第三章(十)「きっとゲイバムと共に歩む道を選ぶこととなりましょう」
「……形式上は、伯爵家で雇い入れる『傭兵』という位置づけとなりましょう。ですが、待遇は騎士と同等かそれ以上であることをお約束します。それに何より──我々アハドー伯爵家も、我らをここに駐留させたオド老師と同じく、この世の平和を愛する志を高く持つ者として救世主様を迎え入れたいのです」
「いえ、待遇の話というか──えっ、オド老師?」
ぼくは目をパチパチとさせて訊き返した。ミムン・ガロデの戦争のことはオド老師から学んだのに、彼自身が関係しているなんてことは一言も聞いていない。
「おや、ご存じなかったですかな。ミムン・ガロデの争乱当時にゲイバムの近衛魔術師長であったオド老師は自ら軍を率いてオツオロを保護下に置き、周辺国にはオツオロへはもちろん他国への侵攻であっても出兵の動きがあれば直ちに兵を出して攻撃することを王に宣言させたので、今日の平穏があるのです」
微笑みながら、アハドー伯爵が自慢げに説く。ぼくは呆然とすると同時に──隣国の辺境の村の人々から称賛されることすら嫌がったあのお爺さんなら、そういう部分は話さないだろうと納得していた。
何となく感じていたことではあるが、オド老師はやっぱり偉大な人物で、そして……変なところでぼくに似ている。
「……ここに留まることが、救世主の使命かと問われれば答えはありませぬ。しかし、少なくともズエンカ嬢を無事に故郷へ帰すという役目は、救世主たるあなたでなくとも遂行できましょう。決してお嬢さんのことが大事でないとは申しませぬが……」
首を横に振りながら、アザムはところどころ言葉を濁らせる。脇へ視線を流すと、ズエンカはまだパンをくわえたまま不安そうにぼくを見つめていたので、ぼくは思わずふっと失笑した。
「──せっかくのお申し出ですが、ぼくは、ズエンカと共に行きます」
アザムに向き直り、ぼくは最初から用意していた答えを口にする。アザムは、予想していたと言いたげな苦笑を口元にたたえた。
「実に遺憾ですな。ハイアート様は、我が軍の精鋭では役目を果たせぬとお考えか」
「そうではないのです。ぼくはオド老師に、ぼくの心のままに正しい道を征くようにと望まれました。なので失礼を承知で言いますが──ぼくの心はまだ、何が世界の敵で、何が世界の味方かを判断できる段にありません。それは……今までさんざんお世話になったオド老師や、アーエン・ドープ元近衛兵士長、そしてアハドー伯爵家を擁するゲイバム王国であっても、例外ではないのです」
アザムはわずかに表情を固くして、それからゆっくりと、吐息をもらした。
「……正直におっしゃられますな。しかし、我々ゲイバムは──」
「アザム」
アハドー伯爵がさえぎるように語気を強めて名前を呼び、アザムは口をつぐむ。伯爵はこちらに顔を傾けて、先ほどと同じように微笑みをたたえた。
「ハイアート様。その慎重さは、ダーン・ダイマの将来に責務を持つ身として、またそれに足る強大な力を有する者として然るべきものと理解します。今はじっくりとゲイバムを、そして世界の動向を見定めていただきたい──ですが、あなたが世界を救うその時は、きっとゲイバムと共に歩む道を選ぶこととなりましょう。なぜなら、オド老師があなたの正しさを信じたように、我らが王もあなたの正義に味方してくださると確信しているからです」
「……ありがとうございます。ぼくも、そうあればと願っています」
ぼくは深く頭を垂れた。
アハドー伯爵邸の玄関先には、長く旅を共にしてきたヘベニッフの荷馬車が出発の時を待っていた。
屋敷から門へと伸びる道の両側には騎士たちが並び、玄関の大きな両開きの扉の前に伯爵家が揃って、ぼくとズエンカの見送りのために立っている。
「伯爵閣下、この度のお招き、誠にありがとうございます。いつの日にか、またお会いできることを願っております」
「ええ。是が非にもまたお越しいただきたい。お待ちしてますぞ」
荷馬車には先にズエンカを向かわせて、ぼくは伯爵家一同に別れのあいさつを交わしていた。やがて立ち去ろうとしたその時、アザムがぼくを呼び止め、小さな布包みを手渡してきた。
「これは?」
「焼き菓子です。木の実が入っていて、とても美味しいですよ。旅のお供に、ズエンカお嬢さんとお召し上がりください」
そこで、アザムは一旦言葉を切り、次の句をためらうように口ごもった後、再び口を開いた。
