第三章(十一)「そんなこと、起こらなきゃいいのに」
「ふふっ。日本って国はね、むしろ周り全部に海がある島の国なんだよ。ぼくが住んでた町も海に面してる地域があって、簡単に見に行くことができたんだ」
ぼくは嬉々として、「日本」のことを興味深く訊いてくるズエンカに答える。ぼくがダーン・ダイマとはまったく異なる世界から時間と空間を越えてきた来訪者だということは、普段からぼくを変わり者呼ばわりしている彼女にはあっさり納得できる話だったらしい。
ただ、ズエンカは他の者とひとつだけ違う反応を見せた。
ぼくが、高名な魔術師が予言した「世界を破滅させる動乱」を救う者としてここに来たことを聞いた時、「そんなこと、起こらなきゃいいのに」と言ったことだ。
それではぼくがここに召喚された意味がまったくなくなってしまうが、たとえ無意味だったとしても、世界の危機なんて起こらない方が絶対いいに決まっている。ぼくもそのご意見には、両手を挙げて賛成したい。
「へー。それじゃあ、海のことはよく知ってる? 海の水がしょっぱいのって、何でなの?」
「え? いや、知らないや。よく考えたら何でしょっぱいのかまでは、疑問に思ったことはなかったなぁ……」
素朴な疑問に対応できず、ぼくは眉根をひそめた。肩にかけた鞄の中にあるスマートフォンでちょっと調べたらすぐ答えが出せそうなことなのに、残念ながらこの世界には通信電波もインターネットも存在しない。
「なぁんだ。得意そうに言う割には、海のことそんなに詳しくないのねー」
「……そろそろ行こうか。船に乗れば、いやでも毎日海を見ながら過ごすことになるんだ」
返す言葉に詰まったぼくは、ぷいときびすを返して砂浜沿いの街道へと足を向ける。背後から水気を多く含んだ靴音が駆けてきて、少し大人気ない態度だったなぁと、ちょっぴり反省した。
おそらくは船自体を見たことのないズエンカが、港に停泊するそれのあまりの多さに、ポカンとしていた。
港町オウベンドは情緒のある漁師の集落から始まって、その中心に向かうにつれて石積みの建物が整然と並ぶ美しい街並みへと変わった。行き交う人の数が、海運という交通と物流の重要拠点であることを如実に感じさせる。
沖に向かって伸びるいくつもの桟橋と、それに寄り添う大小様々な帆船の姿。船舶の主な動力がエンジンに取って代わられた現代の地球ではまず見られることのないその光景には、ぼくも少なからず感動を覚えていた。
「やっとオウベンドに着いたね。ハイアート、これからどうするの?」
「ここからダーン・ガロデ南部のフベリンまで行く船便を探すんだけど……さて、どこで調べればいいかな」
何となく、港に面した建物を見回すが、日本の埠頭にありがちな客船ターミナルとか観光案内所があるようには見えない。現地に行ってみれば何とかなるかもしれないという考えは、少し甘かったようだ。
「とりあえずさ、船のそばに行って、そこにいる人に訊いてみようよ」
「あ、ああ。そうだね……」
それが一番手っ取り早いとは思っていたが、あまり気が進まない作戦でもあった。実のところ、見ず知らずの他人に話しかけるのは未だに苦手なのだ。
初めて会った頃は、ズエンカもぼくと同類のコミュ下手だと思っていたのに、今はそうでもないように見える。子どもの成長は短い期間でも著しいものだとは思うが、それと比べてもぼくが成長していなさすぎて、自分に心底がっかりする。
「すいませーん。この船、フベリンまで行きますかー?」
桟橋へと赴き、手近な船に寄ると、ズエンカがその船のもやいを係船柱に結びつけている船員らしき男に訊ねた。男は顔を上げ、ふるふると首を横に振った。
「いんや。この船ァ、たった今ここに着いたばかりで、次の出航予定は決まってねェんだ」
「そっか。他に、フベリンに行く船があるか知りませんか?」
「他の船? さァ、よその船のことはさっぱりわかんねェや。力になれなくてすまねェなァ、お嬢ちゃん」
「いいえ、ありがとうございます。──ハイアート、次行こ?」
ぼくの袖口を引っぱって、ズエンカは別の桟橋へ向かおうとする。まったく、どっちが保護者なんだか分かりゃしない。
その後もいくつかの船乗りに訊ね回ったものの、フベリンまでの長い航路を往く船はそうそう無いらしい。港の反対側の端まで行く頃には、間もなく日没となろうかという午後の遅い時間に差しかかっていた。
「うーん、上手くいかないものね」
「一気にフベリンまで、というのは難しいのかもしれない。また明日の朝に出直して、途中の港で乗り継ぐ作戦も考慮して船を探そうか」
