第三章(五)「今日ではない」
「シラカー・ハイアートと申します。お察しのとおり、ぼくらは旅の者にございます」
「領民以外の者から陳情を受けるいわれはないが……ただの行きずりの旅人が、我に何を申しにわざわざ参ったのかを知りたい。話せ」
領主は渋い表情を崩さず、腕組みをして再び問いかけた。
「……では、僭越ながら申し上げます。西の辺境の村に、魔物が現れた件です──村が被害を受けてから四十週以上もの間、あなたは兵の一人も遣わさず、一体何をしていたのですか」
冷静に話したつもりが、わずかに声が怒りに震えた。領主はかっと目を見開き、あからさまに憤りを露わにする。
「おのれ、我を愚弄するか! この狼藉者を──」
「待った! その魔物がどうなったのか、聞きたくないか?」
勢いよく立ち上がって吼えると、左右の槍を構えかけた兵士が躊躇して動きを止めた。
「魔物が、どうなったか、だと……?」
「ふん、イヤだと言っても教えてあげる。魔物はもういないわ──ハイアートがやっつけたの!」
ズエンカもスッと立つと、凛として叫ぶ。領主は明らかに狼狽の色を目に宿らせていた。
「ふ、ふざけるな! そんなデタラメが──」
ゴウッと空気が激しく唸った。
ぼくの両手を、火精霊術の豪炎が包み込んだのだ。たちまち周囲に熱気が立ち込め、ズエンカが顔をしかめてぼくの足元に屈み込んだ。
「デタラメだと思うのは勝手だ。だが、ぼくと戦うのなら──ここにいる全員が束になっても魔物より強いかどうかを、よく考えてからにした方がいい」
これでも一戦交えようなどと考えるほど愚かでないことに期待して、ぼくは領主の顔をねめつけた。彼はしばし呆然として──それからゆっくりとかぶりを振った。
「……矛を収めよ。我が城を、無意味な争いで血にまみれさせるようなことは望まぬ」
兵士たちが、心なしか少し安心したような顔で槍を垂直に立て直し、脇へと後退する。ぼくは領主をにらんだまま、両手の精霊術を解いた。
「降参なら降参って言えばいいのに。素直じゃないね」
ズエンカがぼくにだけ聞こえるように小声でささやき、ぼくは口元を固くして、吹き出してしまうのをグッとこらえた。
「──それで、おまえは我に何が言いたいのだ。すでに魔物が倒されたのであれば、問題はないであろう。それとも──魔物を討伐した『ほうび』でももらい受けに来たのか?」
領主がふてくされたように言い、ぼくは苦い表情のまま、首を横に強く振った。
「お金が欲しくてやったことじゃない。そしてぼくが言いたいことは、すでにさっき言った。──村が被害を受けているのに、なぜ何もしなかった? 本来なら魔物をどうにかするのは、あなたに責任がある!」
再び領主は怒りに顔をゆがませたが、さすがに二度目はのどの奥で小さなうめきを上げたのみで、彼はがくりと頭を垂れた。
「そのとおりではあるが……我が兵は城の守りにつく最低限しかおらず、魔物へ差し向けるには傭兵を雇わねばならぬ。しかし我が領地は貧しく、その余裕がなかったのだ」
「……そうですか、分かりました。失礼します」
領主の言いわけを聞き終わったぼくは、深いため息をつくと一礼して後退し、領主らを振り見ることなくズエンカと謁見の間からホールへと歩み出た。
「ウソだね。あの人、お城の豪華な飾りにお金を使い込んじゃっただけだよ」
ホールを横断する途中、ズエンカがぼそりとつぶやいて、ぼくはうなずいた。
「分かってる。だから、何を言っても無駄だと思った──この国の病理は根深くて深刻だけど、これ以上ぼくにできることはない」
七歳児にだっておかしいと分かる言いわけを、恥じ入ることなく並べ立てる領主の治める地がどうなってしまうのか、想像に難くない。城下町の都市としてのレベルの低さも、貧民窟の異常な広さも、おそらくはそれにつながるのだろう。
しかし、暴政もまた政だ。多くの領民が暮らす社会そのものだ。
社会を、ぼくという個人の働きだけでどうこうできるはずもない。ぼくには誰にも負けない「強さ」があるが、暴力で政権を打ち倒したとしても、その後の社会に責任を持てないのであれば──それは単なるテロリズムでしかない。
もし、ぼくがこの先に本当に救世主としての運命を担えるのであれば、いつかはこの国の窮状を救えるチャンスが訪れるかもしれない。そしてそれは、今日ではない。
大湿原族国の首都を経由したのは、実は正解だったのかもしれない。
そこから丘陵族国へ渡る道はしっかりと踏み固められた通りやすい街道で、今までの山道のように細く荒れていて、雨が降ろうものならぬかるみが乾くまで何度も足止めされるような路面ではなかったからだ。
