第三章(十六)「「赤ちゃんが乗っています」かよ」
左手から風精霊術を放って、槍を明後日の方向へ吹き散らす──同時に右手で術式を記して、横一文字に魔力の刃を振り抜いた。
船の帆が、マストごと空へ舞った。
切り離された帆は強い海風に煽られて、あっという間もなく闇の中へと消えていく。
これでもう、船を動かすことはできまい──と思ったその時、船の左右からニョキっと、まるで櫛の歯のように数多のオールが生えてきた。
まだ歯向かう気概があるとは、見上げた根性だ。
だが──根性は認めても、悪事を認めるわけにいかない。
ぼくはうずくまるようにして身をかがめると、ちゃぽんと右手を海水の中へ差し入れた。
水精霊力を一気に放出する。
水中の手の先から放射状に、海賊船を中心とした一帯の海面が、瞬時に氷塊へと変化した。
船の喫水部ががっちりと囚われ、オールも海中には届かない。今度こそ身動きできないだろう。
「……昼になれば解けると思うから、それまでおとなしく待ってるんだな。では失礼」
火のついたように大騒ぎをする海賊船を尻目に、ぼくは水面を発って浮き上がり、ハリの待つ見張り台へと空中を滑り出した。
檣楼の上の索具に手を引っかけて滑空を止め、足場の上にふわりと軟着陸する。ハリは口を半開きにして、ただ呆然とぼくを見ていた。
「どうだ。平穏無事に丸く収まっただろう?」
「え……あ、ああ。やっぱり魔術師サマはとんでもねえな。たった一人にあれだけやり込められちゃ、海賊どもも懲り懲りだろうさ」
思い出したように、ハリは薄笑いを浮かべる。ぼくは眉尻を下げて口の端を持ち上げた。
「そうだね。これに懲りて転職を考えてくれればいいんだけど」
「少なくとも、魔術師が乗ってるかもしれない船は襲わなくなるかな。そうだ、船にでっかく『魔術師が乗っています』って書いておいたら、向こうから避けてくれるんじゃねえか?」
自動車のリアウインドウにつける「赤ちゃんが乗っています」かよ。
心の中でツッコんで、ぼくはフッと失笑した。
オンデ・ボーは独立した都市国家だが、西にマラン王国が隣接しているせいか、街並みの空気が昔マラン王都に感じたものとよく似ているような気がした。
あの王都への旅からもう八年も経っているのかと思うと、いろんな意味で遠くへ来てしまったものだと、しみじみとした感慨が胸にしみてくる。その八年の間に、幾多の国を巡り、様々な人との出会いや別れがあった。その一つ一つが、かけがえのない思い出として胸に去来する。
「何だって、こんな日に船から降りられねえんだ……ツいてねえなあ」
だから今はただウザったいとしか思えない、ぼくの前で泣きそうな顔をして落ち込んでいるこの青年との出会いもまた、かけがえのないものになるのだろう。たぶん。
「仕方ないじゃない、あんたが悪いのよ。ていうか、大の大人がお祭りに行けないぐらいで世界の終わりみたいな顔をして、みっともない」
ズエンカは腕組みしてハリをにらみながら、遠慮のかけらもないド正論をド直球で投じていく。この火の玉ストレートは時折こちらにもフルパワーで飛んでくるので、他人事とは思えない。どこかの頭痛薬のように、半分くらいは優しさで出来ていてほしいものだ。
「いや……まあ、そう言われちゃうと、ぐうの音も出ねえけどよ」
「何かお祭りっぽいモノを持ってきてあげるから、それで我慢するのね。じゃ、お留守番よろしくー」
手を振りながら、ズエンカは船と桟橋をつなぐタラップへ足をかける。その後について船を降りるぼくの背中に「頼んだぞー」とハリの声が追いかけてきた。
埠頭からすでに、多くの人出とにぎわいが感じられる。そこから市街へと足を踏み入れれば、人混みはさらに増して思うように進めないほどだった。
オンデ・ボーの港に着いて荷下ろしをしている際に耳にした話では、ダーン・ガロデの東南部辺りには「清魂期」と呼ばれる行事があって、十二週間もあるその期間中に生物の血を流してはいけないしきたりがある。当然その期間に獣や魚を捌いて食べることはできず、穀物や野菜、果物や卵、特にこの地域だと貝や海藻などを食べて過ごすという。
