第1話 温かいスープ
「おいしい!」
少女は木の匙を握りしめ、嬉しそうに声を上げた。
目の前の器には、じゃがいもや人参、玉ねぎがたっぷり入った野菜スープが注がれている。
柔らかく煮込まれた野菜から、ほのかな甘みが広がった。
「そんなに喜んでもらえると、作った甲斐があるわ」
向かいに座る女性も、つられて笑った。
栗色の髪を後ろで緩くまとめた、穏やかな雰囲気の女性だった。
「本当においしいんだもん!」
「ふふ、ありがとう。でも、少し味が薄かったかしら?」
「ううん! この味が一番好き!」
少女は迷わず答えた。
「一番?」
「あっ、えっと……今まで食べたスープの中で!」
「まあ。そんなことを言われたら、明日からスープ屋さんでも始めようかしら」
「絶対に流行るよ!」
「そうかしら?」
「うん! 私、毎日通っちゃう!」
女性は口元に手を当てて笑った。
「それじゃあ、リナちゃんには特別に、おかわりをサービスしないとね」
「ほんと!?」
「もちろんよ」
「やった!」
リナは満面の笑みを浮かべ、空になった器を差し出した。
女性は立ち上がり、台所へ向かう。
その背中を、リナはじっと見つめていた。
使い込まれた青いエプロン。
少しだけ外側に跳ねた髪。
鍋の蓋を開ける前に、必ず一度、布巾で手を拭く癖。
何もかもが、不思議なくらい懐かしかった。
「はい、お待たせ」
「あ、ありがとう!」
リナは慌てて笑顔を戻した。
器には、先ほどよりも少し多めにスープが注がれている。
「熱いから気をつけてね」
「はーい!」
そう返事をした直後、リナは勢いよく匙を口に運んだ。
「あつっ!」
「もう。言ったばかりでしょう?」
女性は呆れたように笑い、水の入ったコップを差し出した。
「えへへ……」
「まったく、元気な子ねえ」
リナは水を飲み、舌を少しだけ出した。
「ねえ、アンナさん」
「なあに?」
「もう一杯もらってもいい?」
「えっ?」
女性――アンナは目を丸くした。
「今ので二杯目よ?」
「うん!」
「そんなに食べたら、夕飯が入らなくなるわよ」
「大丈夫! 私、いっぱい食べられるから!」
「もう、食いしん坊さんね」
そう言いながらも、アンナは嬉しそうだった。
リナはその顔を見るのが好きだった。
目尻にできる小さなしわも、笑うと少しだけ右に傾く口元も。
昔から、ずっと。
「そういえば、リナちゃん」
「ん?」
「こんなに立派なお野菜、本当にいただいてよかったの?」
アンナが台所の籠に目を向けた。
そこには、まだ土の香りが残るじゃがいもや人参が入っていた。
「もちろん! うちの畑でいっぱい採れたから!」
「まあ、そうだったの」
「オズ爺……あ、私が一緒に暮らしてるお爺さんがね、畑をやってるんだ」
「そうなのね。きっと大切に育てられたのね」
「うーん、どうだろ。いつも文句ばっかり言ってるよ」
「ふふ、野菜にも?」
「うん! 『また雑草が生えおって!』って」
リナが老人のしかめっ面を真似すると、アンナは声を上げて笑った。
「まあ、面白いお爺さんね」
「全然面白くないよ。すぐ怒るんだから!」
そう言いながらも、リナは楽しそうだった。
「でも、優しい人なのね」
「え?」
「だって、こんなにたくさんのお野菜を分けてくださるんでしょう?」
「ああ……うん。そうだね」
リナは少しだけ目を細めた。
「すごく、優しい人だよ」
アンナは微笑んだ。
「それなら、今度お礼を伝えておいてね」
「うん!」
「でも、お野菜をいただいたうえに、こんなにお話し相手になってもらって。私のほうが得しちゃったみたい」
「そんなことないよ! 私も楽しいもん!」
「そう? それならよかった」
アンナは嬉しそうに笑った。
「一人分のご飯って、つい簡単に済ませちゃうのよね」
「……そうなんだ」
「だから、今日はたくさん作れて楽しかったわ」
リナは器に目を落とした。
スープの表面に、小さな油の粒が浮いている。
人参は少し大きめで、じゃがいもは角が崩れるくらい柔らかい。
昔から変わらない、優しい味だった。
「……アンナさんはさ」
「なあに?」
「一人でご飯食べるの、寂しくない?」
アンナは少し考えるように首を傾げた。
「そうねえ。たまには寂しいこともあるけれど」
「うん」