「そうね。あー、お腹すいちゃった。ここのご飯美味しいといいなー」
うなずきを返しながら、市街地の方に足を向ける。その時、桟橋のたもとに船の積荷らしき幾段にも積み上がった木箱にもたれて、うなだれている青年が目についた。
それだけ見れば「休憩中なのかな」とさして気にも止めずに通り過ぎてしまうような光景だったが、彼の顔の周辺に漂う水精霊の量がやたらと多いのが気になる。
「ズエンカ、ちょっと待って。あの人──何か困ったことがあるみたいだ。話をしてみてもいいかな」
「またなの? ううん、もちろんいいよ。ハイアートは『救世主様』だもの──この間の犬がいなくなった子どもより簡単に解決できるといいね」
ぼくが訊くと、ズエンカは腕組みして苦く微笑んだ。彼女との二人旅の最中にあっても、小さなことからコツコツな「救世主活動」は継続中だ。
「……そうだね。今回は逗留が一週間も延びるようなことにならないようにするよ」
肩をすくめながら、ぼくは青年に歩み寄る。目の前まで来てひざまずくと、ようやく彼はぼくに気づいてわずかに顔をもたげた。
「こんにちは、気分がすぐれないみたいだけど……何か悩んでるなら、力になるよ」
「……いや、無理だ。おまえの細っこい身体じゃ、この積荷の箱ひとつも持ち上げられんだろうさ」
首を振りながら、男は再びうつむいた。確かに、腕力では無理だろうが──
背中をあずけた箱がずるりと持ち上がる感覚に、青年は驚いて振り返った。
そして、積み上がった大量の木箱が丸ごと宙に浮かび上がっていることに、彼はことさらに天地がひっくり返ったかのような驚愕を見せた。
「よかった、ぼくでも持ち上げることができたよ。で、どこまで持って行けばいい?」
かざした左手から魔力を放出しながら、ぼくはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「──俺の他にあと三人、船の雑用係として雇われてたんだ。積荷を夕方までに船に積む仕事を言いつけられたんだが、そしたら俺以外全員バックレやがってよ」
ハリと名乗った丘陵族の青年は、訊いてもいないことをぶつぶつと愚痴りだす。そして残念ながら、ぼくは持ち上げた荷物をあちこちにぶつけないように気を遣うせいで、彼の話にまともに応対できる余裕はなかった。
「これと、蔵からまだ出してない荷がもうひと山あるんだ。俺ひとりで頑張ってはみたが、半分も運べなくてもう限界だと途方に暮れていたところだったんだ……まさか、魔術師サマが助けてくださるなんてなぁ。本当にありがたいこった」
「あなたは、何でバックレなかったの? そんなの無茶だってすぐ分かるじゃない」
一歩遅れて後ろからついてくるズエンカが訊ね、ハリは切なげにため息をついた。
「……妹の結婚の支度金のために、今回の仕事の賃金を前渡ししてもらってたんだ。俺が逃げたら、間違いなく妹が詰め腹を切らされるんだ……ああハイアート、ここで下ろしてくれ」
かなり大型の帆船の、最も下層にある船倉へと、術式を書き換えつつゆっくり積荷を下ろして行く。やがてすべての木箱が軟着陸すると、ハリはほっと安堵をついた。
「ありがとう。だが、もう半分の荷運びまで無償で手伝ってもらうわけには──そうだ、逃げた奴らの代わりに、この船で働かないか? おまえならきっと三人分の報酬で雇ってもらえるに違いない」
「それって──船に乗れ、ってこと?」
ズエンカが訊ね返すと、ハリはうなずきかけて、すぐに表情を曇らせた。
「……ああでも、ダメか。この商船はオラブの方まで行くから、一度出航したら戻るまで数十週間かかっちまう。そんな長い期間拘束されるのは、そう簡単なことじゃ──」
「ちょっと待った! オラブだって?」
ぼくが急に上ずった声で叫んだので、ハリは目を丸くしてびくりと身体を震わせた。オラブ地方は、ダーン・ガロデ南部の南東側の地域だ。
「な、何だ? いきなり大声を出して」
「この船は、オラブまで行くと言ったな。どういう航路を通るんだ?」
「あ、ああ。ダーン・コントズまで行って戻る予定で、その途中にガリカ、オンデ・ボー、フベリンに寄港して荷の積み下ろしを──」
ぼくは彼の右手を、ズエンカが彼の左手を、両手でガシっと握りしめた。
「ファッ? い、一体何なんだおまえら? 気持ち悪いなぁ!」
「ハリ、ぼくたちはフベリンまで行きたいんだ。そこまで、是非にでもぼくを雇ってくれ」
ぼくはキラキラした目でハリの灰色の瞳を見つめ返し、頬に会心の微笑みを浮かべた。




