02_衣装代で戦争ができます
《ノヴァ》に割り当てられた楽屋は、船より広かった。
荷物を置いても、ポロは扉の外にいた。ターラが宮殿の宿泊券を配ると、一枚ずつ誰が受け取るか見ている。
「私、管を洗う道具を忘れた。あとで船に戻る」
ミナが言うと、ポロは頷いて、ようやく扇を中へ運んだ。帰りに持っていく、と言って彼女の空の楽器箱まで入口に揃えた。
壁が光る。
床も光る。
鏡は頼んでいない角度からも映す。
ルクは三分で迷子になった。
「楽屋の中で?」
通信越しにミナが聞く。
『扉が十二枚ある』
「入ってきた扉へ戻って」
『全部同じだ』
「太鼓を叩いて」
『怒られない?』
「あなたが気にする日もあるのね」
遠くで、どん、と鳴った。
壁の一枚が開き、ルクが衣装棚から出てきた。
「近かった」
「そこにいたの?」
「衣装が多すぎる」
実際、多すぎた。
歌劇祭事務局は、課題作の衣装を両劇団へ同じだけ用意している。
金の鎧、銀の喪服、青い婚礼衣、赤い婚礼衣、星を縫い込んだ外套、三メートルの冠、六メートルの裾、持つだけで二人必要な扇。
ポロは扇を一人で持ち、裏返した。
「蝶番が弱い」
「直さないで」
「まだ」
「今後も」
セラは鏡の前に立っていた。
暁姫の衣装。
赤から金へ色が移る長いドレス。肩の後ろで、機械仕掛けの光輪がゆっくり回っている。
「どう?」
ターラが聞いた。
「重いです」
「感想がポロになってる」
「美しいです」
セラは鏡の中の自分を見た。
「私ではなく」
扉が開いた。
入ってきた女は、セラと同じ衣装を着ていた。
違いは、借り物に見えないことだった。
アルマ・レイ。
《ルミエラ》の主演女優。人間。旧帝国皇族を三十七人演じ、舞台上で十三回死に、二回即位し、観客投票で一度惑星を救ったことがある。
後ろにイリヤと、灰色の正装を着た男が続く。
《ルミエラ》総監督、ヴァロ・ケイン。
「こちらの楽屋です」
ターラが言った。
「衣装の通路を確認しに来た。うちの台車が一台通れない」
ヴァロは畳んだ予定表を開いた。団員の名の横に、衣装、舞台、客席誘導と別々の時刻が書かれている。端が擦れて、同じ箇所を何度も折った跡があった。
「その羽を寄せてほしい。こちらの台車も下げる」
「今からですか」
「通らなくなる前に」
ターラが羽を畳む間、ヴァロは台車を引いた。通り抜けた衣装係の名を呼び、帰りもこの道を使うよう伝えた。
アルマはセラの前へ立った。
同じ役。
同じ衣装。
同じ光輪。
セラの光輪だけ、ときどき引っかかる。
「あなたがセラ」
アルマが言った。
「はい。旧皇后ではありません」
「聞いていないけれど」
「よく間違えられます」
「私は間違えない」
アルマはセラを上から下まで見た。
「転ぶ人でしょう」
「喜劇役者です」
「八千三百万回、転ぶところだけ見られた」
「はい」
「最後まで見られた公演は?」
「三百六人です。《台所女中の休日》。前回の巡業で」
セラはすぐ答えた。
「転倒場面の前に、扉を開けないで待つ役でした。子供が一人、早く開けてと怒りました」
「開けた?」
「待ってもらいました」
アルマは初めて、セラの顔を見直した。
楽屋の鏡に、紹介映像が流れた。セラの名の下へ旧皇后の肖像が重なり、同じ母音が二度響く。二度目は彼女が納品した稽古の音声だった。息の切れ目が消され、最初の声へ滑らかにつないである。
字幕は、《いま再び、冠のもとへ》。
「それ、止めてください」
ミナが操作盤へ触れるより早く、セラが鏡を伏せた。
「私が納めた音ではありません」
紹介文を先に確認したはずです、と続けた声だけが低くなった。ミナは前の巡業を思い出した。客がよく笑った、女中が戸の向こうへ呼びかける一声も、この高さではなかった。
アルマは自分の端末で同じ広告を開いた。宵座向けの版には皇后の肖像があり、暁座向けの版では、肖像だけが消されていた。声は同じだった。
「声を売りにするのはいいと思う。でも、これは誰が許したの」
「私は許していません」
「なら止めさせる。許すなら、その値段で契約する。無料で王家の看板を貸すことはないわ」
セラは鏡から手を離さなかった。
「値段の話ではありません」
「私は値段の話もしている。舞台に立つ人間の仕事を、広報だけで決められては困るから」
アルマは削除要求の宛先を探し始めた。ミナには、その言い方が助けになったのか分からなかった。セラの肩は少し下がったが、声は戻らなかった。
