第九章:揺れる心
リリアナのもとに、淡い香りのする便箋が届いたのは、朝の光が差し込む頃だった。
『拝啓 リリアナ様
先日は、私のような者に温かいお言葉をありがとうございました。
あの時、あなたの言葉に救われたのはわたくしの方です。つきましては、ささやかではございますが、お茶の席をご一緒いただけませんでしょうか。エドワード様とのご婚約、心よりお慶び申し上げます。ご多忙の折とは存じますが、心よりお礼を申し上げたく存じます。
レイラ・フォン・ヴェスティア』
リリアナは手紙を読み終えると、そっと微笑んだ。
「ふふ……レイラ様らしいです。初めてのレイラ様からの、お茶会のお誘い楽しみ!何を着て行こうかしら?あっ!レイラ様が初めて褒めてくれた服で行こう!」
その日の午後、ふたりは庭園の奥にある小さな東屋で向かい合った。
「本日はお招き、ありがとうございます。とても嬉しかったです」
「こちらこそ……来てくださって、ありがとうございますわ」
レイラは、ほんの少しだけ視線を揺らした。
「今日はお誘いしたのは、リリアナにご相談がありましたの……」
リリアナは、そっと紅茶を口に含んでから、静かに言った。
「ご相談ですか?私でよければ、レイラ様のお力になれるように頑張りますよ。それで、ご相談というのは……?」
「……わたくし、少し怖いのです。幸せになっていいのか、分からなくて」
「幸せになっていいのか分からない?」
レイラは顔を赤くして、小さな声で答える。
「その……こないだあるお方から、わたくしに対して熱心なご関心を寄せているとお言葉をいただきましたの……」
レイラは、そっと視線を落とした。
「それはカイン様……でしょうか?」
リリアナの問いに、レイラはわずかに肩を震わせた。
「……ええ。けれど、わたくしには……過去がありまの。仮面をかぶらなければ、立っていられないような……」
「それでも、カイン様は“今のレイラ様”を見て、好いていらしゃるのでしょう?」
リリアナの声は、あくまで静かで、優しかった。
「……そうだとしても、わたくしがその気持ちに応えてしまったらまた誰かを傷つけてしまうのではないかと……怖いですの」
「レイラ様……」
リリアナは、そっとカップを置き、まっすぐにレイラを見つめた。
「レイラ様。誰かを想うことは、誰かを傷つけることと同じではありません。それは、あなたが“優しい方”だからこそ、そう思ってしまうのです」
レイラは、ほんの少しだけ目を伏せた。その時だった。ふと、風が止んだ。
庭園の奥、木々の間に、黒い影が揺れた。
「……?」
レイラが気づいた瞬間、リリアナの背後から、何かが飛び出してきた。
「リリアナ様、危ない――!」
叫んだのは、リリアナの側に控えていたメイドだった。
彼女は咄嗟に身を投げ出し、リリアナを庇うようにして刃を受けた。
「……っ!」
レイラの視界が、ぐらりと揺れた。血の匂い。 誰かが、自分の代わりに傷つく光景。それは、遠い記憶と重なってレイラは、崩れるようにその場に倒れた。
視界がゆっくりと霞んでいく。紅茶の香りも、風の音も、遠ざかっていく。
──血の匂い。
──誰かが、自分の代わりに傷ついた。
──あの時と、同じ。
「お兄様っ……!」
声にならない声が、唇から零れた。
──あの日と同じ。
──夜会の帰り道。
──突然現れた暴漢。
──恐怖で動けなかった自分。
──庇ってくれた兄の背中。
──倒れた兄の手のひらに、血が滲んでいた。
『レイラ、大丈夫だよ。怖くない。俺が守るから……』
──その言葉が、ずっと胸に残っていた。
──守られたことが、嬉しかった。
──でも、兄が傷ついたことが、怖かった。
──だから、誰かに守られることが、怖くなった。
「……誰かが、わたくしのために傷つくのはもう……いや……!嫌ですわ…!!」
レイラはそう暗闇の中で叫ぶ。
そして意識が、深い水の底へ沈んでいく。涙が滲んだ。その涙は、誰にも見えないまま、静かに頬を濡らした。
カインは、レイラの寝台の傍らに静かに座っていた。
机の上に、封を切られていない一通の手紙が置かれている。それはレイラ・フォン・ヴェスティア宛だった。差出人は、アレク・フォン・ヴェスティア。
カインは、そっと手紙を手に取った。
「……兄、か」
レイラは、苦しげな寝息を立てていた。眉間に皺を寄せ、何かに怯えるように。カインは、封を開けるかどうか、ほんの少しだけ迷った。けれど、彼女の震える指先を見て、そっと決意する。
『レイラへ
レイラ、元気にしているかい?君はまだ、あの時の事を思っているようだね……。もう気にしまくていいんだよ。あの時君を守れたこと、俺は誇りに思っているよ。だから、もう自分を責めないでほしい。
俺は君が笑っていてくれるなら、それだけでいいだ。
たまには、君が元気にしている姿を見せておくれ。妻のアリサも君を心配していたからね。また、手紙を書くよ。
アレク・フォン・ヴェスティア』
カインは、手紙を読み終えると、静かにそれを元の場所に戻した。そして、レイラの手をそっと包み込むように握った。
「……君は、もう赦されている。俺が、そう信じる。だから、早く……目を覚ましてくれ……」




