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第2話 忘れられた日

リナが初めて人の命を救ったのは、十一歳の春だった。


その日はよく晴れていた。


川沿いの道には小さな花が咲き、村の子供たちの笑い声が響いていた。


リナは母親に頼まれた買い物を終え、籠を抱えて家へ帰る途中だった。


「……あれ?」


川のほうから、誰かの叫び声が聞こえた。


「誰か! 助けて!」


リナは足を止めた。


声のするほうへ駆け寄ると、川岸に何人もの大人が集まっていた。


その視線の先、流れの速い川の中に、小さな男の子がいた。


水面から顔を出しては沈み、必死に手を伸ばしている。


「早く! 流されちまう!」


男たちが縄を持って駆け回っていた。


リナは籠を放り出した。


「私も手伝う!」


「危ない! 子供は下がってろ!」


そう怒鳴られても、リナは動かなかった。


川岸に落ちていた長い枝を拾い、男の子に向かって差し出す。


「これ! これにつかまって!」


男の子の手が枝に触れた。


けれど、濡れた指はうまく動かない。


「もうちょっと! 頑張って!」


リナは身を乗り出した。


足元の土が崩れる。


「きゃっ!」


その肩を、大人の手がつかんだ。


「馬鹿! お前まで落ちるぞ!」


男たちが縄を投げ、どうにか男の子を岸まで引き上げた。


リナも慌てて駆け寄った。


「よかった……!」


けれど、男の子は動かなかった。


青白い顔のまま、目を閉じている。


「……ねえ?」


リナはその肩に触れた。


「もう大丈夫だよ。ねえ、起きて」


返事はなかった。


大人たちが男の子の体を温め、呼吸を確かめる。胸を押し、何度も名前を呼ぶ。


それでも、男の子は目を覚まさなかった。


「……嘘」


リナの声が震えた。


ついさっきまで、助けてと叫んでいたのに。


自分に向かって手を伸ばしていたのに。


「ねえ、お願い」


リナは男の子の冷たい手を握った。


「起きてよ……」


何をすればいいのかわからなかった。


魔法なら、少しは使える。


小さな火を灯したり、水を動かしたり。


けれど、こんなときに使える魔法なんて、リナは知らなかった。


それでも。


「お願いだから……!」


男の子の手を、ぎゅっと握りしめた。


「死なないで!」


その瞬間だった。


リナの手のひらから、淡い光があふれた。


「……え?」


光は男の子の体を包み込んだ。


春の日差しのような、温かい光だった。


周囲の大人たちが息を呑む。


リナ自身も、何が起きているのかわからなかった。


ただ、願っていた。


どうか。


どうか、もう一度。


「……っ、げほっ!」


男の子が激しく咳き込んだ。


「!」


「息をしたぞ!」


誰かが叫んだ。


男の子の胸が上下し、閉じていた目がゆっくりと開く。


「……おかあ、さん……」


その小さな声を聞いた瞬間、リナの目から涙がこぼれた。


「よかった……!」


男の子の母親らしい女性が駆け寄り、泣きながら我が子を抱きしめた。


周囲の人々も、ほっとしたように笑っていた。


リナはその様子を見つめていた。


自分の手には、もう光は残っていない。


どうしてあんな魔法が使えたのかも、わからない。


けれど。


あの子が、生きている。


それだけで、胸がいっぱいだった。


その日、リナは初めて治癒魔法を使った。


そして同じ瞬間、世界のどこかで、一人の人間がリナのことを忘れた。


けれど、そのことを知る者は、まだ誰もいなかった。


◇


「リナ!」


家に帰るなり、母親のアンナが駆け寄ってきた。


「川で大変なことがあったって聞いたわ。怪我はないの?」


「う、うん。大丈夫」


「大丈夫じゃないでしょう!」


アンナはリナの両肩をつかんだ。


「川に身を乗り出したんですって? あなたまで落ちたらどうするつもりだったの!」


「だって、あの子が……」


「それでもよ!」


いつも穏やかな母親の声が、少し震えていた。


リナはうつむいた。


「……ごめんなさい」


アンナはしばらく何も言わなかった。


やがて、小さく息を吐いた。


「……本当に、無事でよかった」


その言葉と一緒に、リナの体が抱き寄せられた。


「お母さん……?」


「怖かったでしょう」


アンナの手が、リナの背中を優しく撫でる。


「でも、よく頑張ったね」


リナは顔を上げた。


「……怒ってないの?」


「怒ってるわよ」


アンナは少しだけ笑った。


「ものすごく怒ってる」


「ええ……」


「でも、それと同じくらい、あなたが誰かを助けようとしたことを誇りに思ってる」


リナの胸が、じんわりと温かくなった。


「……あのね、お母さん」


「なあに?」


「私、魔法を使ったの」


「ええ、聞いたわ」


「どうやったのか、全然わかんないんだけど……あの子、元気になったんだよ」


「そう」


「すごく、嬉しかった」


アンナはリナの髪を撫でた。


「そうね」


そして、少しだけ真面目な顔になった。


「でもね、リナ」


「うん?」