それでも、連綿と続く山峰をたどる旅路は平地を往くよりは困難なもので、エリンズからミムン・ガロデの山岳地域に至るまでの道程と比べて倍以上の月日をかけながら丘陵族国の国境をまたぐ時には、ズエンカがまた一つ歳を重ねていた。
「……ハイアート、あのね。お寝坊グセを治す努力は認めてあげたいの。でも──この音、本当にやめて欲しいんだけど!」
ズエンカは、薄目を開けてうつらうつらとしているぼくの左手首を指差して、朝っぱらから猛然と怒鳴りつけてきた。彼女の人差し指の先には、ピピピピとけたたましい電子音を放つ、デジタル仕様の腕時計がある。
「毎朝ビクーっとして起きるのは、どう考えても身体に悪いでしょ。いつか心臓が止まって、目を醒ますどころか二度と目を醒まさなくなっちゃうよ?」
「……大丈夫だよ、ズエンカ。ぼくは小学一年──いや、八歳の頃から二十一歳になるまでこんな音で朝起きしてきたけど、心臓が止まったことは一度もなかったから」
「そりゃそーでしょうよ。その間に一度でも止まってたら、もうここにはいないんだから。ていうかあたしはね、あなたのように心臓が岩みたいに頑丈にできてない、か弱い乙女なの。一緒にしないでくれる?」
八歳児(地球時間)になっても、彼女のお説教は相変わらずぼくに辛辣だ。ぼくは腕時計のアラームを停止させると、大きなあくびをしながら根が生えてきそうな頭を枕から引きはがした。
ベッド脇の板張りの窓を押し開けると、乾いた涼風が部屋を通り抜けた。眼下には背の低い住宅が、野原のあちこちに点在しているのが見える。
ここは、オツオロ丘陵族国ジカンプ村。
南北に広がる雄大な高原地帯、丘陵族が住まう地の、北の玄関口である。
ダーン・ダイマの食文化には、十分慣れてきたつもりだった。
しかしミムン・ガロデに入り、食事のメインに羊肉が頻繁に出るようになってから、ぼくは村や街の食堂でご飯を食べることがひどく苦痛に感じるようになってしまった。匂いのきつい食材は数あれど、羊の臭みだけは毎回胃袋が痙攣しそうになるほど受け付けない。
「ハイアートって、お肉嫌いだったっけ?」
「いや……肉は昔から大好物だよ。ぼくはね、好きなものは、いつも最後に食べることにしてるんだ」
食卓の対面から、ズエンカが何気なく訊ねてきた。彼女は根菜は苦手だが、手前に置かれたスープ皿にたゆたう羊の肉は、何の抵抗もなく口にしている。
大人が食物を残しては、子どもの教育に著しく悪い。
少なくとも彼女の前では、ぼくには目の前に出された食事を、残さず何でも食べる責任がある。ぼくはため息をついてから、羊肉の端切れをいくつか口に入れ、のどの奥で何度もえずきながらも顔には出さずに飲み込んだ。
「……ふう、ごちそうさま。さて──アレを見に行こうか、ズエンカ」
笑顔を作りつつ言うと、ズエンカの表情がパッと明るくなった。昨晩、この村で今日から蚤の市が開かれると小耳に挟んで、彼女は絶対に行くと何度も宣言していたのだ。
宿を引き払ってからぶらりと村の往来を歩いていくと、活気のあるざわめきがかすかに聴こえてきたので、市の開かれている場所はすぐに分かった。やがて露店の立ち並ぶ光景が見えてきて、ズエンカが小さく感嘆を上げた。
イダラバやテピンで開かれたものと比べたらかなり小規模なものではあるが、商人の血筋が騒ぐのかショッピング好きな女子の本能なのか、彼女は興奮ぎみにあちこち駆け回って商店を巡っていた。やがてテピンの時と同じように綿織物の生地を並べた露店で足を止めてじっくりと眺め始めたので、彼女を見失わないよう一緒に走り回っていたぼくはふうと一息ついてから、ぼんやりと周囲の店構えに目をやった。
織物屋の左隣に、肉を扱っているらしい商店があった。生肉ではなく、濃い褐色に染まったブロック肉を店頭に並べていて、何の肉かはひと目で分からない。店番は一人で、フードを目深にかぶっていたが、そこからのぞく顔の下半分に小ぎれいに整った口髭が見えていて品のよい紳士のような雰囲気があった。その細めの身頃といい、今まで見てきた肉屋とのイメージの違いにしばらく目を惹かれていたが、その間商人は商売をする気があるのかないのか、ただ黙ってじっと座り込んでいるだけだった。
「ねぇ、おじさん。これって何の肉?」
ますます興味が向いて、ぼくは露店の前に歩み寄ると、彼に訊いてみた。商人はわずかに顔を上げて、ぼくに微笑みを返してきた。




