第一章(八)「ソーシャルゲームの課金か」
三畳程度の手狭な部屋に、先にズエンカを入れ、その後にぼくが入った。ベッドが一つと、水の張った洗い桶が一つだけの簡素な客室だった。
「──さて、お嬢さん。まずは身体をきれいにしてあげようか。そこに座って」
言われるままに、ズエンカはベッドの縁にぴょんと腰をかけた。ぼくはひざまずいて、彼女のブーツの編み込みを丁寧にほどいていく。
「……変なの。あたし……お姫様みたい」
「変じゃないさ。女の子はね、誰でもみんなお姫様なんだよ」
ふっと失笑したその時、ぼくはズエンカと同じぐらいの歳の頃に、幼なじみとケンカをして、母にめちゃくちゃ叱られた時のことを思い出した。
その時母親に言われたのが、女の子はみんなお姫様なんだから、常に紳士でありなさい、という言葉だった。その頃のぼくには少し難しい言葉だったけど、なぜだかすごく心に残っていて、今でもぼくの行動規範の一つとして誠実に守っているつもりだ。
ここまでの旅路でたくさん歩いたせいか、ズエンカの素足は少々黒ずんでいた。洗い桶の中から濡れたタオルを引き上げて固く水気を絞り、薄いガラス細工を扱うかのように拭き上げていく。
「んっ、ふふっ。足の裏、くすぐったい……」
「ごめん。もうちょっとだから我慢して」
くすぐったさからとはいえ、顔を赤くして笑顔になった少女にほっこりした気持ちを覚える。彼女の両方の足が元の白さに戻ると、ぼくは手ぬぐいを洗いながらふうと息をついた。
「はい、足は終わり。次は背中を拭いてあげるから、後ろを向いて座って」
「……うん」
うなずくや否や、ズエンカは首元の結び目を解いていきなり上着から頭を抜いたので、思わず目をそむけてしまった。
いや。いやいや。
女の子には間違いないけど、六歳(地球年齢)の児童だぞ。どんだけ免疫がないんだ。
「……ハイアート? どうしたの……?」
気がつくと、上半身を露わにしたズエンカがぼくの前に背を向けて鎮座していた。ぼくはふーっと長いため息をついて、彼女の小さな背中の、右の肩甲骨の上辺りに手ぬぐいを押し当てた。
「冷た……っ」
ビクッと肩をいからせてつぶやくその声の妙な艶やかさに、小さく心臓が躍る。同時に絶望的な自己嫌悪がずーんと全身にのしかかってきた。
女子というものにまったく縁のない十代を過ごしてしまうと、こんなにもみっともない事になるのか。
──確か、銀貨十枚ぐらいが相場なんだっけ……?
待て待て、何を考えているんだぼくは。お金で経験値を買うとか、ソーシャルゲームの課金か。それ以前に、その日に初めて会った女性と関係を持つなんて気味が悪い。ぼくはそういった行為の責任を金銭で済ますような、無責任な人間でありたくない──
「……ハイアート、冷たいから、早くして?」
「ああ、ごめん。ちょっと、考えごとをしてた」
いけないいけない。今は無心になって、やるべきことをやらなければ。心頭滅却、心頭滅却。寿限無寿限無五劫の擦り切れ。
「……考えごと?」
「うん。そのー……正直、ズエンカみたいな小さい子と接するのは初めてでね。何を話したらいいのかとか、いろいろ悩んだりしてるんだ」
「ハイアートって……オトナなのに、変だね」
ぼくは右の肩口からゆっくりと背中をこすりつつ、少女の口さがなさに苦笑した。
「まいったな、ぐうの音も出ないよ。歳をとっただけで、オトナになれるわけじゃないからね」
「……ハイアートは、変、だけど──キライじゃない……」
言ってから、ズエンカは顔の周りに火精霊をふわふわさせながら、背を丸めてうつむいた。
「ありがとう。そう言ってくれると、ちょっと安心する。──はい、きれいになった。あとは自分でできるね」
手ぬぐいを脇から手渡して、ぼくは立ち上がった。何かしら理由をつけて部屋を出ようと思っていたが──
「……ハイアート。背中、拭いてあげる……」
