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第4話 忘れない人

 焦げ臭い匂いで、オズワルドは目を覚ました。


「……なんじゃ、この匂いは」


 寝台から起き上がり、廊下へ出る。


 台所では、リナが鍋を前にして立ち尽くしていた。


「あ、オズ爺。おはよう!」


「おはよう、じゃないわい。何を燃やした」


「燃やしてないよ。ちょっと焦げただけ」


「それを燃やしたと言うんじゃ」


 オズワルドが鍋を覗き込むと、底には黒くなった野菜がこびりついていた。


 リナは慌てて鍋を隠そうとする。


「でも、上のほうは大丈夫だから!」


「本当かのう」


「本当だってば!」


 そう言って差し出された皿には、少し色の悪い野菜炒めが盛られていた。


 オズワルドは椅子に腰を下ろし、黙って一口食べる。


「……苦い」


「えっ、そんなに?」


「炭を食っておるようじゃ」


「そこまでじゃないでしょ!」


 リナも一口食べた。


 しばらく口を動かしてから、顔をしかめる。


「……ちょっと苦いね」


「ちょっと、か」


「うん。ちょっと」


 オズワルドは鼻を鳴らした。


 それでも、皿を押し返すことはしなかった。


 リナが自分の分を食べ終える頃には、オズワルドの皿も空になっていた。


「あれ? 全部食べてくれたの?」


「食い物を粗末にするわけにはいかんじゃろ」


「無理しなくてもよかったのに」


「次は焦がすな。それだけじゃ」


 リナは少し嬉しそうに笑った。


「うん。明日はもっと上手に作るね!」


「明日もわしを実験台にする気か」


「失礼な! ちゃんと上達してるんだから!」


「それはどうかのう」


 そんなやり取りをしながら、二人は朝食を終えた。


 オズワルドが一人で暮らしていた頃、朝の食卓に会話などなかった。


 食事を作り、食べ、片づける。


 それだけだった。


 今では、朝から誰かの声が聞こえる。


 鍋を焦がした言い訳も、明日の献立の相談も、こちらの返事を待たずに始まる。


 静かな暮らしに慣れていたはずなのに。


 不思議と、もう以前の静けさを思い出せなくなっていた。


     *


 朝食のあと、オズワルドは書斎の机に向かった。


 古びた革表紙のノートを開く。


 そこには、リナの治癒魔法について調べたことが細かく書き込まれていた。


 魔法を使った日時。


 治療した相手の状態。


 その後に起きた出来事。


 そして、リナの記憶を失った人々の名前。


 最初は、単なる研究記録だった。


 治癒魔法に伴う不可解な現象を調べ、何とかして止めるためのもの。


 だが、最近では研究に関係のない記述も増えていた。


『リナ、初めて一人でパンを焼く。形は悪いが、味はまずまず』


『畑仕事中、泥に足を取られて転倒。本人は笑っていた』


『リナの好物は甘い焼き菓子。苦い薬草茶は嫌い』


 オズワルドは今日の日付を書き、少し考えてから筆を動かした。


『朝食の野菜を焦がす。本人は失敗を認めず』


「オズ爺、何書いてるの?」


「うおっ!」


 突然背後から声をかけられ、オズワルドは慌ててノートを閉じた。


 振り返ると、リナが不思議そうな顔をしていた。


「そんなに驚かなくてもいいのに」


「人の背後に忍び寄るでない!」


「普通に歩いてきたよ?」


「足音を立てんか!」


「無茶言わないでよ」


 リナは机の上のノートに目を向けた。


「それ、いつもの研究の?」


「そうじゃ」


「まだ調べてくれてるんだね」


「……まあな」


「ありがとう、オズ爺」


 リナはそれだけ言って、台所へ戻っていった。


 オズワルドはしばらく閉じたノートを見つめた。


 それから、もう一度開く。


 研究記録のページをめくる。


 リナが初めて治癒魔法を使ったのは、十一歳のときだった。


 川で溺れた子供を救った、あの日。


 あの時点で、リナを知っていた者たち。


 その後、魔法を使うたびに彼女を忘れていった者たち。


 オズワルドは何度も名前を照らし合わせていた。


 そして、一つの共通点にたどり着いていた。


 リナを忘れた者は、皆、最初の治癒魔法が使われる以前から彼女を知っていた。


 反対に、それ以降に知り合った者が記憶を失った例はない。


 偶然とは思えなかった。


 何かの条件によって、忘れる人間が決められている。


 だが、なぜそうなるのかは分からない。