「でも、こうして誰かが来てくれる日もあるもの」
そう言って、アンナは笑った。
「だから、そんなに悪くないわよ」
リナは顔を上げた。
「……そっか!」
「リナちゃんも、よかったらまた遊びにいらっしゃい」
「いいの?」
「もちろん。今度は何か甘いものでも用意しておくわ」
「やった! じゃあ、絶対来る!」
「ふふ、約束ね」
アンナが小指を差し出した。
リナは一瞬、その手を見つめた。
それから、そっと自分の小指を絡める。
「……約束」
二人の指が、小さく揺れた。
食事を終える頃には、窓から差し込む陽射しが少し傾いていた。
「ごちそうさまでした!」
「はい、お粗末さまでした」
リナは空になった器を重ね、台所へ運ぼうとした。
「あら、いいのよ。お客様なんだから」
「これくらい平気!」
「でも……」
「私、こういうの慣れてるから!」
そう言って、リナは器を持ち上げた。
ところが、勢いよく立ち上がった拍子に、椅子の脚へ自分の足を引っかけてしまう。
「わっ!」
「リナちゃん!」
器が傾く。
けれど、床に落ちる寸前で、リナは何とか持ち直した。
「せ、セーフ!」
アンナは胸を撫で下ろした。
「もう、びっくりしたわ」
「えへへ。危なかったぁ」
「無理しなくていいのよ。自分のことも大切にしなさい」
その言葉に、リナは目を瞬かせた。
「……うん」
「どうしたの?」
「ううん! なんでもない!」
リナは器を台所へ運び、流しに置いた。
そのとき、窓の外から子供たちの笑い声が聞こえてきた。
村の通りを、小さな男の子たちが走っていく。
「あら、元気ねえ」
アンナが窓の外を見て笑った。
「そういえば、さっき広場でちょっとした騒ぎがあったのよ」
「騒ぎ?」
「ええ。荷車の荷物が崩れてしまったらしくて。誰か怪我をしなかったかしら」
「あ、それなら大丈夫だよ!」
リナが答えた。
「私、ちょうど近くにいたんだ。荷物を拾うの、手伝ったの」
「まあ、そうだったの?」
「うん! おじさん一人じゃ大変そうだったから」
「怪我はなかった?」
「大丈夫! ちょっと擦りむいてたけど、近くの人が手当てしてくれたし」
「それならよかったわ」
アンナはほっとしたように息をついた。
「リナちゃんは優しい子なのね」
「え?」
「困っている人を、放っておけないんでしょう?」
リナは少し照れたように笑った。
「そんな大したことじゃないよ」
「いいえ。立派なことよ」
アンナはリナのそばへ歩み寄った。
そして、自然な仕草で、その頭に手を置いた。
「よく頑張ったわね」
優しく、髪を撫でる。
リナは動かなかった。
アンナの手は温かかった。
指先が髪を梳く感触も、手のひらが頭に触れる重みも。
全部、知っていた。
「……リナちゃん?」
アンナの声が聞こえる。
けれど、リナは顔を上げられなかった。
ぽたり。
床に、小さな雫が落ちた。
「あら……」
アンナは驚いて身を屈めた。
「どうしたの? 何かあった?」
「……ううん」
リナは首を横に振った。
けれど、涙は止まらなかった。
「ごめんね。なんでも、ないの」
「そう?」
「うん。ちょっと……嬉しくて」
リナは笑おうとした。
うまく笑えたかどうか、自分でもわからなかった。
アンナはそれ以上、理由を尋ねなかった。
ただ、リナの背中にそっと手を当て、ゆっくりとさすった。
「大丈夫よ」
その声は、どこまでも優しかった。
「泣きたいときは、泣いていいのよ」
リナは唇を噛んだ。
何かを言おうとして、やめた。
代わりに、小さく頷いた。
「……ありがとう」
アンナは何も言わず、もう一度だけ背中を撫でてくれた。
「今日は本当にありがとう!」
玄関先で、リナは元気よく頭を下げた。
「こちらこそ。お野菜もありがとうね」
アンナは笑っていた。
「またいつでもいらっしゃい」
「うん! 絶対来る!」
「気をつけて帰るのよ」
「はーい!」
リナは大きく手を振った。
アンナも小さく手を振り返す。
扉が閉まる。
かたり、と。
静かな音がした。
リナはしばらく、その扉を見つめていた。
それから、ゆっくりと歩き出した。
村の通りには、夕暮れの光が差し込んでいた。
パン屋からは焼きたての香りが漂い、家々の煙突からは白い煙が上がっている。