コートの裾をぐいと引っ張られる。
「い、い、いや、ぼくは一人でできるし、あ、あとで、あとでするから──」
虚をつかれたせいで、ひどく挙動不審なしゃべり方になってしまった。ズエンカの言うとおり、オトナの落ち着きもくそもなくて非常に面映ゆい。
「……だめ。あたしがやるの」
何ですか、この可愛い生物。
この妙に抗いがたい、胸に迫る得体の知れない感情は、一体何なのだろう。
いや、話には聞いたことがある。可愛いとも好きとも幸福感ともつかず、またそれらがないまぜになったような名状しがたい感動を、かつて人は「萌え」と呼称した。これがそうなのか。
しかし、ぼくは自身の性的嗜好についてなど考えたこともなかったが、少なくともロリとかペドといった方向性ではない。たぶん。
だから、かような「萌え」などには負けん。負けてたまるか。
「……分かった。背中はお願いしよっか」
負けちゃった。
心の自由がきかないとはこのことか。ぼくは眉間にしわを寄せながら外衣をベッドに放り出して、上衣を脱ぎ去ると、あぐらをかいてズエンカに背を向けた。
べちゃっ。
多分に水気を含んだものが背中に当たる音がした。女児の腕力で手ぬぐいを絞るのだから、当然といえば当然だ。無論、必要以上に冷たい。
「ねぇ、身体をきれいにするのって……魔術でできないの?」
「できるとは思うけど……術式を組むのに、普通に布で拭く時間の十倍ぐらいかかりそうだから、まずやらないな」
「そうなんだ。魔術って……難しいね」
「うん。人が手足を動かしてできることって、案外複雑なことができるもんなのさ。ちょいと手を動かしてできることなら、そうした方が手っ取り早──ちょ、ちょっと、ズエンカ!」
あわてて、やや荒げた声を上げた。
ズエンカの手がわきの下を通って、お腹の辺りでもぞもぞと動いていた。背中に感じる、直に当たる人肌の温もりが一層、ぼくのあせりをかき立てる。
「背中だけでいいよ。こっちは、自分でするから」
「……なんで?」
「何でもだよ。君も、自分の方を自分でやっておいてね」
「……」
沈黙したままぼくから離れ、身体を清拭し始めたらしいズエンカを振り返らずに、ぼくは聞こえないよう静かにため息をついた。
ベッドから身を起こすと、隣で寝ているはずのズエンカの姿がなかった。
窓から見える太陽が高い。
しまった──商人たちが早朝から市を開く予定だったのに、すっかり寝坊してしまった。
ぼくは急いで身支度を整えて宿を飛び出し、涸沼村の中心にある、広場というには多少狭い場所へと向かう。
そこはすでに荷車の列が並んで、簡易的な商店街ができ上がっていた。多くの買い物客が、露店の前を行き交っている。
「おっ、やっと来ましたな」
人ごみの中からこちらを目ざとく見つけ、ヘベニッフが手を振りながら近づいてきた。
「ヘベニッフさん、遅刻してすみません。何かお手伝いできることはありますか」
ぺこりと頭を下げて言うと、ヘベニッフは口髭をなでつけながらふーむとうなった。
「もう、夕前に店じまいするまでは特にありませんな。ですが、ハイアート君にお任せしたい大事な仕事がございます」
「何でしょうか」
「とても暇そうなお姫様のお相手です。ズエンカ、こっちにいらっしゃい」
彼が視線を投げかけた方には、荷車の縁に腰をかけてぼんやりと空を見ているズエンカがいた。手にしたいつもの風車が、そよ風に吹かれてのんびり回っている。
「おい、ズエンカ。ハイアート君が来ているぞ」
二度目にヘベニッフが呼びかけた時、彼女は我に返ったように、こちらを向いて駆け寄ってきた。
「ズエンカ、市を開いている間はハイアート君と遊んできてくれないか。ハイアート君も、この子をよろしく頼みます」
「はい。さあお嬢さん、ぼくと何か面白いものを探しに行こうか」
ぼくはズエンカの目線の高さに合わせてしゃがみ、彼女は無言でこくんとうなずいた。