 誰が次に忘れるのかも、分からない。


 オズワルドはペンを置いた。


「……厄介な魔法じゃ」


 窓の向こうでは、リナが洗濯物を干していた。


 風に煽られた大きな布と格闘しながら、何やら一人で文句を言っている。


 オズワルドはその姿をしばらく眺めた。


 そして、ノートを閉じた。


     *


 昼前、二人は家の裏にある小さな畑へ出た。


 オズワルドが土を耕し、リナが苗の周りの雑草を抜く。


「オズ爺、これっていつ頃大きくなるの?」


「もう少し暖かくなれば、よく育つじゃろ」


「そっか」


 リナは小さな葉を指でそっと撫でた。


「これが大きくなったら、お母さんに持っていこうかな」


「……そうか」


「うん。お母さん、野菜のスープが得意なんだ」


「知っとるわい」


「あ、そっか。オズ爺も食べたことあるもんね」


 リナは楽しそうに笑った。


 アンナがリナを忘れてから、もう随分と時間が経っていた。


 最初の頃、リナは母親の話をするだけで泣いていた。


 それが今では、こうして笑いながら話せる日も増えた。


 忘れられた悲しみが消えたわけではない。


 ただ、悲しいことばかりではなくなったのだろう。


「ねえ、オズ爺」


「なんじゃ」


「今日のお昼、スープにしない?」


「またか」


「またって何よ。昨日は違ったでしょ」


「お前の作るものは、だいたい似たような味じゃ」


「じゃあ今日は、オズ爺が作ってみてよ!」


「わしか?」


「そう!」


 リナは立ち上がり、腰に手を当てた。


「私が教えてあげる!」


「随分と偉そうじゃのう」


「だってオズ爺、料理下手なんだもん」


「お前にだけは言われたくないわい」


 朝の焦げた野菜を思い出したのか、リナは少しだけ目を逸らした。


     *


 昼食の支度は、予想以上に時間がかかった。


「オズ爺! そんなに大きく切ったら火が通らないよ!」


「腹に入れば同じじゃろ」


「違うってば!」


「今度は何じゃ」


「お塩、多すぎ!」


「まだ入れておらん!」


「あ、ほんとだ」


「お前、わしに文句を言いたいだけじゃろ!」


 台所は、朝以上に騒がしかった。


 それでも、どうにかスープが完成した。


 リナが味見をして、満足そうに頷く。


「うん! おいしい!」


「当然じゃ。わしが作ったんじゃからな」


「ほとんど私が教えたんだけど?」


「口を出しただけじゃろ」


「もう!」


 リナは笑いながら器を並べた。


「でも、これでオズ爺も一人で作れるね」


「作ろうと思えば、前から作れたわい」


「本当かなあ」


 リナはいたずらっぽく笑う。


「私がいないときでも、ちゃんと食べられるようにね!」


 オズワルドの手が止まった。


 リナは気づかず、スープを器によそっている。


「オズ爺、放っておくとパンとお茶だけで済ませちゃうでしょ。ちゃんと野菜も食べなきゃ駄目だよ」


「……分かっとる」


「本当に?」


「しつこいわい」


 オズワルドは器を受け取った。


 温かな湯気が立ち上っている。


 リナは自分の器を持ち、向かいの席に座った。


「いただきます!」


「……いただくとするかのう」


 二人で作ったスープは、少し野菜が大きすぎた。


 それでも、悪くない味だった。


     *


 午後、リナは村へ出かけた。


 アンナの家に届ける野菜を選ぶためだった。


 帰り道、村の広場を通りかかると、小さな子供が石につまずいて転んだ。


「うわああん!」


 膝を擦りむき、血が滲んでいる。


 リナはすぐに駆け寄った。


「大丈夫?」


「いたい……」


「うん、痛いよね。ちょっと見せてね」


 リナは子供の膝に手を伸ばした。


 指先に、慣れ親しんだ魔力を集めようとする。


 ほんの少し力を流せば、傷はすぐに塞がる。


 痛みも消える。


 いつもそうしてきた。


 けれど。


『もう、治癒魔法は使うでない』


 オズワルドの声が、頭の中によみがえった。


 リナは手を止めた。


 治癒魔法を使えば、誰かが自分を忘れる。


 それが誰なのかは分からない。


 もしかしたら、オズワルドかもしれない。


「……お姉ちゃん?」


 子供が涙の溜まった目で見上げていた。


 リナは小さく息を吸った。


「大丈夫。すぐ手当てするからね」


 近くの井戸で清潔な水を汲み、傷についた砂をそっと洗い流す。


