第一章(七)「交代制もやむなしというわけで」
「そん──」
「やめて!」
ぼくが言うより先に、少女の叫び声が響いた。
青い顔をして、商人のまさかりを持った腕にしがみついている。
「こ、こらズエンカ、放しなさい」
「何で! 何で殺すの! ケガをしただけじゃない!」
「俺だって殺したくはないよ。だが馬は足を骨折して立てなくなったら、治る前に病気になって死んでしまうんだ。さ、どいてくれ」
ぐいと押され、ズエンカは尻もちをつく。そしてその時──何かを訴えかけるようなうるんだ目を、ぼくに向けてきた。
その瞳に、ぼくはうなずきをひとつ返して、言った。
「待って。その馬の足、ぼくが治せます」
振り上げたまさかりがピタリと止まり、商人は一瞬きょとんとした顔を見せた。
「ほ、本当かい、魔術師さん! ありがてぇ、よろしく頼む」
「ええ。それじゃまず、折れた骨が真っ直ぐつくように、副え木をしてください」
じたばたする馬を数人がかりでなだめ、右前足にあり合わせの木材を縛りつける頃には、周囲を人だかりが包んでいた。十分に魔力を蓄えた右手から、銀色の線を宙空に引いて治癒術式を成すと、魔力のシャワーが馬の足へと降り注ぐ。
数秒のうちに魔術が終わり、ぼくが馬のくつわを持ってゆっくりと引き上げると、多少よろめきながらも馬は四本の足でしっかりと立ち上がった。
周りからどよめきと拍手が湧き上がった。
「いやあ、見事な魔術ですな! ありがとう、ハイアート君──さあ、さあ! 早速出発しましょう! 急がないと今日中に涸沼村まで着きませんよ!」
柏手を打ちながら、集団の中からヘベニッフが叫ぶと、野次馬は三々五々散っていった。ぼくも元の荷車に戻ろうとした時、羽織っている黒い外衣の裾を引っぱられる感触を覚えた。
「──ズエンカ?」
見下ろすと、少女は顔を背けていて、こちらからは肩ほどまでのやや茶色の濃い亜麻色の髪しか見えなかった。彼女はよく耳をすまさないと聞き取れないほどに、か細い言葉をおもむろに吐き出した。
「……ありがとう、お馬さん、助けてくれて」
「礼なんていらないよ。ぼくも、お馬さんを助けたいと思ってたから」
少女は顔を上げて、初めてぼくを真正面から見つめ返してきた。深緑色の瞳が心なしかキラキラと輝いたように見え、そのまなじりに気恥ずかしさを覚えて照れ笑いを浮かべると、ズエンカはほんのりと頬を赤くして、かすかに、かすかに笑んだような表情を見せた。
ヘベニッフ隊商の最初の目的地、涸沼村は宵の内に差しかかっていた。
今夜の宿に落ち着き、荷下ろしを手伝って、商人たちと食堂へ赴き酒宴を楽しみ、それからまだ飲み足りなさそうな商人らを尻目に、ぼくは店の外へと出てきたところだった。アルコールで火照った身体に、夜風が心地よい。
この後は普通に、自分の部屋に戻って休もうかと思っているのだが、それには大きな問題がある。
それは、村に来る前からこの食堂に来るまで、そしてたった今も──ぼくの行く後ろをズエンカがずっとついて来ている、ということだ。
「あ、あのー、ズエンカ? どうしてずっと、ぼくの後をついてきてるのかな……?」
ぼくが振り返ると、ズエンカはぷいと横を向いた。彼女が手にした風車だけがこちらを向いたまま、夜風でカラカラと音を立てながら回っていた。
「──違うもん。あたしが行こうとする先に、ハイアートがいるだけだもん……」
うわ、可愛くないなぁ。
「そ、そっか。でもぼくは、これから自分の部屋に──」
「おっとズエンカ、ここにいたのかい」
ヘベニッフの声に、ぼくは顔を上げた。彼は食堂の玄関先からこちらを見ている。
「ヘベニッフさん。あの、ぼくはもう宿に戻ろうかと思うんですが……ズエンカがずっとぼくについて来てて、どうしようかと」
ぼくは小走りにヘベニッフの側へと寄って、小声でささやいた。彼はほうと感嘆をもらして、にこりと微笑んだ。
「それなら、今晩はハイアート君にズエンカをお任せしたい。あの子が君になついているのなら、なおさらです」
「えっ? 任せるって、どういうことですか」
「ズエンカを君の部屋に泊めてほしいということです。小さい子を独りで泊めさせるわけにはいかないので、隊員が交代で面倒を見ているのですよ」
「あ、それは、確かに……でも交代でなんて、まるで彼女が厄介者みたいじゃないですか」
「いやいや、ズエンカを厄介に思っているわけではないのです。ですがね……」
ヘベニッフはこっそりと、ある方向を指差した。その先を目で追うと、通りの端で数人のドレスを着た女性が立っており、うち一人がぼくの視線に気づいて愛想よく笑いながら小さく手を振ってきた。
「旅の商人たちが、宿場に着いた時に一番楽しみにしていることなんです。誰かが一人、アレをあきらめて子守をしなければならんのですから、交代制もやむなしというわけで」
いやヘベニッフさん、他はともかくあなた奥さんがいるでしょう?
などと言いたくはあるものの、これは日本人であるぼくの常識だ。ダーン・ダイマの性風習では、結婚していようがいまいが、旅先で娼婦を買うことはごく当たり前のことで、何ら咎められるような行いではない。
というか、ダーン・ダイマのジェンダー観には平たく言うと「男の男らしさは女を抱いてナンボ、女の女らしさは男に抱かれてナンボ」というものがあるようで、誰でもウェルカムとまでは言わないが性交渉のハードルはかなり低く、「貞操観念? 何それ美味しいの?」って感じの世の中なのだ。
その価値観、倫理観が間違いだとは言えない。よく言えば日本よりはるかに死亡率が高い世界が獲得した繁殖力を強くせんとする社会通念であり、悪く言えばまだまだ野蛮だということなのだろう。
「うーん……分かりました。なら今後は、ぼくが毎回ズエンカのお守りをします。ぼくは、女を買うことはしませんので」
「えっ、いいんですか? 私どもとしては願ってもないことですが……では、彼女をよろしくお願いします」
ヘベニッフは一礼して、店の中へと戻っていく。ぼくはモヤモヤした気持ちになりながらも、おとなしく待っていたズエンカの元へと歩み寄り、しゃがんで目の高さを合わせた。
「ズエンカ、今日はぼくの部屋に泊まろうか。ううん、君がよければこれから先宿に泊まる時はぼくの部屋になるんだけど、いいかな?」
ズエンカは無表情だが、その顔の周りに、風の精霊がふわりと舞った。
「そ、そう……ハイアートがどうしてもって言うなら、別にいいけど……」
本っ当に、可愛くないお子様だ。
「ああ、お願いするよ。じゃあ行こうか」
ぼくが手を差し出すと、ズエンカはおずおずと、その小さい手でぼくの指先を握った。




