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第三章:遅いティータイムと仮面の気遣い

翌朝、レイラは執務室の前を通りかかったとき、ふと足を止めた。

扉の隙間から、昨夜カインが持ち込んだ書類が、 机の上にそのまま残されているのが見えた。

その傍らには、空になったティーカップ。けれど、ラベンダーの香りだけが、まだ微かに漂っていた。

 

(……飲んでくださったのね)

 

レイラは小さく息を吐き、何も言わずにその場を離れた。

仮面のまま差し出した気遣いが、ほんの少しでも届いたのなら、それでいい。その日の午後、カインは執務室で書類に目を通していた。ふと、昨夜のティーの香りが記憶の底から立ち上がる。

あの柔らかな香りと、レイラの静かな声。

 

『……“必要ない”と“持っていない”は、違いますもの』

 

彼はペンを止めた。あの言葉が、なぜか頭から離れない。

必要ない。持っていない。その違いを、彼はこれまで考えたことがなかった。

 

(……くだらん)

 

そう呟いて、再びペンを走らせる。だが、心のどこかに、“必要ない”と切り捨ててきた何かが、微かに疼いていた。ふっと空になったティーカップ見て、いつの間にか中身がない事に気づく。カインはもう一度飲むために、キッチンに向かう途中、レイラが他の王子話している所に出くわした。

 

「レイラ。あの方と、うまくやっていけそうですか?」

 

そう問いかけてきたのは、第三王子ケイン・スコットだった。

柔らかな金髪と、社交的な笑みを浮かべた彼は、レイラとは対照的な存在に見えた。

 

「兄上は、昔からああですから。感情を見せないのが癖なんですよ。まあ、あまり期待しない方がいいかもしれませんね。あの人に“心”なんて、ありませんから」

 

ケインは冗談めかして笑った。けれどレイラは、その笑みに滲む“諦め”のような色に、微かに胸を締めつけられた。

 

「……そうですの。来たばかりの、わたくしが言うのはお門違いかもしれませんけれど、“心がない”と“心を見せない”は、違いますわ。わたくしは、あの方のすべてを知っているわけではありません。けれど、軽々しく断じるには、まだ早い気がいたしますの」


その言葉は、まるで自分自身にも向けた祈りのようだった。レイラは“心を持たない王妃”として振る舞うことを選んだ。けれど本当は、誰よりも“心”を知っている。

だからこそ、見せないことと、持っていないことの違いを、誰よりも痛みとして理解していた。

ケインが目を瞬いた。

 

「それに、あの方は少なくとも、わたくしのような者を“王妃”として受け入れるだけの理性と責任をお持ちですわ。それだけで、私は十分に敬意を払う価値があると感じておりますの。それでは、わたくし、これから用がございますの。これで失礼いたしますわ。ケイン様」

 

レイラは微笑んだ。それは、完璧な仮面の笑み。けれどその奥には、昨夜のラベンダーの香りと、静かな沈黙の記憶があった。

レイラが去ったあと、ケインはしばらくその場に立ち尽くしていた。彼女の言葉が、思いのほか胸に残っていたのだ。

 

「……兄上に、そんなふうに言ってくれる人がいるとはね。追放者にして兄上の王妃。あれが噂の悪役令嬢のレイラ・フォン・ヴェスティア……ね」

 

彼は小さく笑い、踵を返した。

その数歩先、廊下の陰に立っていたカインは、手にしたティーカップを見つめたまま、動かなかった。

 

(“心がない”と“心を見せない”は、違う……か)

 

彼はその言葉を、まるで初めて聞くように、何度も反芻した。そして、何も言わずに踵を返し、ティーを淹れることなく執務室へ戻っていった。机の上には、昨夜のティーカップがまだ残っていた。

香りはもう消えていたが、あの言葉だけは――胸の奥で、まだ静かに揺れていた。

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