 持っていた布を取り出し、膝に当てた。


「ちょっとしみるけど、我慢できる?」


「……うん」


「えらいね」


 リナは優しく笑った。


 しばらくすると、子供は泣きやんだ。


「ありがとう、お姉ちゃん」


「どういたしまして。お家に帰ったら、大人の人にも見てもらってね」


「うん!」


 子供は少し足をかばいながら、家のほうへ歩いていった。


 リナはその背中を見送った。


 魔法を使わなくても、助けられた。


 それが少し嬉しかった。


 けれど同時に、考えてしまった。


 もし、あの子の怪我がもっとひどかったら。


 もし、今にも命が消えそうだったら。


 自分は、同じように魔法を使わずにいられただろうか。


 答えは出なかった。


     *


 夕方、リナはオズワルドの書斎を訪ねた。


「オズ爺、ちょっといい?」


「なんじゃ。腹でも減ったか」


「違うよ」


 リナは椅子を引き、机の向かいに座った。


 いつもより少し真剣な顔をしている。


「今日ね、怪我した子がいたの」


「ほう」


「膝を擦りむいて、泣いてた」


「それで?」


「魔法を使いそうになった。でも、ちゃんと手当てしたよ」


「……そうか」


 オズワルドは頷いた。


「それでよい」


「うん」


 リナは膝の上で手を重ねた。


 しばらく黙っていたが、やがて小さな声で言った。


「でもね、オズ爺」


「なんじゃ」


「もし誰かが死にそうになってたら、私、きっと魔法を使っちゃうと思う」


 オズワルドは顔を上げた。


「約束したのに、ごめんね」


 リナは俯いた。


「今日みたいな怪我なら、魔法を使わなくても何とかなる。でも、本当に苦しんでる人がいたら……」


 言葉を探すように、指先を握りしめる。


「私、見てるだけなんてできないと思う」


 部屋が静かになった。


 窓の外では、鳥が鳴いていた。


 オズワルドは長い間、何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりと口を開いた。


「お前がそういう娘なのは、昔から知っとる」


 リナが顔を上げる。


「じゃがな、リナ。誰かを助けるたびに、お前が傷つくのを見ているのは……わしもつらいんじゃ」


「……オズ爺」


「アンナのことも、忘れたわけではあるまい」


「うん」


「わしには、まだ分からんことが多すぎる。お前の魔法が、なぜそんな代償を求めるのかもな」


 オズワルドは机のノートに目を落とした。


「じゃから、できるだけ使ってほしくない。それだけじゃ」


 リナは唇を噛んだ。


「……うん」


「お前を責めておるわけではないぞ」


「分かってる」


 リナは少しだけ笑った。


「オズ爺が心配してくれてるの、ちゃんと分かってるよ」


「なら、よい」


「ありがとう」


 オズワルドは照れくさそうに顔を背けた。


「礼を言う暇があるなら、夕飯の支度でもしてこい」


「もう、すぐそれなんだから!」


 リナは立ち上がった。


 扉を開ける前に、もう一度振り返る。


「オズ爺」


「まだ何かあるのか」


「オズ爺には、ずっと私のこと覚えててほしいな」


 オズワルドは、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……当たり前じゃ。何を今さら」


「えへへ。そうだよね!」


 リナは安心したように笑い、部屋を出ていった。


 オズワルドは、閉じた扉を見つめた。


 そして、机の上のノートに手を置いた。


 あの娘を忘れたくない。


 そう思う気持ちに、嘘などなかった。


     *


 数日後。


 リナは畑で採れた野菜を籠に詰め、アンナの家を訪ねた。


「こんにちは!」


 しばらくすると、扉が開いた。


「あら、こんにちは。どちら様かしら?」


 アンナが、にこやかに尋ねた。


 何度訪ねても、母親は自分を覚えていない。


 名前も、一緒にお茶を飲んだことも、以前ここでスープをご馳走になったことも。


 翌朝には、すべて忘れてしまう。


 リナは籠を持ち直し、笑顔を作った。


「オズワルドさんのところから来ました。リナっていいます」


「ああ、オズワルドさんのところの。何かご用かしら?」


「畑で採れたお野菜を、お裾分けに来たんです」


 リナは籠を差し出した。


「まあ、こんなにたくさん。ありがとう」


「オズ爺と一緒に育てたんです」


「そうなの。立派なお野菜ね」


