04_拍手で艦隊を動かさないでください
「前奏は合わせて。向こうの幕が上がるまで、先へ行かないで」
ターラが指揮棒を上げた。ミナは客席の暗さを確かめた。船の窓からより、ここで吹く方がずっと多くの人へ届く。
宵座の三千二百席が、星のように光る。仮面は青、金、白。人工の夜空の下に十二層の宮殿階段があり、その左右から水の柱が立っている。どれも壊したら払えない、とミナは思った。それがまだ、今夜いちばん現実的な心配だった。
盟約前奏を吹く。鏡廊の向こうからイリヤが返した。装飾が一つ多い。次の小節で二つ足すと三つ返ってきた。ターラがこちらを睨む。ミナは一つ減らした。向こうも減らした。腹が立ったが、合唱の入りはよく聞こえた。
セラが十二段の階段へ現れた。同時に、暁座から大きな歓声が来る。ミナにはアルマの姿が見えない。セラの目だけが横へ動いた。
最初の母音が、少し暗かった。
さっき楽屋で出していた低い声を、そのまま歌へ持ち込んでいる。音程は合っていた。ただ、ミナが最後の装飾をほどいても、セラの声はその上へ伸びてこない。三小節目で彼女は裾を踏んだ。片足で回って裾を腕に巻きつけ、舞踊へ変える。客席が沸いた。
いつものセラだった。そう思ってミナも拍を詰めたが、歌へ戻ったときに母音の端がまた曇った。
向こうでは十二枚の鏡が天井に開いていた。金色の樹木から花びらが降り、五十八人の舞踊手の外套が一頭の白い鳥になる。百二十人の楽団が翼を押し上げ、最後にアルマが中央へ立った。何も動かさない。すべてが、彼女を待っていたように見えた。
ミナは悔しいので、呼吸の位置まで聞いた。イリヤの音が半拍早く細くなり、合唱が道を開け、鳥が翼を止める。舞台袖まで含めた二百六十人の仕事が、一人を大きく見せるため小さくなっている。金だけでは作れない舞台だった。
セラが手すりへ片足を載せた。予定の動きではない。
ミナは指揮台を見る。ターラは止めず、もっと、と手を動かした。セラは長い裾を螺旋にして滑り降り、客席へ入った。最前列の老女へ手を差し出す。老女は立ったが、最初の一歩でセラの手を強く握った。右膝が曲がりにくい。セラは歩幅を変え、舞台へは上がらず、通路で歌を続けた。
そこで一つ、よく通る高い音が出た。
ミナは楽屋の映像を思い出した。似ていた。けれど、老女の息に合わせて途中から少し弱くなった。その音が好きだった。セラにあとで言っていいのか分からないまま、ミナは続きへ入った。
拍手が長く残った。第一幕の承認灯が肘掛けにともり、客が親指を置いていった。最前列の老女も、セラの手を離してから押した。
窓の外の、赤い航路標が横へ滑った。
軍艦はまだ向きを変えていないのに、船尾だけが流れに押され、青い列へ寄った。青い艦の補助噴射が白く伸びる。逆へ逃げようとしている。それでも、船腹は窓の端を大きく塞いだ。
『場の切り替えを止めろ。赤の流れがこちらへ出ている』
舞台袖の回線で誰かが怒鳴った。ターラは指揮棒を伏せた。ミナは吹きかけた音を止めたが、ルクの最後の一打だけが残った。客席は、それも演出だと思ってこちらを見ていた。
床が横へ動いた。
ミナの歯にマウスピースが当たり、金属の味がした。セラは老女を椅子へ座らせたが、自分の膝を床へついた。手すりから剥がれた金の飾りが、二人の間へ落ちた。
鏡廊の向こうで、七色の光が崩れた。
暁座の奥に待機していた星石の天蓋が、運搬架台から滑り落ちていた。最初の破砕音に客席が沸き、次の鈍い音で笑いが止んだ。
割れた照明から煙が上がり、鏡廊へ続く通路の防火戸が下り始めた。宮殿の舞台係が一人、倒れた道具箱につまずいている。這って出ようとする膝の先を、星石が滑った。
ルクは太鼓の吊り紐を頭から抜いた。さっきまで鳴っていたものを、その場へ置いた。
「そっちへ行くな!」
ミナは呼んだ。ルクが振り向かないので、自分も管を置いた。足の下で小さな欠片が砕けた。
ルクは戸の向こうへ腕を伸ばしていた。舞台係の上着を掴む。滑った。もう一度掴み、今度は脇の下まで手を入れた。
ミナがルクの腰を引いた。重い。身体が浮かず、靴だけが滑る。ポロが横から道具箱を蹴り出し、防火戸がその角へ乗った。止まった隙間から、舞台係の片足が抜けた。
全員が転がって離れた。戸が下りきる音のあとに、まだ天蓋が崩れる音がした。
ルクは床に両手をつき、息を吐いた。ミナが肩へ触れると振り払われた。顔を見られたくなかったらしい。彼の目は、置いてきた太鼓の方へ動いた。
太鼓には架台の金具が落ちていた。胴が片側から潰れ、破れた皮の縁が、吹き込む空気にひらひら動いている。
助けた舞台係が起き上がろうとした。右足に力をかけた途端、声が出た。ルクはその肩を押さえ、今度は動かさなかった。
通信から、青い旗艦が接岸桁へ触れたと知らせが入った。隣へ流された赤い艦を避け、回廊の縁へ寄りすぎたのだという。宮殿の密閉は保たれている。艦内では補助噴射器の区画を閉鎖し、そこにいた整備員を運び出していた。
『客席の入力、切断。場が戻らない。現地を確認する』
施設技師が言った。拍手はとっくに止まっていた。船腹はまだ動いていた。
ヴァロが人数を数える声がした。返事のない名前が一つあり、もう一度呼んだ。客席のどこかで泣き声が上がった。
ミナは床から楽器を拾った。抱きしめるように持ってから、そんな持ち方では次を吹けないと思った。唇へ指を当てると、血がついた。
担架が来た。宮殿の舞台係は靴を脱がされ、歯を食いしばっていた。ルクは担架が扉を抜けるまで見送った。その後で太鼓の前へ戻り、飛び出した木片を素手で折ろうとした。
「切れるよ」
ミナが言った。ルクはやめた。
誰も次の曲を始めなかった。