イリヤはミナの譜面を見ていた。
「版が古い」
「事務局支給です」
「私たちは校訂した」
競演化後の全集は暁座版と宵座版が別冊で、鏡門から先の場面も分かれていた。イリヤが調べたのは暁座に伝わる写本だった。
「どこを直したの」
ミナが聞くと、イリヤは終幕を開いた。
「ここ。解決する低音がない。写譜漏れかと思ったけれど、原本も同じだった」
ミナは自分の譜面を重ねた。こちらにはその低音がある。けれど、それを受けるはずの旋律が途中で切れていた。
「交換したら続きそう」
「調が違う。このままでは吹けない」
イリヤは二つの譜面を並べて写した。すぐ閉じずに、二度、目で追った。
「あとで確かめる。今は前奏を合わせたい」
彼女はミナの管を見た。
「第三ピストン、戻りが遅い」
「鳴るわ」
「細かい装飾では遅れる。映像では、そこまで聞けなかった」
「くしゃみの映像?」
イリヤは困ったように唇を閉じた。
「最後の音を吹かないところばかり出てくる。普通に吹いているあなたを、私は知らない」
ミナの指が管を強く握った。六分の録音を送ろうと、端末へ手を伸ばしかけた。聞いてくださいと言うのが急にみじめで、その手で楽器箱を閉じた。
「今日、聞けばいい」
言ってから、もっと普通に言えばよかったと思った。
ルクが間へ入ろうとする。
ターラが襟を掴んだ。
「音楽家同士の喧嘩は、音楽でやらせて」
「俺も音楽家」
「いま入ったら、余計に長くなる」
ルクはミナの握った手を見て、口を閉じた。
モルナ・ピイ事務局長が入ってきたとき、ターラは広告の原稿を机に並べていた。丸い礼服の裾を引っかけながら、モルナはまず謝った。
「ヴァルドの協賛局から、歴史的な連続性を強調するよう依頼がありました。旧皇后の肖像はエルダでは使わない条件で――」
「どちらの国向けかは聞いていません。うちの役者が確認した音を使って」
ターラが言った。モルナは言い直さず、送信済みの広告の一覧を開いた。回収できるものと、すでに放送局へ渡ったものを分ける手つきが遅かった。
セラは《冠のもとへ》を指で隠した。
「私が、誰かをそこへ帰すと歌ったことにしないでください」
モルナはその一文を書き留めた。アルマが、自分の劇団からも同じ要求を出す、と告げた。
続いて見せられたのは、三十六隻の軍艦が燦冠宮を回る航行図だった。ミナは思わず楽器箱を閉じた。
「舞台とは、つながっていませんよね」
「艦の操縦には触れません。つなぐのは、宮殿の外周回廊です」
モルナは窓を指した。青と赤の艦が入っている、入港路より太い二本の流れだった。
「式の進行に合わせて、どちらの国を先へ通すか、出口をどちらへ開くかを切り替えます。船はその中を自分で走ります」
旧帝国の宮殿には、和平歌劇を見る二組の使節を、別々の道から迎え、同じ資格で送り出す設備が残っていた。今回、両国が共同航路を再開する条件に選んだのも、その古い出口だった。相手の管制へ自国艦を預ける案は、半年かけても通らなかった。
ミナは、船を右へ押した力を思い出した。
「切り替えず、ずっと広く開けておけないんですか」
「入口と出口では、宮殿を支える場の向きが変わります。出港の間だけ開き、全艦が出たら元へ戻す。その動き自体は何度も試験しました」
横にいた施設技師が、試験の映像を見せた。無人の輸送船が、二つの流れから一本ずつ外へ出ていく。非常停止の試験では入口が閉まり、すでに中にいる船は周回を続けた。
「あの固定環に、場を蓄えています。給電を切っても消えません。輪の向きを変えて流れを動かし、弱めるときは六時間かけて抜く。急に消すと、今度は宮殿の方が動きます」
ポロが映像へ近づいた。船ではなく、宮殿の下に並ぶ固定環を見ていた。
ターラは試験記録の最後まで読んだ。両国の船員が確認した署名がある。それで事故が起きないとは限らないが、ミナにも、いま目の前で新しく何かを軍艦へ取り付けているのではないと分かった。
「私たちがすることは?」
「古い式では、客席の承認が出港許可でした。今夜もその記録を使います。ただ、非常時は公演を切り離して施設側で処理します。そこは出演契約にも明記しています」
「こちらの演出は、客席の一人を相手役にしています」
「うちは舞踊団全員だ」
ヴァロが言った。モルナは台本を二冊受け取った。
ミナは、イリヤが写していた譜面の切れ目を見た。終わり方を確かめる時間を、前奏の勝負に使ってしまったことが気になった。