 アンナは嬉しそうに笑った。


「よかったら、少し上がっていかない?」


「……いいの?」


「もちろん。ちょうどお昼の支度をしようと思っていたところなの」


 リナは小さく頷いた。


「ありがとうございます。お邪魔します」


 かつては「ただいま」と言って入っていた家。


 今では、母親に招かれて初めて中に入る。


 それでも、台所から漂う匂いは昔と変わらなかった。


「今日は野菜のスープにしようと思っていたの。リナちゃん、お料理は好き?」


「……うん。大好き!」


「だったら、一緒に作ってみない?」


「いいの?」


「ええ。せっかくだもの」


 リナは嬉しそうに頷いた。


 台所に並んで立つ。


 アンナが野菜を洗い、リナが包丁で切る。


「まあ、手際がいいのね」


「そうかな?」


「ええ。お料理が上手なのね」


 リナは包丁を動かす手を止めた。


 昔、この台所で母親に料理を教わった。


 包丁の持ち方も、野菜の切り方も。


 スープに塩を入れるタイミングも。


 全部、母親が教えてくれた。


「……うん。大切な人に教えてもらったから」


「そうなの」


 アンナは優しく笑った。


「きっと、お料理の上手な人なのね」


「うん」


 リナも笑った。


「すっごく上手なんだよ」


 アンナは照れくさそうに微笑み、鍋に野菜を入れた。


 二人で作ったスープは、懐かしい味がした。


「おいしい?」


「うん! すごくおいしい!」


「よかった」


 アンナは嬉しそうに笑った。


 その笑顔を見て、リナも嬉しくなった。


 母親は、もう自分のことを娘だとは思っていない。


 それでも、一緒に料理ができた。


 一緒に食事ができた。


 笑い合うこともできた。


 昔と同じではない。


 明日になれば、今日のことも忘れてしまう。


 だけど。


 今日の時間まで、悲しいものにしたくはなかった。


「また一緒に作ってもいい?」


 リナが尋ねると、アンナは嬉しそうに頷いた。


「もちろん。いつでもいらっしゃい」


「うん!」


 リナは心から笑った。


     *


「オズ爺! ただいま!」


 夕方、リナは勢いよく家に帰ってきた。


「騒がしいのう。帰ってきたことくらい、足音で分かるわい」


「聞いて聞いて!」


「まず荷物を置かんか」


「今日ね、お母さんと一緒にスープ作ったんだ!」


 オズワルドは顔を上げた。


「ほう」


「私が野菜を切って、お母さんが味つけしてね。すっごくおいしかった!」


「そうか」


「それでね、お料理が上手だって褒めてもらったの!」


「朝から野菜を焦がしておったくせに」


「もう! それは言わないでよ!」


 リナは頬を膨らませた。


 けれど、すぐに笑顔に戻る。


「今日ね、お母さんが楽しそうに笑ってたんだ!」


 オズワルドは、そんなリナを見つめた。


 母親に忘れられたあの日。


 泣きながら自分の家へやってきた少女が、今はこんなふうに笑っている。


 悲しみがなくなったわけではないのだろう。


 それでも、あの娘は自分なりに前へ進もうとしている。


「……よかったのう」


「うん!」


 リナは大きく頷いた。


「また一緒に料理しようって約束したんだ」


「なら、次は焦がさんようにな」


「だから、もう忘れてよ!」


 オズワルドは声を出して笑った。


 リナもつられて笑った。


 その笑い声が、夕暮れの家に響いた。


     *


 その夜。


 リナは自分の部屋で、小さな栞を作っていた。


 厚めの紙に花の絵を描き、細い紐を結ぶ。


 少し歪んでしまったが、何とか形になった。


 リナは完成した栞を眺め、満足そうに頷いた。


 それを持って、オズワルドの書斎へ向かう。


「オズ爺!」


「今度はなんじゃ」


「これ、あげる!」


 リナは栞を差し出した。


 オズワルドは眼鏡を持ち上げ、しげしげと眺める。


「……なんじゃ、これは」


「栞だよ! 見れば分かるでしょ!」


「分かっとるわい」


「研究の本を読むときに使ってね!」


「わしは別に、こんなものがなくとも……」


「いらない?」


 リナが少し寂しそうな顔をした。


 オズワルドは咳払いをした。


「……誰もいらんとは言っとらん」


「じゃあ、使ってくれる?」


「まあ、使ってやらんこともない」


「やった!」


 リナは嬉しそうに笑った。


