第三章(九)「ヘザって誰だよ」
「ハイアート殿、どうかお気になさらずに。杯の水を空のままにしていた、我々の落ち度です。誰か水差しを──」
「伯爵閣下、それには及びません。ぼくが入れます」
指先をズエンカの手前にあるゴプレットの口にかざして、水精霊力を集中させる。精霊は真水の雫と変化して滴り落ち、縁近くまで杯を満たした。
「おお。水を具現させるのは極めて高い制御力を要する至難の業のはずだが、こんなにも難なくやってのけるとは」
アハドー伯爵が、驚いたように目を見開く。そして早速、ゴブレットの水を口にしたズエンカが、アッと感嘆を上げた。
「冷たい! これ、清水みたいに冷えててすごくおいしい!」
「何と、同時に水温まで……マラン出身の術師でもこれほど卓越した精霊術を扱えるかどうか」
アハドー伯爵の言葉の端々に、興奮が垣間見える。自分の中ではそこまで大したことはしていない認識なので、正直、反応に困る。
「しかも水精霊だけでなく、風精霊や土精霊、光精霊でさえも高い技術で使いこなすのだから……いやはや、大魔術師などという肩書きでは役不足ですな。そう、言うなれば──」
「言うなれば?」
わくわくする気持ちを隠そうともせず、ズエンカが合いの手を入れる。だんだん嫌な予感がしてきた。
「──火風地水光、そして魔力を意のままにする大魔術師。すなわち『六行の大魔術師』と称されるべきであろう。いかがかな?」
「『六行の大魔術師』! よく分からないけど何だかかっこいいね!」
冗談じゃない。そんな仰々しい二つ名をつけられたら、こっ恥ずかしすぎていたたまれない。
というかズエンカの乗り気な姿勢が怖い。絶対、調子に乗って事あるごとにぼくの枕詞にしてくるに違いない。
「ちょ、ちょっと待って、そんな名前──」
「納得いきません、父上」
ぼくから左斜めに位置した席に着いていた、地球年齢で二十代後半ぐらいの青年が、ぼくの言おうとしていたことに近い言葉を奪うようにして言い放った。明らかに機嫌が悪そうに、金色の眉の間にしわを寄せている。
「アザム。どうした、客人の前で失礼だぞ」
「不しつけな言葉は謝ります。しかし、父上はまだハイアート殿の火精霊術をご覧になっていないのでしょう? 他はどうあれ、火精霊術の力量が──最低でもあの子に匹敵するようなものでなければ、私は認めたくありません」
伯爵の息子、アザムが、ぼくにじっとりとした視線を浴びせながらわずかに首を横に振る。アハドー伯爵はふっと失笑をもらした。
「なるほどな。要するに、おまえはヘザが最強であってほしいのだな」
「……そ、そういう意味ではありません。ともかく、火精霊術の実力のほどを確かめぬ前にそのような大言壮語をおっしゃられるのは──」
「よかろう。それではハイアート殿、晩餐会の後にひとつ、余興につき合っていただけませぬか。私もぜひ拝見したい──オド老師をして救世主と確信させた、そのお力を」
多くの目線が、ぼくに集中する。イヤとは言えない圧力に負けて、ぼくは渋い表情でこくんとうなずいた。
空はすでに夜の濃藍に染まっていたが、二つの月が出ていて非常に明るかった。
修練場という名のただのだだっ広い空き地に、長さ二メートル近くの太い丸太が手前に二本、奥に一本、一辺の長さが五メートルほどの三角形を描くようにして等間隔に立っている。
「さて、準備は整った。ハイアート殿、あの三つの目標物を火精霊術ですべて燃やし尽くしてみせていただきたい」
ぼくの左斜め後ろ数メートルの位置から、アザムが周囲に聞かせるような大声で言った。彼の隣にはアハドー伯爵夫妻とズエンカが並び、後ろには礼服姿の騎士たちが整然と列を作っている。
「生半可な術では、ひとつとして燃え落とすこともできぬだろう──あの子なら十回呼吸をする間に全て灰に変えてしまえるが、果たして貴殿はどれだけできるのか。拝見させてもらおう」
無言でうなずいて、ぼくはターゲットとなる三本の丸太に向き直った。同時に外衣の袖口に魔力を流し、火精霊力を集めながら、思案を巡らせる。
正直なところ、ぼく自身はあんな面倒ごとにしかならなさそうな二つ名は欲しくないわけで。思えばぼくを称賛したい伯爵と、それを拒む息子との、小さないさかいに巻き込まれただけなのだ。
──もしかしたら、ここでわざと失敗すればそんなものを頂戴せずに済むんじゃないか?