「人を助けるのは素敵なことよ。だけど、自分のことも大切にしなさい」


「……うん」


「約束できる?」


「できる!」


「本当に?」


「……たぶん」


「もう」


二人は笑った。


その日の夕食は、いつもの野菜スープだった。


リナは男の子が目を覚ました瞬間のことを、何度も母親に話した。


アンナはそのたびに、初めて聞いたように相槌を打ってくれた。


父親が亡くなってから、二人だけで囲んできた食卓。


リナはその時間が大好きだった。


だから、ずっと続くと思っていた。


◇


それから一年が過ぎた。


リナは十二歳になった。


治癒魔法は、あの日だけの奇跡ではなかった。


大怪我をした人。


重い病に苦しむ人。


命の危険にさらされた人。


リナが必死に助けたいと願うと、不思議な光が手のひらからあふれた。


村では、リナのことを特別な魔法が使える少女だと噂するようになった。


けれど、リナにとって大切なのは、魔法そのものではなかった。


助けた人が笑ってくれること。


その人の家族が、嬉しそうに泣いていること。


それを見るのが、何より好きだった。


ただ、少しずつ、おかしなことも起きていた。


「あれ? おばさん、私だよ?」


いつも挨拶を交わしていた人に、首を傾げられたことがあった。


昔、一緒に遊んだ子に名前を尋ねられたこともあった。


最初は、単に忘れられただけだと思った。


けれど、何度説明しても思い出してもらえない。


まるで、自分と過ごした時間だけが、最初から存在しなかったようだった。


リナは不安になった。


村外れに住むオズワルドにも相談した。


「……妙じゃな」


老人は難しい顔をして、古い本を何冊も引っ張り出した。


「リナ。最近、変わったことはないか」


「変わったこと?」


「魔法を使ったときのことじゃ。何か気づいたことは」


「うーん……」


リナは首を傾げた。


「助けた人が元気になると、嬉しい!」


「そういう話ではない」


「ええ、だってそれくらいしか……」


「まったく、お前というやつは」


オズワルドは呆れたようにため息をついた。


けれど、その日から彼は、リナが魔法を使った日と、周囲で起きた出来事を記録するようになった。


まだ、確かなことは何もわからなかった。


リナも、深く考えないようにしていた。


忘れられるのは、寂しかった。


けれど、母親は変わらず自分を覚えていてくれた。


家に帰れば、温かいご飯があった。


名前を呼んでくれる声があった。


だから、きっと大丈夫。


そう思っていた。


◇


その朝も、いつもと変わらなかった。


「リナ、忘れ物はない?」


「ないよ!」


「本当に? 昨日は籠を忘れて出かけたでしょう」


「あっ」


「ほら」


アンナが差し出した籠を受け取り、リナは照れくさそうに笑った。


「えへへ。ありがとう、お母さん」


「まったく、あなたは」


アンナは笑いながら、リナの乱れた髪を整えた。


「いってらっしゃい。夕飯までには帰ってくるのよ」


「はーい!」


リナは元気よく手を振った。


アンナも、玄関先から手を振り返した。


それが、娘として見送ってもらえた最後の朝だった。


◇


旅人を見つけたのは、昼過ぎだった。


村外れの道。


木々の陰に、一人の男性が倒れていた。


「……え?」


リナは足を止めた。


男性の服は血で濡れていた。


片足には深い傷があり、呼吸も弱い。


「だ、大丈夫ですか!?」


リナは駆け寄った。


男性がかすかに目を開ける。


「……たす、け……」


「待ってて。今、助けるから!」


リナは男性の傷口に手をかざした。


そのとき、ふとオズワルドの顔が浮かんだ。


最近、老人は何度も言っていた。


『しばらく魔法を使うな。まだ調べておることがある』


リナは手を止めた。


どうしてだろう。


魔法を使うと、誰かに忘れられる。


そんな気がすることが、何度もあった。


けれど。


「……っ」


男性が苦しそうに呻いた。


リナは唇を噛んだ。


ここで魔法を使わなければ、この人は死んでしまうかもしれない。


村まで助けを呼びに行って、間に合うだろうか。


リナは男性の手を握った。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせるように呟いた。


「きっと、大丈夫だから」


淡い光が、手のひらからあふれた。


男性の傷が少しずつ塞がっていく。


苦しそうだった呼吸が、穏やかになっていく。


やがて、男性はゆっくりと目を開けた。


「……君が、助けてくれたのか」


「うん!」


リナは笑った。


「もう大丈夫だよ」


男性は何度も礼を言った。


リナは照れくさくなって、首を横に振った。


「元気になってくれたなら、それでいいよ!」


そのとき、ほんの一瞬。


胸の奥が、ひやりとした。


何か、とても大切なものを落としてしまったような。


そんな気がした。


けれど、周囲には何も落ちていなかった。


「……気のせい、かな」


リナは小さく首を傾げた。


そして、いつものように家へ帰った。


◇


「ただいまー!」


