第3話 何度でも、初めまして
朝、台所から包丁の音が聞こえてきた。
とん、とん、とん。
聞き慣れた音だった。
リナは布団の中で目を開け、しばらく天井を見つめていた。
昨日は、いろいろなことがあった。
お母さんが自分を忘れてしまったこと。
写真や日記を見せて、何度も説明したこと。
そして最後には、泣きながら抱きしめてくれたこと。
思い出すだけで胸が苦しくなる。
けれど、最後には信じてくれた。
きっと、もう大丈夫。
そう思いたかった。
「……よし」
リナは小さく気合いを入れ、布団から抜け出した。
台所では、アンナが朝食を作っていた。
鍋から湯気が立ち上り、焼いたパンの香りが漂っている。
いつもと同じ朝だった。
「おはよう、お母さん!」
アンナが振り返る。
その顔に浮かんだのは、いつもの笑顔ではなかった。
「……え?」
アンナは包丁を置き、目を見開いた。
「あの……あなた、どうしてうちに?」
リナの足が止まった。
ほんの一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから、笑った。
「もう、お母さん。昨日も同じことしたでしょ?」
わざと明るく言ってみせる。
「びっくりするから、そういう冗談やめてよ」
アンナは笑わなかった。
困ったように眉を寄せ、リナの顔を見つめている。
「ごめんなさい。昨日、あなたと会ったのかしら……?」
「……え?」
「本当に、ごめんなさいね。私、あなたのことが分からなくて」
リナの笑顔が、少しずつ消えていった。
昨日も、同じ顔を見た。
昨日も、同じ声を聞いた。
昨日は冗談だと思った。
今日は、冗談であってほしかった。
「……待ってて」
リナは自分の部屋へ走った。
棚から写真を取り、引き出しから日記を抱えて戻ってくる。
「これ、見て」
テーブルに写真を並べた。
小さな自分を抱いた母親。
誕生日に焼いてもらったケーキ。
二人で出かけた日の写真。
「これが私。こっちがお母さん」
「……私?」
「うん。私、リナっていうの。お母さんの娘なの」
昨日と同じ説明だった。
写真を一枚ずつ指さして、日記を開いて。
いつ、どこで撮ったものなのか。
どんなことがあったのか。
昨日も、全部話した。
アンナは日記を読み、写真を何度も見比べた。
「……確かに、私の字だわ」
「うん」
「この写真も……私ね」
「うん」
「じゃあ、本当に……」
アンナはゆっくりとリナを見た。
「あなたは、私の娘なのね」
「……うん」
リナは頷いた。
昨日も、そう言ってくれた。
昨日はその言葉が嬉しくて、泣いてしまった。
なのに今日は。
「ごめんなさい、リナ」
アンナが目に涙を浮かべる。
「こんな大切なことを、どうして忘れてしまったのかしら……」
「大丈夫だよ」
リナは笑った。
「ちゃんと分かってくれたから」
嘘ではなかった。
今は、分かってくれている。
ただ、それが明日も続くのか。
リナには、もう分からなかった。
*
翌朝も、アンナはリナを忘れていた。
その次の朝も。
また、その次の朝も。
ある日は、写真を見せるとすぐに信じてくれた。
ある日は、何度も日記を読み返した。
ある日は、リナの話を最後まで聞く前に泣き出してしまった。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
アンナは何度も謝った。
そのたびに、リナは首を横に振った。
「お母さんは悪くないよ」
何度も言った。
けれど、アンナは自分を責めるのをやめなかった。
ある朝、リナは写真を持って台所へ向かった。
いつものように説明を始める。
「私、リナっていうの。お母さんの娘で……」
そこで、声が止まった。
何度目だろう。
この言葉を口にするのは。
アンナは心配そうにリナを見つめた。
「……どうしたの?」
「ううん」
リナは慌てて笑った。
「なんでもないよ」
けれど、目の端には涙が浮かんでいた。
アンナはそれに気づいた。
そして、しばらく考え込んだあと、言った。
「ねえ、リナ」
「なあに?」
「手紙を書いてみようと思うの」
「……手紙?」
「明日の私に」
アンナは机から紙とペンを持ってきた。
