然の処罰だと思うが、この言い草ではまったく反省の色が感じられない。
「ハリ、おまえなぁ。どんだけ船のみんなに迷惑をかけたと……」
「分かってる、分かってるって。もう一生博打は打たねえ。エラの慈愛に誓って」
彼はマストに背をもたれながら、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。どこまで本気なんだか分かったもんじゃないが──
「エラ? って、何だ。神様か」
「んー、どうだろ。ダーン・ガロデの連中が言う神様みたいに、人を守ったり救ったりバチを与えたりなんて奴じゃねえんだよな。エラは、エラだ。そうとしか言えない」
腕組みしてうーんとうなりながら、ハリは答えた。ミムン・ガロデの宗教観とは、実に興味をそそられる。
「気になるな。その、エラについて詳しく聞かせてほしい」
「ああ、えーと……俺が聞いた話では昔々、ダーン・ダイマには生きてるか死んでるかも分からない『モノ』しかなくて、でも何でかモノの中に『生命』が現れた」
元々そうなのか、ハリの教養の限界なのかは知れないが、ぼくは「創世記」の雑さ加減にこみ上げるおかしみを噛み殺した。
「──生命はひとりでに動いてものを食べて、ひとりでに産んで増えていく力があったが、何でそんなことができるようになったのかを誰も知らなくて、いつの間にかそれはエラが与えたのだと言われるようになった。でもエラに何の得があってそんなことをしたのかは、やっぱり誰も知らなくて」
あまりに雑すぎる神話をあまりに大真面目にハリが語るので、笑いをこらえすぎて腹筋がおかしくなりそうだ。
とはいえ、見聞きしたように知ったかぶったことを並べ立てるよりは、実に素直でいい。
「──そのうち理由とか考えるのをやめて、今俺たちが生きる力を持ってここに存在するのはエラの損得抜きの慈愛のおかげだと、単純に考えるようになった。それ以外の何かをエラがしたわけでもないし、そもそもエラが何なのかすら分かっちゃいねえけど……俺らは特にこれといった根拠を目に見える形で表せねえ約束事をする時は、エラの慈愛に誓うのが慣わしになってるんだ」
「うーん……でも結局エラが何なのか、エラが何を思って生命を生んだのかは分かってないのに、エラの慈愛に誓うってのがイマイチ納得いかないというか……」
「そんなこたねえよ。今ここに俺たちが在る、ってことがエラの慈愛があった確かな証拠なんだ」
何だか、宗教というよりは哲学な感じがしてきた。「我思うゆえに我あり」だっけ? そこから、さらに自分の思考できる能力は何にルーツを求めたらいいのか、という疑問の答えがエラってことなんだろう。たぶん。
「うん、なるほど。思ったより深い話だった。聞かせてくれてありがとう」
「ん? ああ、何かのためになったんならいいけど──あっ?」
急に頓狂な声を上げて、ハリが右舷側の真っ黒な海面をじっと真剣に見つめる。視線の先を追うが、一面の闇以外に見えるものはなかった。
「どうした、ハリ。何か見えたのか?」
「ああ、今──船の帆影があったような気がしたんだ。もしかしたら……」
ハリが、ぐびりとのどを鳴らした。緊張に顔がこわばり、呼吸が乱れ──何かを恐れている?
「もしかしたら──何だ?」
「前に聞いたんだ、ガリカの近海には──その、で、出る、って」
「出る……って、オバケ? 幽霊船?」
「何のことだ? 出ると言ったら海賊だろ、海賊! ここいらで商船が襲われてるって、もっぱらの噂なんだ」
海賊と聞いて、真っ先に甘寧が頭に浮かんできてぼくはかぶりを振った。かと言ってカリブの海賊ってのも時代というか、文明レベルが違う気がする。
「見間違いかもしれねえが、もし本物だったら一大事だ。みんなに知らせねえと──」
この世界での海賊のイメージを捉えきれずに首をひねっていると、ハリが警鐘のそばにぶら下がった木づちを手に取ったので、ぼくははたとその手首をつかみ止めた。
「お、おいハイアート、何で止めるんだ?」
「悪いな、ズエンカの安眠を妨げたくないんだ──ここは、ぼくに任せてくれないか」
「……あ、ああ、分かった。魔術師サマがそう言うなら、何も文句はねえ」
目を丸くしながらもハリが木づちを手放したので、ぼくは微笑んで自信ありげなうなずきを返した。
「まずは本当に海賊なのか、確認しよう。ハリ、帆影が見えたというのは、どの辺りだ」
「えっと、あっちだ。あの辺りに──」
彼が指を差すや、ぼくはすぐに指先に光の精霊力を凝縮しながら術式を描いた。
たちまちに術式からまっすぐに光精霊力のエッセンスが飛翔し、闇のただ中で白い輝きの大爆発を起こした。船の右舷側の海面を広く照らし出す──
ハリがうっとうめき声を上げた。
波間に揺れる帆船の輪郭が、はっきりと浮かび上がる。中央にマストを一本立てた、船室のない小型の船だった。
船上には二十人前後ぐらいか、様々な形状のかぶとを備えている者たちが見える。明らかに戦闘態勢の整った船員を満載したそれは、舳先をこちらの船の横面にまっすぐ向けて迫ってきていた。
「や……やべえ! ありゃあマジで……は、ハイアート!」
「あわてるな。ぼくが丸く収めてきてやるよ」
新しい術式を作り、風精霊術を込める。見張り台から飛び出して滑空し、海賊船の手前の海上へと接近すると、水から受ける浮力を増大させる魔術をブーツの底にかけながら着水した。
「引き返せ! これ以上船に近づくなら、海賊であろうとなかろうと力ずくで排除する」
海の上に仁王立ちして、びっと人差し指を向けて叫ぶ。小船の上からしばらくざわつきが聞こえたが、結局船上から飛来した投げ槍の切っ先が、警告への返答になった。
毎回、「一応やってみる価値はあるはずだ」と思って、平和的解決を望む対応をしているが、ただの一度もまともな結果になったためしがない。たまにはおとなしく引き下がってくれたっていいじゃないか。
「やる気か! こっぴどい目に遭っても、責任は取らないぞ!」