「──ズエンカ嬢といえば、あなたが彼女と共に行く理由は、私が考えていたものとは違いました。あなたは──」
「いえ、あれは理由の一つですが、一番の理由ではありません」
ぼくが苦笑混じりに言うと、アザムは首を小さく傾いで、ぼくの次の言葉を待った。
「──ズエンカは、ぼくが彼女とたった二人きりの長旅をすると決めた時に、何のためらいもなくついて来てくれました。それはつまり、彼女がぼくとの旅を安心できるものと信頼してくれたからなんです。今ぼくが何を差し置いても守るべきは、その信頼なのだと、ぼくは思っています」
「ああ──それこそまさしく、あなたが答えるであろう理由だと思っていました。なぜ、そう言ってくださらなかったのか。そうであれば、もっと快く納得できたものを」
「……あの子の前では、そういう話はしづらいんですよ。彼女はツンデレ──いやその、かなり気むずかしい性格をしているもので」
ぼくの伝えたいニュアンスを何となく感じ取ってくれたのか、アザムとぼくはお互いに微笑み合った。
「お菓子、ありがとうございます。では、お達者で。必ずまた来ます」
手を振りながら、ズエンカの座る馭者席に乗り込んで魔術を起動させる。荷馬車はきれいに均された土の道をすべるように進み、ズエンカは後ろを振り返って、屋敷が遠ざかるまでずっと手を振っていた。
「……さて、と」
アハドー伯爵邸の門を抜けて街道に差しかかると、ズエンカが席に正しく座り直して独りごちた。横目でじっとりとした視線をぼくに向けている。
「ハイアート。あなたまだ、あたしに隠してることあるでしょ。『予言の救世主』って、何のこと?」
「……あれー? まだ話してなかったかなー? でもなー、別に大したことじゃなかったしなー」
「下手な芝居はやめなさいっ。もうハイアートのことで驚くことなんか何もないから、この際全部白状しちゃいなさいよっ」
「いたたた。分かった分かった、ちゃんと話すから肩パンはやめてくれ。──さて、何から話せば、君にも分かってくれるかな……」
思案を巡らせつつ、ぼくはよく晴れた青い空を見上げる。リズムの小気味よい車輪の音を乗せて、乾いたそよ風が絶えず駆け抜けていた。
いつの頃からか、風に潮の香りが混じっていた。
それに気づいたのは、オツオロを南東に抜けて、同じく丘陵族の国であるナイアロへと国境をまたいでから数日たってからだった。陸路の目的地である港町、オウベンドのある国だ。
丘陵地帯の終わりを感じさせるように山道がゆるやかに下り始めたその時、街道の左手の視界がパッと開けて、ズエンカがうおおとボルテージの高まりを感じる驚嘆を張り上げた。
高みから見下ろす光景には、ナイアロの国土の東端に広がる海岸線が真一文字に引かれていた。その先にはところどころキラキラと白く輝くやや緑がかった濃青の海面が、淡い空の青とはっきり水平線で区切られている。
「ハイアート、あれが海なんでしょ? あれが全部水だなんて信じられない!」
「うん。しかもあれは、全部塩水なんだよ。とてもしょっぱいんだ」
そう言うと、ズエンカは疑いのマナコでぼくをにらんでくる。
「うっそ。あたしが初めて海を見たからって、だまそうとしてるんでしょ」
「本当だってば。だったら浜辺に行って、実際に海を見てみようか」
荷馬車が山肌をすべるように下っていくにつれ、大海原がみるみる大きく迫ってくる。ズエンカもそこに向かうのが待ち切れないといった風に鼻息を荒くしてじっと海を見つめていた。
やがて海岸沿いを伝う街道へと乗り込んで、ほどなく砂浜まで進めそうな一角を見つけたぼくたちは、路傍に馬車を置いて歩いて波打ち際を目指した。海に来るのなんて、小学生以来か──
「おーい、ズエンカ。海は湖とかと違って波があるから、不用意に入ると危ないぞ。足を取られないように、しっかり踏ん張って」
我先にと海へ駆け出したズエンカに、大声で呼びかける。彼女はスカートの裾をつまみ上げてから、ブーツの底がひたるぐらいの深さへと大股で踏み込んだ。
そして、ズエンカは潮を手の中にすくい、躊躇なく口をつけた。
一瞬びくりと硬直して、それからにわかに彼女の顔がくしゃくしゃになっていく。
「うえー、本当にすごくしょっぱいー」
「な? ウソじゃなかっただろ」
「川より湖よりずっとずっと大きいのに、水に塩が入ってるなんて思わないよ、普通……ねえ、『日本』には海ってあったの?」