「もう、あなたに同じことを言わせたくないの」
そう言って、ゆっくりと文字を書き始めた。
リナは隣に座り、その手元を見守った。
――明日の私へ。
――この子の名前は、リナ。
――あなたの大切な娘です。
――あなたはこの子のことを思い出せないかもしれません。
――でも、どうか信じてあげてください。
――この子は何も悪くありません。
アンナは最後の一行を書き終えると、紙をリナに見せた。
「これを、朝になったら私に見せてくれる?」
「……うん!」
リナは大きく頷いた。
今度こそ。
今度こそ、何かが変わるかもしれない。
そんな小さな希望が胸に灯った。
*
翌朝。
アンナは手紙を読んでいた。
何度も。
何度も。
「……私が書いたの?」
「うん。昨日、お母さんが書いたんだよ」
「でも……」
アンナは自分の筆跡を指でなぞった。
「どうして、何も覚えていないの……?」
リナは昨日のことを説明した。
二人で手紙を書くことを決めたこと。
アンナが、もう同じ説明をさせたくないと言ってくれたこと。
手紙を書き終えたあと、少しだけ笑ってくれたこと。
全部、説明した。
手紙があっても。
写真があっても。
日記があっても。
母親の記憶は戻らなかった。
「ごめんなさい……」
アンナは手紙を握りしめた。
「私、あなたのために書いたはずなのに……そのことさえ忘れてしまったのね」
「お母さん……」
「本当に、ごめんなさい」
リナは何も言えなかった。
母親は、自分のことを忘れたくて忘れているわけじゃない。
それは分かっていた。
分かっているのに。
どうして、こんなに苦しいのだろう。
*
ある日の午後。
リナは村外れの小さな家を訪ねた。
「オズ爺、いるー?」
「おるわい。そう大きな声を出すな」
奥から不機嫌そうな声が返ってきた。
リナはいつものように笑いながら中へ入った。
机の上には、何冊もの本と、書き込みだらけの紙が広がっている。
「また研究してたの?」
「お前の魔法のことじゃ。遊んどるわけではないぞ」
「分かってるって」
リナは椅子に腰を下ろした。
オズワルドはしばらく紙に何かを書き込んでいたが、ふと顔を上げた。
「……アンナは元気にしとるか?」
リナの手が止まった。
「…………」
「リナ?」
「……うん」
リナは笑おうとした。
「元気、だよ」
けれど、その声は震えていた。
オズワルドはペンを置いた。
「何があった」
「……何もないよ」
「嘘をつくな」
いつもなら言い返していた。
けれど、その日は何も言えなかった。
リナは膝の上で手を握りしめた。
「……お母さんね」
笑おうとした。
いつもみたいに、明るく。
「私のこと、忘れちゃったんだ」
最後の言葉は、ひどく小さくなった。
「写真を見せたら、信じてくれるの。日記もあるし、ちゃんと娘だって分かってくれるんだよ」
リナは早口で続けた。
「でもね、朝になるとまた忘れちゃうの。だから、また説明して……」
声が詰まった。
「何回も、何回も……」
涙が頬を伝った。
「私、どうしたらいいのかな……」
オズワルドは何も言わなかった。
ただ、椅子から立ち上がり、リナのそばへ来た。
そして、小さな頭に手を置いた。
リナは俯いたまま泣いた。
オズワルドは、その涙が収まるまで黙っていた。
やがてリナが顔を上げると、いつもの不機嫌そうな声で尋ねた。
「……お前はどうなんじゃ」
「え?」
「ちゃんと飯は食っとるのか?」
「……食べてるよ」
「眠れておるか?」
「……うん」
「嘘が下手じゃのう」
リナは少しだけ笑った。
「オズ爺って、意地悪だね」
「今さら気づいたか」
オズワルドはそう答え、リナの頭をもう一度撫でた。
その日の夕方。
リナが帰ったあと、オズワルドは机の上の本を閉じた。
研究を始めた頃から、いつかこんな日が来るかもしれないと考えていた。
だが、実際にあの子の口から聞くことになるとは思いたくなかった。
しばらく窓の外を眺めてから、家の奥へ向かった。
長いこと物置になっていた小さな部屋。
オズワルドは扉を開け、積み上がった荷物を見回した。
「……まったく」
誰にともなく呟く。
「世話の焼ける娘じゃ」
そう言って、古い荷物を一つずつ運び出し始めた。
*
その夜。
