序章(十一)「私に向かって突いてきてください」
ノックもなしに、家のドアがキイと開く音を立てた。
「よう、じじい。生きておったか」
巨大な人影が、オド老師の小柄な背丈に合った玄関を窮屈そうにくぐり、最初にそう言葉を発した。オド老師のことを指してじじいと呼んだのだろうが、彼もまた髪も短く揃えた顎髭もすべてがすっかり白くなった熟年の男性だった。
小さくふくらんだバックパック以外に何も持っていないところを見ると、行商人ではなさそうだ。お客さんといっても、ぼくがここに来てからの二年間、そんなものは誰一人として訪れはしなかったので、ぼくは寝室兼研究室として使っている奥の部屋に身を隠してそっと居間の様子をうかがっていた。
「来おったな、小僧。ハイアート様、武術の先生が参りましたぞ」
その居間にいたオド老師が、その男を歓迎するように立ち上がる。それから横目でぼくの居る部屋の方をちらりと見たので、ぼくはそろそろと顔だけを出してぺこりと小さくお辞儀をした。
「こちらは……はて、どちら様かな」
きょとんとした表情でつぶやき、男は老師に向き直った。オド老師はふんと鼻で笑って、
「どちら様かとは、とんだご挨拶だのう。ダーン・ダイマの救世主に向かって」
おどけるように言うと、男性はぎょっと目を剥いた。
「何だと。じゃあ、これが……あんたの予知でいう『無垢なるもの』だと言うのか」
「間違いない。こちらにおわすお方こそ、正に『無垢なるもの』、シラカー・ハイアート様である」
自分でもそういうことらしい、という自覚は多少あったものの、仰々しい紹介のされ方にひどく尻がムズムズした。
「あ、ああ。失礼をお詫びします、ハイアート様。私は元ゲイバム近衛兵士長、アーエン・ドーブでございます」
「あ、いえ、そんな大それたものでは……よろしくお願いします」
アーエンと名乗った大男は、戸惑いながら肩をすくめて、深く頭を垂れる。ぼくはおもむろに二人の前に歩み出て、再び小さくお辞儀をした。
「それで……オド老師」
アーエンは面を上げるや眉間をしかめ、なぜか得意げにしている老人にいぶかしげに訊いた。
「結局『無垢なるもの』ってのは、どういうことか分かったのか」
「うむ、実際に見てもらった方がよいだろう。ハイアート様、あれをやって見せてください」
にこにこしながらぼくを見たオド老師にうなずきを返して、両手の人差し指を立てた。
指先から魔力を放出し、術式を描く。それから両方の手のひらの上で精霊力を高めて術式に込めると、それらを具現して空中に固定させた。
「うおっ……そんなバカな、信じられん!」
アーエンの口から、感嘆が漏れた。
ぼくの右手には炎の塊、左手には水の玉が浮かんでいる。アーエンはその二つの精霊術を交互に、にらむように見つめた。
「うむ、拙もこれには本当に驚かされた……ハイアート様はな、産まれたての赤ん坊のように『精霊染性』がまったく無いのだ」
「……そ、そんなのはあり得ない。精霊にも魔素にも染まらずに育つなど、できるはずがない」
アーエンはぶんぶんと首を横に何度も振る。
聞くところには──この異世界「ダーン・ダイマ」に生まれた者は、誰しもがすぐに精霊や魔素の影響を受け始めるという。息を吸えばその空気から、食べ物を食べればその食物から、ありとあらゆる経路から体内が精霊に染まっていくのだ。
その染まり具合を「精霊染性」と呼び、乳児の頃には目まぐるしく変化していく。そして二歳になる頃にはそのバランスが確定され、一生変わることはないと言われている。
「左様、だからこそ、この世にはいるはずのない『無垢なるもの』なのだ。思うにハイアート様は、異なる世界において、精霊や魔素がまったく存在しないか、ごくごく微量な環境で生まれ育ったために、染性がもはや何にも染まることのない完全なる中性になったと考えられる。そうしたら、どうなったと思う」
アーエンはもう一度、ぼくの両手を凝視した。これが答えなのか、と言いたげに。
「分かったようだな。ハイアート様は、通常は染性のあるもの以外は制御できぬはずの精霊力を制御できる。しかも相対するために両方を染性として持てないはずの火と水、風と土の精霊力を両方とも、だ。とどのつまり、五行の精霊力と魔力を際限なく操れる……」
オド老師は少し興奮したように、呼吸を整えてから、言葉を継いだ。
