第三章(二)「夜がうごめいた」
向かいの家の木の扉がほんのわずかに開いていて、その隙間から──険しくゆがんだ中年女性の顔がのぞいていた。
警戒に身を固くして、ズエンカを身体の後ろに隠しながら、女性の次の反応を待つ。
彼女は、戸の狭間から手を小さく差し出すと──
「……ヘィヒ! ヘィヒ!」
手のひらを前後に何度もスナップさせるジェスチュアと共に、声を殺して呼びかけてくる。
何を言っているのかは理解できないが、家に入ってこいと、手招きしているようだ。
どうすべきか一瞬迷ったが、他に寄る方もない。後ろ手にズエンカを引き寄せながらその家屋に駆け寄ると、女性は扉を人が通れる広さまで押し開けたので、すかさず中へと飛び込んだ。
「マッディヘィハ、ハムヒュロィへン、アマッファ!」
女性が叫びながらすぐに戸を閉めると、明かりのない家の中で、ぼくたちは闇に包まれた。
「あ、あの、ここは──」
「ダッ! フォロフ、フォロフマッ……」
押し殺した声で、話をしようとするぼくを遮ってくる。危害を加えてくるつもりはなさそうだが、事情が訊けないのではらちが空かない。
たぶん、彼女が話しているのはミムン・ガロデ語だ。何語か特定できているなら、魔術をかけるのはたやすいはずだ──
耳にする言葉を分かる言葉に変化させ、発する言葉をミムン・ガロデ語に変化させる、風の精霊術を自身に施す。
「……あの、ぼくの言葉、分かりますか」
「あれ、あんた話せるのかい。外人さんだからどうしようかと思ったよ」
おそるおそる話してみると、ほっとしたようなひそひそ声が返ってきた。
「まぁ、よその国から来た旅の者には違いないですが──この村は一体、何が起こってるんですか。あのこだまは何の音ですか」
「やっぱり、知らないで来ちゃったんだね。あれは──魔物の吠え声なんだよ」
「まっ……魔物?」
言葉の端に驚きを含み、うめくようにぼくはつぶやいた。
魔物という存在は聞いたことがある。平たく言うと、魔素から生じた動物のことだ。
動物といっても、実際は生物とは違うものだ。その肉体は濃度が高まって凝結した魔素でできており、自然の生物を模して動き──そして、とても獰猛で、無差別に人を襲うという。
その正体については、どの文献においても「よく分からないもの」だとされている。目撃例も、それほど多くはなく──ただそれは、ダーン・ダイマの中央部にある二つの巨大な山脈の狭間にあるという、「魔界」と呼ばれる地域とその周辺に集中している。その「魔界」自体もまた謎めいていて、魔物はその住人である「魔族」によって生み出され、人にあだなすため世に放たれているのだという説も多くの資料でまことしやかに語られている。
「そうさ。外人さんでも、噂には聞いたことがあるだろう? そいつは山の中に潜んでいて、夜な夜なこの辺りをうろつくのさ──危ないところだったよ、あんたら」
「……そうでしたか。あなたにも危険を冒させてしまい、申し訳なかった」
「んー、普通なら私も入れてやったりはしないんだけど……小さい女の子の声が聞こえたから、放っておけなくなってねぇ」
つまりぼく一人だったら、見放されていたわけか。またもやズエンカに助けられてしまった。
「ありがとうございます。しかし──その魔物って、どんな奴なんですか」
「私は見たことがないがね、山の方で出くわして生き残った奴が言うには、牛よりも大きくて真っ黒だったとしか──あまり詳しくは聞けなかったんだよ。そいつはすぐに正気を失って、十日ばかり苦しんだあげくにそのまま亡くなっちまったんだ。それから……かれこれ四十週間ぐらいになるかな、ご覧のとおり夜になるとあの魔物の吼え声を避けて、息を潜めて暮らす毎日さ」
四十週? ほぼ丸一年、この村は魔物に悩まされているというのか。
魔物について書かれた数少ない記録によれば、出現した魔物は例外なくすぐに兵が遣わされて、討伐されている。──どうしてここはそんなに長い間、魔物が放置されているのだろう?