リナは喉が渇いて、目を覚ました。
台所へ水を飲みに行こうとして、足を止める。
小さな声が聞こえた。
すすり泣く声だった。
そっと覗くと、アンナが食卓に座っていた。
手には、写真と手紙。
「……どうして」
アンナの肩が震えていた。
「どうして思い出せないの……」
リナは動けなかった。
「こんなに可愛い子なのに……」
アンナは写真を胸に抱いた。
「私、母親失格ね……」
リナは唇を噛んだ。
違う。
お母さんは悪くない。
悪いのは、私の魔法なのに。
そう言いたかった。
けれど、声をかけたら、母親はきっとまた謝る。
また、自分を責める。
リナは静かに自分の部屋へ戻った。
布団に潜り、膝を抱える。
お母さんを泣かせたくなかった。
助けたかっただけなのに。
誰かが笑ってくれたら、それでよかったのに。
「……ごめんね、お母さん」
誰にも聞こえない声で呟いた。
そして、リナは一つの決心をした。
*
翌日。
リナはアンナに写真と日記を見せ、いつものように説明した。
アンナは何度も謝り、最後にはリナの手を握った。
その手は温かかった。
「……お母さん」
「なあに?」
「私ね、オズ爺のところで暮らそうと思うんだ」
アンナは目を見開いた。
「……え?」
「オズ爺の家なら、ちゃんとご飯も食べられるし、寂しくないよ」
リナは明るく言った。
「それに、家も広いし。あの人、一人じゃ片づけもできないから」
「でも……」
アンナはリナの手を握り直した。
「あなたはまだ子供でしょう。私が守らなくちゃ……」
そこで言葉が止まった。
アンナは、テーブルに並べられた写真を見た。
それから、手紙を見た。
自分が書いたはずなのに、書いた記憶のない手紙を。
「……ごめんなさい」
「謝らないで」
リナは首を横に振った。
「お母さんが毎日泣いてるの、知ってるんだ」
アンナが顔を上げた。
「……リナ」
「私ね、お母さんに笑っててほしいの」
リナは笑おうとした。
「だから、もう無理しないで」
アンナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく尋ねた。
「そのオズワルドさんという人は……あなたを大切にしてくれる人なの?」
「うん!」
今度は、自然に笑えた。
「すっごく口が悪いし、いつも怒ってるけどね。でも、優しい人だよ」
「……そう」
アンナは少しだけ微笑んだ。
「それなら、安心ね」
リナは自分の部屋から荷物を運び始めた。
服を畳み、写真を一枚ずつ箱に入れる。
アンナが書いた日記も、忘れないための手紙も。
すべて、大切にしまった。
アンナはそばで手伝ってくれた。
時々、写真を手に取っては、リナから思い出話を聞いた。
そのたびに、嬉しそうに笑った。
そして、少しだけ悲しそうな顔をした。
荷物をまとめ終えると、アンナがリナを呼び止めた。
「ねえ、リナ」
「なあに?」
「もし明日、あなたのことを忘れていても……」
アンナは言葉を探すように、少しだけ俯いた。
「……また、会いに来てくれる?」
リナは笑った。
「うん。何度でも会いに来るよ」
アンナも笑った。
その約束を、明日には忘れてしまうとしても。
その日の二人は、確かに約束を交わした。
玄関で靴を履き、リナは振り返った。
「いってきます、お母さん」
「いってらっしゃい、リナ」
いつもと同じ言葉だった。
リナは荷物を抱え、家を出た。
少し歩いて、振り返る。
アンナはまだ玄関に立っていた。
手を振っていた。
リナも手を振り返した。
角を曲がる前に、もう一度振り返った。
まだ、そこにいた。
最後にもう一度だけ振り返ったとき、家は遠く小さくなっていた。
*
「オズ爺……」
村外れの家を訪ねると、オズワルドはいつものように不機嫌そうな顔で出てきた。
「なんじゃ、その荷物は」
「……えっと」
リナは箱を抱え直した。
「私、ここに……」
そこまで言って、言葉が止まった。
オズワルドはしばらくリナを見つめてから、家の奥を顎で示した。
「ついてこい」
連れていかれたのは、小さな部屋だった。
窓が一つ。
きれいに整えられた寝具。
小さな机と、棚。
物置だったはずの部屋が、すっかり片づいていた。
「……これ」