「その上、染性の濃度で制御できる精霊力の大きさが決まってくるはずが、拙が見ている限りは、限界がまったく見えぬ。その場の精霊の量さえ足りるなら、全世界を炎で包むことすら可能であるかもしれぬのだ」
アーエンの喉仏が、ゆっくりと上下した。
「そうか……予知は本当だったんだな、オド老師。ではやはり来るのか、この世界を破滅に向かわせる動乱というやつが」
「来る。しかし、拙はその時まで生きてはおるまい……だから拙は、今のうちにハイアート様に拙の持てるすべてを伝え、やがて来る世界の危機に対抗でき得る知恵と力を授けたいのだ」
ふむ、と大男はひとつうなずいて、あご髭をなでながら口元をゆがめた。
「それで『武術の先生』か。あい分かった、ハイアート様にできる限り私の持つ戦闘術をお伝えしよう。ハイアート様、訓練は多少手荒くなるかと存じますので、ご覚悟を……」
手荒い訓練と聞いて、再度深々と頭を下げたアーエンの白い頭頂部を、ぼくは不安げに見つめた。
ぼくとアーエン、オド老師は家の玄関をくぐって、いつも魔力弾や火炎弾の練習に使っている広場へと来た。
「さて、武術と申しましてもその種類は数多くございます。槍、槌矛、弓に剣……斧や短剣などもございますね。しかしまずは──『無手』から行います」
「無手?」
「ええ。手に武器を持たない戦闘法から始めようかと存じます。なぜなら武器はとどのつまり、手の延長であるからです。攻撃、防御、体捌きの動きの道理は、武器の有無、種類に関わらず同じであり、しかるにすべての基本となる無手の訓練を行うのです」
「分かりました」
ぼくはうなずいた。さて、どんな訓練をするんだろう。
訓練と聞くと、筋力トレーニングとかランニングとか、ぼくの貧困なイメージではそんなものぐらいしか思いつかないが……。
「さあ、やりましょうか。それじゃー……ハイアート様、私に向かって突いてきてください」
「はい?」
突く、というのは──つまりパンチを打てということなんだと頭では分かったが、一番最初にすることとは思えなくて反射的に訊き返してしまった。
「拳、掌底、ひじ……何でもよいので私に攻撃をしてくださいということです。蹴りでも構いませんよ」
殴り合いのケンカなんて、小学校低学年以来ずっと避けてきたことだ。急にやれと言われても、逆にビビってしまう。
「えっと、じゃあ、いきますよ」
ぼくは右のこぶしを振りかぶって、アーエンの腹部を狙って繰り出した。今のぼくにできる、渾身の一打ではあったが──
ぼくは顔面に衝撃を感じて、後ろにひっくり返ってしまった。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。分かる範囲では、前につんのめってアーエンの胸に頭から当たり、その岩のような大胸筋に跳ね返されたのだ、と思う。
「どうですか、ハイアート様」
「あ、あの、何が起きたのか分かりませんでした」
「では、もう一回やりましょう。今度はゆっくりやります」
腕を引いてぼくを立たせ、アーエンは再び突いてこいと両腕を広げて相対する。今度はしっかりと目を見開いて、ぼくはえいと気合いを発しながらこぶしを突き出した。
一瞬だけ見えた。
ぼくの伸ばした腕を内側からはたかれて、こぶしの先がアーエンの脇へそれていく。上体がぐらついてさっきとまったく同じように頭がアーエンの胸に当たるが、今回はパンチを受け流した手でぼくの腕をつかんでいたので仰向けに転がることはなかった。
「今のは、分かりましたか」
「は、はい……」
「防御の基本は内から外。手や武器を内側から当てて外に逃がすのです。まずは、この動きを徹底的に訓練します」
アーエンは手を放して三たびぼくをまっすぐ立たせると、胸の前で握りこぶしを構えた。嫌な予感がした。
「さて、次は私から突きますので、防御してください」
アーエンが、やわらかな笑みとは裏腹に、とんでもないことを言った。
「え! いきなりそんなの──げぶっ!」
胸元に体験したことのない衝撃を受けて、ぼくは二メートルばかり後方に寝転がった。
「ああっ、大丈夫ですかハイアート様! 十分に手加減して突いたつもりなのですが──」
大の字になって動けないぼくに、アーエンはおろおろとあせったような声を上げ、少し離れた所で見物をしていた老人がホッホッと高笑いをぼくらに浴びせた。