「魔物をどうにかできないのですか? 助けを、呼んだりとか──」
「助けてもらおうとしたさ。でも、領主様は何もしちゃくれなかった。この村は見捨てられたのさ──村から逃げた者もいるが、小さい子や年寄りのいる家は、逃げるあてもないまま村を離れるわけにもいかないからねぇ……」
ひどい話だ。領主が村を、領民を守ろうとしないなんて、言語道断だ。
カッと腹の底が熱くなって、そのろくでもない領主様に文句を言ってやりたいと思ったが──何よりも真っ先に、ぼくがすべきことがある。
「──事情は分かりました。その魔物、ぼくが──」
言いかけたその時、不意に、ぼくの外衣の袖がぐいと引っぱられた。
「ちょっと、ハイアート。何しゃべってるのか全然分かんないよ?」
しまった。ズエンカのことをすっかり放っておいてしまった。
彼女の耳と口にも魔術をかけてやり、暗がりの中で、ぼくは彼女の頭を数回なでつけながら言った。
「ズエンカ、ごめんね。ぼくはちょっとした用事を済ませに外に出るから、このお家でおとなしく待っててくれるかい」
「え? うん。いいけど、早く帰ってきてね。まだ夕ご飯食べてないんだから」
「……ああ、分かった。すぐ済ませてくる」
ふふっと失笑を漏らしながら立ち上がり、ぼくは外の様子をうかがいつつ、戸を開いた。
「ちょっと、あんた! 一体何を──」
「おばさん、大丈夫。ハイアートはすっごい『大魔術師』なんだから、困ったことは何でもカイケツしてくれるの」
「えっ、何だって? 大魔術師って──」
ぼくは尻の辺りがムズムズしてきて、あわてて外に出るとすぐ後ろ手に戸を閉じた。
「……寒い」
村はずれに出てから、ぼくは色々と準備を施したのち、今はたき火の前で夜の冷えにぶるぶると震えていた。
その間も、山間に響く雄叫びは断続的に続いていた。方々の山に反射するので、声の主が遠いのか近いのか、まったく判断がつかない。
魔物との戦い──
人間とは何度か戦ってきたが、果たして魔物相手にぼくの業は通用するのだろうか?
生半可に無力化するだけで済ませられる相手ではない。きっと、力を尽くして戦う必要がある。
それこそ、殺すつもりで──
不意に、激しい動悸が襲ってきた。
息が詰まり、耐えがたい恐怖が、ぼくの全身をがんじがらめにしていく。
多くの死を目の当たりにしてきた。その中には、ぼく自身が手にかけた者もある。
奪われた命はもう戻らない。取り返しがつかない。そのことが、どうしようもなく恐ろしい。
その恐れを、未だに克服できないでいる。この先もずっと、克服できる気がしない。こんな人間が救世主だなんて、笑い話にもならない。
ぼくは弱い。みじめなほどに、弱い人間だ──
「……!」
ぼくはうなだれていた顔をパッと持ち上げて、闇の彼方を凝視した。
山奥の方向から、「防衛魔術」の範囲内に、何かが足を踏み入れたのだ。
その大きさは馬を遥かに超えて、どんな生物ともかけ離れた存在だった。
ぼくは、震えるひざをパチンと叩いて立ち上がった。救世主にふさわしくなくとも、今は奮い立たなければならない。ぼくには、目の前の敵を倒す責任がある。
あの吼え声がかなり近くで轟いて、周囲の空気をビリビリとさせた。
おそらく、奴との距離は百メートルもない。
「──かかってこい! おまえの相手はここにいるぞ!」
過呼吸になりそうなほどに早まる息をぐっと抑えて、ぼくは怒声を張り上げた。
もぞり、と、夜がうごめいた。
たき火の光と闇の境目で、漆黒がこちら側にはみ出して来たかのようだった。やがて、それが完全に炎の揺らめきに照らし出されると、ぼくは気圧されて一歩後ずさった。
最初にヘビかトカゲのような、爬虫類を思わせる頭部が目に入った。だが首から後ろには、水牛のような姿をした四つ足の隆々とした巨体がついていた。その全身が真っ黒で、まぶたのない二つの瞳だけが、血のように赤くギラギラと輝いている。
これが、魔物──モンスターと称する以外、他に名状しがたい奇怪なものだった。
ぼくにとっては漫画か映画の中だけのモノが、圧倒的な現実感をもって目の前にある。
足元から戦慄が立ち上ってくる。
今すぐ、すべてを放棄して、逃げ出してしまいたい。
勇気が欲しい──
歯を食いしばってギュッと閉じた口元を、ぼくは、口角を上げてニッと笑った。
「出たな、魔物め──食らえ!」
瞬時に、火精霊力を右手の中に凝縮させる。突き出した腕の先から、一条の紅蓮が空を焦がしながらほとばしった。
しかし、その一撃を難なく横飛びにかわされ、火炎弾はただ魔物のいた場所の地面を削っただけに終わった。
鈍重そうな巨体からは予想もつかない、反応と俊敏さ。
ぼくの中の恐れと焦りが高まって、思わず、のどからかすれた喘ぎが漏れた。
今の攻撃をどう捉えたのか、魔物は身じろぎせず、じっとぼくを見据えている──
そしておもむろに首をもたげ、ヘビが獲物を丸呑みにする時のように、顎を大きく、大きく開いた。
バオォォォン!
五メートルと離れていない至近距離から、心胆を寒からしめる咆哮が、ぼくの全身をつんざく。
そのあまりの威圧感に、ぼくは反射的に首と肩を縮こませて、怯んでしまった。
隙ができた、と見たのか。
魔物は、ぞろりと牙の生え揃った大口を全開にしたまま、猛然と踏み込んできた。




