01_銀河一の劇場は二つある
銀河一の劇場には、舞台が二つあった。
銀河一の歌劇団も、二つ来た。
困ったことに、どちらも銀河一は自分たちだと思っていた。
「違うわ」
ターラは招待状を光へ透かした。
「向こうは銀河一。私たちは銀河で一番、今月の支払いが多い劇団」
星海歌劇団の巡業船は、燦冠宮の入港路を進んでいた。
正面には、金色の宮殿が浮かんでいる。
正確には、宮殿が十二、劇場が二つ、庭園が七つ、噴水が三百、すべて宇宙に浮かんでいた。噴水の水は透明な重力筒の中を花の形に巡り、宮殿の外壁では宝石ほど大きな照明球が朝と夕方を同時に作っている。
船の前を、入港路の灯が一本ずつ点滅した。ターラが左へ舵を当てると、灯の外へ出る前に船体が右へ押し戻される。ミナの膝から鉛筆が転がった。
『外周回廊から出ないでください。宮殿を支える重力場です。機関を止めても流されます』
港の係員が、慣れた声で告げた。ポロが左主機の出力を下げると、船はなお進んだが、軋みは小さくなった。重い船を運ぶ川の中にいるのだとミナは思った。窓の向こうでは、川の岸に当たる場所を、三百の噴水が縁取っていた。
旧帝国が和平のために建てた施設だった。いまも十二の宮殿は、この流れの内側に留められている。港へ入った船は係留具につながり、流れから離れる。祝賀航行の軍艦だけが、その外を回る予定だった。
和平に金を使いすぎて、次の戦争の原因になったとも言われている。
「あれ全部、本物の金?」
ルクが操舵席の窓へ額をつけた。足だけは、停船の合図が来るまで二拍子を刻んでいる。軍楽隊を辞めてからも、船が止まるときには残る癖だった。
「塗装よ」
ターラが答える。
「剥がして売れない?」
「試した劇団が永久出入り禁止になった」
「先例があるのか」
「残念そうに言わないで」
ミナは譜面を膝に置き、同じ八小節を六回吹いた。コルネットの第三ピストンが、戻るときにかすかに鳴る。油を差すほどではない。六回とも、最後の装飾だけを変えた。
七回目に入ろうとすると、後ろから細い腕が伸び、管の先を塞いだ。
音が情けなく潰れた。
「何するの、セラ」
「今ので七通り目です」
「六回」
「最初のを忘れます」
ミナは譜面の余白を見た。六つの小さな書き込みに、まだ丸がつけられない。
「どれがよかった?」
「私が息を吸えたものです」
ミナは二つ消した。
歌唱アンドロイドのセラは、いつもの簡素な稽古着ではなかった。銀糸を何層にも重ねた衣装が、立つだけで星雲のように色を変える。頭には細い冠。背中には光を反射する長い飾り羽。
借り物だった。
衣装だけで《アンコール》の今月の燃料費より高い。
「衣装で椅子を削らないで」
ターラが言った。
「削っているのは椅子です」
セラは立ったまま答えた。
ターラは椅子の背へ自分の上着を掛けた。衣装の弁償は招待状に含まれていない。
今回の仕事は、燦冠宮大歌劇祭。
休戦一周年を祝う、銀河最大級の舞台競演だった。
優勝賞金は《アンコール》の主機を四回交換できる額。そこから溜めていた借金と、先送りした出演料を払うと、一回分が残る。
ポロなら、交換せず十六回直す額だった。主機の隣には、彼の寝袋が敷かれていた。振動を聞くためにそこへ移してから、もう二週間になる。
ポロは機関部の入口に座り、左右の主機の温度を交互に見ていた。右は少しずつ下がる。左だけ下がらない。ミナが声をかけると、彼は記録画面を伏せた。
「今夜までもつ?」
「着く」
「帰りは」
ポロは答えず、足元の小箱を引き寄せた。交換した古い座金が、取り付けた日の順に並んでいる。ミナの知らない港の名もあった。新しい主機を買えば、この箱ごと要らなくなる。
「寝台で寝なよ。停泊中くらい」
「静かだと起きる」
笑う話なのかと思ったが、ポロはもう計器を見ていた。
《アンコール》の横を、白い巨大船が追い抜いた。