いや。仮にそうだとしても、ぼくが手抜きをしたことで、アハドー伯爵の面目をつぶすことになってはいけない。
やっぱり、やるしかないか。
「では、始めます。みなさん、呼吸の数をしっかり数えておいてください」
両腕を開いて眼前にかざし、その手と手の間から、これでもかとばかりに凝縮しまくった火の精霊力を撃ち放つ。
それはおよそ直径十メートル弱の火球へと変化して三本の丸太を丸ごと包み、一秒にも満たない間にパッと消え失せた。
炎が消えた後には標的の影はなく、ただ、わずかに火炎に触れた地面がところどころ赤くただれて、小さくシューシューと音を立てているだけだった。
「……はい、完了です。アザム卿、ちゃんと数えていただけましたか?」
振り返って、ぼくはにこりともせず淡々と言った。
そのアザムも、アハドー伯爵も、騎士団も。
まるで何が起こったのかを把握できていないといった風に、一様に無表情で、ひと言も発しない。
いや。ただ一人だけは、そうでなかった。
「ごめん、ハイアート! ホンのチョットよそ見してて、見てなかった! もう終わっちゃったの?」
空気をまったく読まずに、ズエンカが叫ぶ。それが引き金になったのか、唐突にアザムが── 呵々と高らかに笑った。
「やあ、父上! 我々はとんでもないものを見てしまいましたな! こんな破天荒な火精霊術──さすがにヘザを超えぬとは申せませぬ!」
だから、ヘザって誰だよ。
「──ああ、ああ。ただ、ただひたすらに素晴らしい。諸君、もはや何人も疑いはあるまい! 我らが救世主、我らが『六行の大魔術師』に、盛大なる礼讃を──万歳!」
「万歳! 万歳! 『六行の大魔術師』! 万歳!」
伯爵が仰々しく宣言し、それに呼応して、騎士の集団が口々に野太い歓声を上げ始める。
うわぁ……予想はしてたけど、やっぱりこうなってしまった。
しかも彼らに混じって、ズエンカまで面白がって諸手を上げてはしゃいでいる。
少なくとも、彼女の中での定着は免れないだろう……ぼくはがっくりとうなだれて、肺が裏返りそうなほどの深いため息をついた。
「おはようございます、『六行の大魔術師』様。ごきげんうるわしゅう」
一夜明けて、客間の戸口に現れたズエンカは、スカートの裾をつまみ上げて一礼した。昨晩からの悪い予感は、百二十パーセント的中してしまった。
「……さすがに気色悪いから、普通にしてほしいんだけど。まぁ、それは別にいいとして──おはようズエンカ、何か用かい」
「えっとね、朝げの用意ができてるから来いって」
もうそんな頃合いか。ぼくはうなずきを返すと、大きく伸びをしながら部屋を出た。廊下では扉から少し距離を置いて、エプロン姿の女性の使用人が深く頭を垂れて待機していた。
「ズエンカ、よく眠れたかい。大きな寝台をひとりで使えて、寝やすかっただろう」
使用人の後について廊下を歩きながら、ぼくはズエンカに訊ねた。しかし彼女は困ったような複雑な表情でこちらを見て、ゆるゆると首を横に振った。
「ううん、よく眠れなかった」
「……どうして?」
「わかんない。何だか落ち着かないっていうか──気持ち悪い感じがしたの」
あんなに柔らかくて気持ちのいい寝具だったのに、何がダメだったんだろう。まぁ、世の中ベッドの上でマットレスより畳の上でせんべい布団の方が好みの人も少なからずいるようだし、身体に合わないなんてこともなくはないか……。
ほどなくして昨晩の晩餐会とは別の比較的小さな広間に案内されたぼくたちは、アハドー伯爵夫妻とアザムが待つ食卓へと招き入れられた。席に着くとすぐに、白パンと澄んだスープと、卵を用いた簡素な朝食が手際よく並べられる。
「──父上から聞きましたが、ハイアート様はそのお嬢さんをサン=サンリまで送り届ける旅の途中だとか。差し出がましいようですが、そのお役目……我々の兵団に任せてはいかがでしょうか」
食事を始めて間もなく、不意にアザムから問われて、ぼくはスープを満たしたさじを口に運ぶ動きを止めた。ふと脇のズエンカを見やると、彼女はパンにかじりついたままの格好で固まっている。
「……と、言いますと?」
「おそれながら、予言の救世主たるお方には、相応に見合った使命を担われるべきと存じます。ここミムン・ガロデは今でこそ平穏を保ってはいますが、大国同士のにらみ合いは続き、争乱の火種は未だくすぶったまま。予言された『世界の大きな動乱』とは、この地域の戦争の再発を端に発するやも知れぬと、私は考えるのです」
「ええと……要するに、この地域に戦争が起こった時のために、ぼくをオツオロの守りに就けたいということですか」
さじをスープ皿に戻し、ぼくは怪訝な顔を隠すことなく訊ねた。アザムはナプキンで口元をぬぐいながら、次に言うべき言葉を思案しているように見えた。