いつもと変わらない景色だった。
リナは歩いた。
誰かとすれ違えば、いつものように笑顔で挨拶をした。
小さな子供が手を振ってくれば、元気よく振り返した。
そして、村外れへ続く細い道に入ったところで。
足を止めた。
「……っ」
頬を、一筋の涙が伝った。
リナは慌てて袖で拭った。
けれど、次から次へと溢れてくる。
「……おいしかったなぁ」
小さく呟いた。
「今日も……」
あのスープは、少しだけ薄味だった。
人参は大きすぎたし、じゃがいもは煮崩れていた。
それでも、世界で一番好きな味だった。
リナは顔を覆った。
「……っ、うぅ……」
誰もいない道に、押し殺した泣き声が漏れた。
しばらくして、リナは袖で目元を拭った。
深く息を吸う。
そして、空を見上げた。
お母さん。
今日も、スープおいしかったよ。
村外れの古い家には、まだ明かりが灯っていた。
リナが扉を開けると、暖炉のそばで老人が本を読んでいた。
白髪混じりの髪に、深く刻まれた眉間のしわ。
村の子供たちからは怖がられている、偏屈な老人だった。
「ただいまー!」
「……騒がしい。もう少し静かに帰ってこられんのか」
「えー、ただいまって言っただけじゃん!」
「声がでかいんじゃ」
「オズ爺の耳が遠くなったんじゃない?」
「誰が年寄りじゃ!」
「お爺ちゃんでしょ!」
リナが笑うと、オズワルドは鼻を鳴らして本に目を戻した。
けれど、すぐにその視線を上げた。
「……母親には会えたのか?」
リナは一瞬、黙った。
それから、いつもの笑顔を浮かべた。
「うん。今日も元気だったよ」
「そうか」
「スープも作ってくれたんだ。すっごくおいしかった!」
オズワルドは本を閉じた。
「……そうか。よかったな」
「うん!」
リナは嬉しそうに頷いた。
その目元が少し赤いことに、老人は気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
「さて! じゃあ、夕飯作ろっか!」
「もう食ってきたんじゃろうが」
「オズ爺の分だよ!」
「わしはまだ腹が減っとらん」
「駄目! ちゃんと食べなきゃ!」
リナは台所へ向かっていく。
その背中を、オズワルドは黙って見送った。
やがて、鍋を取り出す音が聞こえてきた。
「オズ爺ー! じゃがいも、どこにしまったっけー?」
「昨日お前がしまったんじゃろうが!」
「あ、そっか!」
老人は深いため息をついた。
それでも、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
台所から、リナの鼻歌が聞こえる。
オズワルドは机の引き出しを開け、一冊の古いノートを取り出した。
何年も使い込まれた、革表紙のノートだった。
ページを開く。
そこには、細かな文字で、一人の少女についての記録が綴られていた。
老人は羽根ペンを取り、今日の日付を書き込んだ。
そして、少し考えてから、一行だけ書き足した。
『リナ、母親に会いに行く。帰宅後、笑顔を確認。』
ペン先が止まる。
老人は台所のほうを見た。
少女は、相変わらず楽しそうに鼻歌を歌っていた。
オズワルドはもう一度ノートに目を落とし、先ほどの一行の下に、小さく書き加えた。
『目元が赤かった。』
しばらく、その文字を見つめていた。
やがて老人は静かにノートを閉じた。
台所から、リナの声が響く。
「オズ爺! 今日も野菜スープでいい?」
「……またスープか」
「嫌なの?」
「嫌とは言っとらん」
「じゃあ決まり!」
オズワルドは椅子から立ち上がった。
「焦がすなよ」
「わかってるって!」
そう答えた直後、台所から小さな悲鳴が聞こえた。
「あっ!」
「……今度は何じゃ!」
「ちょっと鍋、熱かった!」
「当たり前じゃろうが!」
老人は呆れながら台所へ向かった。
リナは笑っていた。
いつものように、明るく。
まるで、何も悲しいことなどなかったかのように。
そして、その夜も。
母親は、自分の娘が訪ねてきたことを知らないまま、眠りについた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも面白いと思っていただけましたら、評価やブックマークをしていただけると励みになります。