船首から船尾まで、鏡のように光っている。側面に五十メートルの紋章。
星冠歌劇院。
専属楽団百二十名。合唱団七十八名。舞踊団五十八名。主演、首席奏者、総監督、制作責任者を含め、総員二百六十名。大道具船三隻。衣装船二隻。専用劇場船一隻。
《ノヴァ》は五人だった。
専用劇場は、いま乗っている。
左主機の振動は、白い船の接近音に紛れた。
『小型船、進路を空けてください』
《ルミエラ》から通信が入った。
ターラが応答する。
「小型歌劇団です」
『船の話です』
「劇団の話もして」
通信が切れた。
ルクが笑う。
「感じ悪いな。好きだ」
「負けたら、あなたの太鼓から売る」
「嫌いだ」
ミナは白い船を見送った。
船尾の展望窓に、一人の女が立っていた。
イリヤ・セルン。
《ルミエラ》の首席管楽器奏者。十二歳で皇立音楽院へ入り、十六歳で首席、十九歳で全冠圏独奏賞。演奏映像の総再生数はセラの転倒映像より少ないが、転んだことは一度もない。
イリヤもこちらを見ていた。
招待状が来た日、ミナは自分の独奏を録り直していた。六分の曲だった。公開してから三日後についた感想は、「くしゃみはどこですか」の一行だけだった。再生履歴では、ほとんどの人が最初の三十秒で出ていった。まだ主題にも入っていなかった。
今朝も削除の欄を開き、消さずに閉じた。ここでイリヤが聞いてくれたら、と思った。面白い事故を起こした人ではなく、同じ楽器で仕事をする人として。
ミナは彼女の独奏会を一度だけ聴いている。一番安い、舞台裏に近い席だった。姿は柱で半分隠れたが、低い音が自分の椅子まで届くのを覚えている。客が帰ってからも座っていて、掃除の人に追い出された。
視線が合う。
彼女は楽器を持ち上げた。
窓越しに、短い旋律を吹く。
《アンコール》の受信器が拾った。
速い装飾のあとに、短い主題がはっきり残った。ミナなら息を取り直すところを、イリヤは一息で通している。最後の一音だけ、半音高い。
ルクが吹き出した。
「挨拶されたぞ、嬰ハ」
「分かってる」
ミナは管を構えた。
同じ旋律を返す。
もっと速く。
最後はハへ戻した。自分の音が、向こうの旋律を押しのけるほど大きい。
イリヤが片方の眉を上げる。
白い船は燦冠宮の第一入港口へ消えた。
ターラがミナを見る。
「何してるの」
「挨拶」
「挑発にしか聞こえなかった」
「向こうからです」
「その調子で本番まで唇を使い切らないで。降りたら音出しは十分、あとは休んで」
ミナは返事の代わりに、まだ温かい管を膝へ下ろした。
燦冠宮の二つの劇場が見えてきた。
暁座と、宵座。
同じ大きさ。同じ形。同じ数の客席。巨大な鏡廊を挟み、向かい合って建っている。
大歌劇祭の決勝では、二つの劇団が同じ演目を同時に上演する。
今年の課題作は、旧帝国和平歌劇《暁と宵の婚礼》。
ターラは招待状の裏を見た。
「抽選結果。《ノヴァ》は宵座。《ルミエラ》は暁座」
「向こうが暁?」
セラが衣装の羽を見た。
「私も暁姫の衣装ですが」
「演出を変える時間はない」
「役を譲りますか」
「賞金も譲る?」
「……この役で、歌います」
ターラは満足そうに頷いた。
宮殿の外で、二つの艦隊が祝賀隊形を取っていた。
東側にエルダ星邦の青い艦が十八隻。
西側にヴァルド自治領の赤い艦が十八隻。
冠戦争では敵同士だった。
今夜は和平を祝うため、同じ歌劇を見る。
エルダでは、この公演を議会の休戦記念式として中継する。国の代表がどの席に座るかまで、議事録に残る。一方、ヴァルドの客には港湾組合の招待客が多かった。戦時中に閉じられた共同航路を、もう一度商船へ開く約束を見に来ている。
ターラは案内状の二種類の注意書きを読み、席順に文句の出ない催しはない、と呟いた。
ミナは八小節目へ丸をつけかけた。
イリヤに聞かせることを考えると、残した装飾も急に物足りなかった。
ミナは、消した装飾を一つだけ書き戻した。