「どうせ来ると思っとったわい」
オズワルドはそっぽを向いた。
「使いたければ使え」
リナは部屋を見つめた。
それから、オズワルドを見上げた。
「オズ爺……私、ここにいてもいい?」
「そんなこと、いちいち聞くな」
リナは俯いた。
「……ありがとう」
「礼を言う暇があったら荷物を置け。夕飯の支度を手伝え」
「……うん!」
リナは笑った。
今度は、少しだけ泣きながら。
*
その夜。
リナは新しい部屋で、母親との写真を眺めていた。
小さな自分を抱く母親。
笑っている母親。
自分の知らない頃の母親も、写真の中にはいた。
「……お母さん」
写真を胸に抱く。
もう、あの家で眠ることはない。
朝になっても、台所から母親の声は聞こえない。
そう思った途端、涙がこぼれた。
声を出さないように、口元を押さえた。
しばらくして、扉が軽く叩かれた。
「……まだ起きとるのか」
「うん」
リナは慌てて涙を拭った。
扉の向こうから、オズワルドの声がする。
「何か要るものはあるか」
「……ううん。大丈夫」
少し間が空いた。
リナは写真を見つめながら、ぽつりと言った。
「お母さん、ちゃんとご飯食べてるかな……」
オズワルドはため息をついた。
「お前はまず、自分の心配をせい」
「……えへへ」
「まったく。明日の朝飯は手伝えよ」
「うん。任せて!」
足音が遠ざかっていく。
リナはもう一度、写真を見た。
「……おやすみ、お母さん」
その声は、静かな部屋に消えた。
*
それから数日。
リナは母親の家を訪ねられずにいた。
会いたかった。
声が聞きたかった。
けれど、玄関の扉を開けた母親が、自分を知らない顔で見つめる。
そう考えると、足が動かなかった。
ある日、リナが窓の外を眺めていると、オズワルドが籠を差し出した。
「ほれ」
「……なに、これ?」
「見れば分かるじゃろ。野菜じゃ」
籠には、畑で採れたばかりの野菜が入っていた。
「アンナのところへ届けてこい」
「……え?」
「理由があれば、訪ねやすかろう」
リナは籠を見つめた。
それから、オズワルドを見た。
「……オズ爺」
「なんじゃ」
「ありがとう」
「礼なら帰ってから言え。日が暮れるぞ」
リナは籠を抱え、家を出た。
*
懐かしい家の前に立つ。
何度も開けた扉。
何度も「ただいま」と言った場所。
リナは深呼吸して、扉を叩いた。
「はーい」
中から声がした。
足音が近づいてくる。
扉が開いた。
「はい、どちら様……?」
アンナが顔を出した。
いつもの笑顔だった。
リナの口が、勝手に動いた。
「おか……」
そこで、言葉を飲み込んだ。
アンナは不思議そうに首を傾げている。
リナは籠を差し出した。
「あの、村外れのオズワルドさんのところから来ました。畑で採れた野菜を、お裾分けに……」
「あら、まあ!」
アンナは嬉しそうに目を細めた。
「立派なお野菜ね。ありがとう」
その声も、笑顔も。
何一つ変わっていなかった。
リナは胸の奥が痛むのを感じながら、笑った。
「どういたしまして」
「よかったら、お茶でも飲んでいかない?」
アンナが扉を大きく開けた。
リナは家の中を見た。
いつもの食卓。
いつもの台所。
ずっと暮らしてきた、自分の家。
「……はい」
小さく頷く。
「お邪魔します」
初めて、その言葉を口にした。
*
帰り際、アンナは玄関まで見送ってくれた。
「今日はありがとう。助かったわ」
「いえ!」
「ねえ、またお野菜を届けに来てくれる?」
リナは顔を上げた。
いつか聞いた言葉が、胸によみがえる。
――もし明日、あなたのことを忘れていても……また、会いに来てくれる?
あの日の約束を、母親はもう覚えていない。
それでも。
「はい」
リナは笑った。
「何度でも来ます」
アンナも嬉しそうに笑った。
「ありがとう。またね」
「……はい。また」
リナは頭を下げ、歩き出した。
少し進んでから振り返る。
アンナはまだ玄関に立って、手を振っていた。
リナも手を振り返す。
今度は、泣かなかった。
また会いに来よう。
何度忘れられても。
何度、初めましてを繰り返しても。
あの人が笑ってくれるなら。
リナは野菜のなくなった籠を抱え直し、オズワルドの待つ家へ歩いていった。