夕暮れの光が差し込む家に、リナの声が響いた。


台所から、いい匂いがしていた。


野菜を煮込む、懐かしい匂い。


「あ、お母さん! 今日ね、すごいことがあって――」


台所からアンナが顔を出した。


そして、少し驚いたように目を丸くした。


「あの……どちら様かしら?」


「……え?」


リナは笑ったまま固まった。


アンナは優しく微笑んでいる。


いつもと同じ顔。


いつもと同じ声。


けれど、その目には、知らない人を見るような戸惑いがあった。


「……もう、お母さん」


リナは小さく笑った。


「そういう冗談やめてよ」


「……冗談?」


「うん。びっくりするじゃん」


アンナは困ったように眉を下げた。


「あの、ごめんなさい。私、何か失礼なことを言ったかしら」


リナの笑顔が、ゆっくりと消えた。


「……お母さん?」


「ええと……」


「私だよ?」


アンナは答えなかった。


「リナだよ。ほら、朝も話したでしょ? 籠を忘れそうになって、お母さんが渡してくれて……」


「……ごめんなさいね」


その言葉を聞いた瞬間、リナの胸が締めつけられた。


「やだ……」


小さく声が漏れた。


「やだよ、そんなの」


「あなた……」


「お母さん、私だよ! リナだよ!」


リナはアンナに駆け寄った。


「一緒に住んでるでしょ? ずっと二人で暮らしてきたでしょ!」


アンナの表情が曇る。


「落ち着いて。あなたが嘘をついているとは思わないわ」


「じゃあ、思い出してよ……!」


リナの目から涙がこぼれた。


「私、お母さんの娘だよ……!」


アンナは何も言えなかった。


ただ、目の前で泣いている少女を、心配そうに見つめていた。


◇


「これ……見て」


リナは震える手で、棚の奥から古い写真を取り出した。


そこには、幼いリナとアンナが写っていた。


まだ父親が生きていた頃の、家族三人の写真もあった。


「これ、私。こっちがお母さんで……」


アンナは写真を受け取った。


何度も見つめた。


「……確かに、私ね」


「そうだよ……」


「この子が、あなたなの?」


「うん……!」


リナは何度も頷いた。


それから、日記を持ってきた。


アンナが昔、リナの成長を記していたものだった。


初めて一人で買い物に行けた日。


熱を出して寝込んだ日。


父親が亡くなった後、二人で泣いた夜。


そして、川で男の子を助けた日のこと。


アンナはページをめくりながら、唇を震わせた。


「……私の字だわ」


「うん」


「あなたのことが、こんなにたくさん書いてある……」


「……うん」


アンナは日記を閉じた。


そして、リナを見つめた。


「……ごめんなさい」


リナは息を呑んだ。


「あなたが私の娘だということは、わかったわ」


「……本当?」


「ええ。こんなにたくさん、証拠があるもの」


アンナは悲しそうに微笑んだ。


「でも……」


その先を、なかなか言えなかった。


「……思い出せないの」


リナの目から、また涙がこぼれた。


「あなたと過ごした日々も、あなたが生まれた日のことも……何も」


「……お母さん」


「ごめんなさいね」


アンナの目にも涙が浮かんでいた。


「こんなに大切なことなのに、どうして忘れてしまったのかしら……」


リナは首を横に振った。


「違う……」


何が違うのか、自分でもわからなかった。


母親は悪くない。


そんなことは、わかっている。


けれど、どうして。


どうして、自分だけ。


「……お母さん」


リナは震える声で尋ねた。


「私のこと、もう好きじゃない……?」


アンナは驚いたように目を見開いた。


そして、静かに首を横に振った。


「そんなことないわ」


「でも、覚えてないんでしょ……?」


「……ええ」


アンナはリナの前に膝をついた。


「今の私には、あなたとの思い出がないの」


リナは俯いた。


「でもね」


アンナの手が、そっとリナの頬に触れた。


「こんなに泣いているあなたを、放っておけないわ」


「……っ」


「よかったら、抱きしめてもいい?」


リナは何度も頷いた。


次の瞬間、温かな腕がリナを包み込んだ。


ずっと知っている温もりだった。


小さい頃、怖い夢を見た夜も。


父親が亡くなって、泣き疲れた夜も。


いつも、こうして抱きしめてくれた。


「ごめんなさい」


アンナの声が、耳元で震えた。


「思い出せなくて、ごめんなさいね」


リナは母親の服をぎゅっと握った。


「……お母さん」


「ええ」


「私、リナだよ……」


「……ええ」


「お母さんの、娘だよ……」


「……ええ」


アンナは何度も頷きながら、リナの背中を撫でた。


リナは声を上げて泣いた。


母親の腕の中で。


母親に、自分が誰なのかを教えながら。


何度も、何度も。


その夜、アンナは最後までリナを抱きしめていた。


リナはまだ、知らなかった。


明日の朝になれば。


この温もりをくれた母親が、もう一度、自分を忘れてしまうことを。

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