そして今日はその清魂期が明ける初日で、制限された食生活から解放された人々が心ゆくまで肉を食べまくるという、どう考えてもズエンカのためにあるとしか思えないお祭りが開かれているのだ。
市内の大通りに入って数分のうちに、ズエンカは予想に違わず豚の脂で手と口の周りをベタベタにしていた。そんな彼女でも、中央広場の一角から聞こえてきた楽しげな笛と太鼓の音色に誘われて観に行った楽団の美しくシンクロした三人の踊り子のダンスに、口の中に入ったままの豚肉のローストを咀嚼するのすら忘れて茫然と見入っている。
「……面白い?」
「うん、すっごく楽しい! こんなの初めて見た! ハリが残念そうにしてたのも分かるなー」
ぼくが訊くと、はっと我に返ったようにぼくを見上げて、ズエンカは笑った。
その笑顔が、ぼくが今のズエンカと同じぐらいの歳だった頃に行った市内の神社の秋祭りで、演し物の大道芸を一緒に観た時の幼なじみの笑顔と重なって、心臓が小さく躍るのを感じた。
顔も性格もズエンカとはまったく似つかないのに、なぜ今、不意に思い出してしまったのだろう──最近、ズエンカに日本のことを教える機会が多かったせいかもしれない。
今頃、あいつはどうしているのだろう。
もう二十四歳──いや、ぼくより半年ほど早い生まれだから、二十五歳になったはずだ。あいつが就職して、社会人やってる姿が想像できないな……もしかしたら夢を叶えて、プロのバレーボール選手になっていたりするのかも──
「ハイアート、どうしたの? ボーッとして」
「……あ、いや、何でもない。ちょっと──ん?」
ぼくは首だけをねじって、肩越しに振り返った。背後の人混みが、妙なざわつき方をしているのに気がついたからだ。
そこには、群衆を左右に割りながら、足早に近づいてくる三人のいかつい人影が見えた。全身の鎖かたびらをガシャガシャと言わせ、腰のベルトには大振りの剣を引っかけており──その出で立ちから察するに、この街の衛士なのだろう。
まあ、得てして祭りというのは、往々にして多少治安が悪化するものだ。果たして一体、どこでどんな事件が起こったのだろうか──
などと他人事のように思っていたが、その衛士たちはぐんぐんとぼくたちの方に接近し、ついにはぼくの眼前で整列して足を止めたので、ぼくは目を丸くしてうろたえた。
「え……何で? ぼくが、何かしましたか……?」
「──魔術師、ハイアートに相違ないか」
三人のうち真ん中に立つ男に訊かれ、ぼくは眉根をひそめた。ぼくを名指しでの用向きとは穏やかでない。
さて、どう返すべきか。
違うと答えて、ウソだとバレれば後々面倒なことになるかもしれないし……。
「……ええ、ぼくはハイアートですが……なぜ、ぼくを知っているんですか」
身を固くしておそるおそる返答すると、三人の衛士たちの表情に、柔らかな安堵が浮かんだ。
「ああ、やっと見つかった! 突然の失礼をお許しいただきたい。オンデ・ボー領主、ダビフ卿が貴殿を招きたいとの旨、伝えに参った。よろしければ我々にご同行願いたい」
「オンデ・ボーの……領主が?」
ぼくは再び目を見開いて驚きを表した。またもやお偉いさんからのご招待とは……というか、訪れたこともない街の領主に名を知られているだなんて、ぼくはそんなに有名人なのか?
「そうだ。領主のお屋敷でも現在、解禁日の祭りの祝宴が催されている。その会食にぜひ参じてほしい、とのご意向だ」
「それは……大変光栄に思います。が、今ぼくはこの子と一緒なので──」
「共連れの者がいれば、一緒に来てもらうよう言づかっている。遠慮せずに連れてきてよいぞ。──なぁお嬢さん、君も一緒に来てくれないかな」
衛士が上体を下げてズエンカに目線を合わせると同時に、ぼくも横目で彼女を見下ろした。ズエンカはキラキラした瞳で衛士とぼくの顔を交互に見ている。
明らかに「アハドー伯爵家で出されたような豪華な食事にありつける」ことを期待している目だ。
「……分かりました。行きます」
ぼくは深いため息をついた。