 オズワルドは栞を机の上に置こうとして、ふと手を止めた。


「そういえば、お前は昔から妙なものを持ってきよったな」


「妙なもの?」


「初めてわしの家に来たときも、菓子を持ってきたじゃろ」


「あっ、覚えてる!」


 リナは椅子に腰を下ろした。


「あのときのオズ爺、すっごく怖かったんだから!」


「今でも十分怖いじゃろ」


「全然!」


「少しは怖がらんか」


 リナは声を上げて笑った。


 七歳の頃。


 村の外れに住むオズワルドは、子供たちから怖がられていた。


 いつも難しい顔をしていて、家の周りには見慣れない薬草が植えられている。


 近づくと叱られる。


 そんな噂もあった。


 けれど、幼いリナは気にしなかった。


 母親と焼いた菓子を籠に入れ、勝手に家を訪ねてきたのだ。


『こんにちは! お菓子、食べる?』


 突然現れた小さな少女に、オズワルドは面食らった。


『なんじゃ、お前は』


『リナ!』


『名前を聞いとるんじゃないわい』


『じゃあ、何を聞いてるの?』


 まったく話が通じなかった。


 追い返そうとしても、少女は帰らない。


 結局、オズワルドは根負けして菓子を一つ受け取った。


 それが、二人の始まりだった。


「オズ爺、あのときお菓子を食べてくれたよね」


「お前が帰らんかったからじゃ」


「でも、おいしいって言ってくれた!」


「……そんなことまで覚えておるのか」


「もちろん!」


 リナは胸を張った。


「私、オズ爺と会った日のこと、ちゃんと覚えてるよ」


 オズワルドは少しだけ目を細めた。


「……そうか」


「うん!」


 リナは笑った。


 オズワルドは栞を手に取り、読みかけの本に挟んだ。


「ほら、使ったぞ」


「えへへ。大事にしてね!」


「分かっとるわい」


 リナは満足そうに頷いた。


     *


 夜も更けた頃。


 オズワルドは書斎で本を読んでいた。


 昼間もらった栞が、ページの間から少しだけ覗いている。


 廊下から、小さな足音が聞こえた。


 やがて、扉が少し開く。


「オズ爺、まだ起きてる?」


「見れば分かるじゃろ。さっさと寝んか」


「えへへ」


 リナは扉から顔を覗かせたまま、笑った。


「ねえ、オズ爺」


「なんじゃ」


「私ね、オズ爺と暮らせてよかった」


 オズワルドの手が止まった。


 リナは少し照れくさそうに笑っていた。


「お母さんのことは、今でも寂しいけど……でも、ここに帰ってきたら、オズ爺がいるでしょ」


「……」


「一緒にご飯食べたり、畑のお世話したり、くだらないことで喧嘩したり」


 リナは指を折りながら数えた。


「そういうの、私、すごく好きなんだ」


 オズワルドは何も言わなかった。


「だからね、ありがとうって言いたかったの」


「……急になんじゃ」


「なんとなく!」


 リナは笑った。


「それだけ。おやすみ、オズ爺!」


「……早く寝ろ」


「はーい!」


 リナは扉を閉めかけた。


 けれど、少しだけ開けたまま、もう一度顔を覗かせる。


「明日の朝ご飯、何がいい?」


「焦げておらんものじゃ」


「もう!」


 リナの笑い声が廊下に響いた。


「じゃあ、おやすみ!」


「……おやすみ」


 足音が遠ざかっていく。


 オズワルドはしばらく、その扉を見つめていた。


 やがて本を閉じ、机の上のノートを開く。


 最初のページには、治癒魔法についての研究が書かれている。


 そこから先には、数えきれないほどの記録があった。


 リナが初めて魔法を使った日。


 母親に忘れられた日。


 泣きながら、この家へやってきた日。


 そして、そのずっと前のことも。


 七歳の少女が、菓子を持って訪ねてきた日。


 初めて一緒に食事をした日。


 初めてリナが料理を作った日。


 泣いた日も、笑った日も、喧嘩をした日も。


 いつの間にか、ノートには研究と関係のないことばかりが増えていた。


 オズワルドは今日の日付を書いた。


 ペンを握ったまま、少し考える。


 さっきのリナの言葉が、耳に残っていた。


『私ね、オズ爺と暮らせてよかった』


 オズワルドは小さく息を吐いた。


「……まったく」


 そして、誰にも見せるつもりのないノートに、一行だけ書き加えた。


 わしも、お前と暮らせてよかった。

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