タイガの怒り
「――全く、愚かな人族らしい愚行よ。己が何を傷つけたのか、その意味すらわかっておるまい」
「うッ、うぅッ!」
ティアさまの顔が苦悶に歪む。
そういえば顔色は相変わらず真っ白なままです。
「どうして……傷は治ったのではないのですか!?」
「原因は怪我ではないからだ。この世界の誰にも、この方の苦しみを和らげて差し上げることは叶わぬ。この方は――」
言葉を切ったヴァレンテイルさまは、わたしを見つめた。
「ところでお前は誰だ」
「あっ、申し遅れました。わたしはライラ・スー・ルーフィルド。ティアさまの親友エンリ・スー・ルーフィルドの娘です。いまはティアさまのお屋敷でお世話になっています」
天族の文化や作法はわからないので、わたしは人の世界の貴族の礼をした。
「ルーフィルド……アーティエルが特級魔法を授けた家系か」
「あのっ! ティアさまは大丈夫なのでしょうか? 誰にも和らげて差し上げられないとは……何か深刻なご病気なのですか?」
「病ではない。この苦しみはこの方が背負っているものの大きさ故なのだ。その双肩に背負われている身の我々では、重荷を分かち合うことなど出来ぬ」
ヴァレンテイルさまは寂しそうに目を細めた。
「ティアさまが背負っているものって……何ですか?」
「それは……」
「なんでお前がここにいる」
ヴァレンテイルさまが口を開きかけたその時、背後からタイガちゃんの声がした。
振り返ると、いつの間にか帰ってきていた黒猫姿のタイガちゃんがいた。
タイガちゃんはするりとわたし達の間を走り抜けると、ティアさまの枕元に飛び乗った。
それからティアさまの顔を覗き込むように見つめた。
「神力が……ちっ、なんでこんなことになってる! 俺が留守の間に何があった!!」
「この娘が街のゴロツキ共にさらわれ、ティア様は助けに行ったのだ」
ヴァレンテイルさまが簡潔に説明する。
タイガちゃんが深紅に染まった瞳を細めてわたしを睨みつけた。
「誰がやった……。誰にさらわれたッ!!」
目視できるのではと錯覚するほど、タイガちゃんから強烈で濃厚な魔力の波動が発せられる。
それはまるで底の見えない巨大で真っ黒な渦のようです。
竦み上がったわたしは、吐きかけていた言葉を飲み込んだ。
頭では理解していたつもりでした。
ですがつい可愛い黒猫の姿に惑わされてしまっていた。
タイガちゃんの姿は変わらず黒猫のまま……つまりそれは、これほどの魔力であってもタイガちゃんにとっては力のほんの一部でしかないということ。
この方は紛れもなく魔界を統べる大魔王のひと柱なのだと、わたしは初めてそれを肌で理解した。
「殺気を抑えろ、タイガ・ガルドノス。魔力がダダ漏れだぞ。それでは並の人族では口すら開けぬわ」
「……ちっ」
タイガちゃんが視線を外すと、硬直していたわたしの身体の緊張が解れた。
「あ……あの。何者かはわかりませんが、わたしがさらわれたのはここから10分ほど歩いたところにある倉庫でした。彼等はわたし達に恨みがあるわけではなく、誰かにそうするように依頼されたようです」
おそらくはアメリアさんに……。
学園で起きた小さな諍いでそこまでするのかという疑問はありますが、わたしは王都へ来てそれほど経っていません。
他に人から恨まれる心当たりがないのも事実です。
ですがこれはタイガちゃんに言う訳にはいきません。
確証がないこともありますが、これはわたしが解決すべき問題だと思うから……。
「どこへ行く?」
ヴァレンテイルさまが言った。
視線を追いかけると、タイガちゃんは開いている窓の窓枠に飛び乗っていた。
「……二度とふざけた真似が出来ねーように、落とし前を付けてくるぜ」
「思考が怒りに染まっているな。憎悪に任せて人を殺すのか? そのような事、ティア様は望まぬぞ」
振り返ってヴァレンテイルさまを睨んだタイガちゃんは、背中から黒い翼を生やすと何も言わずに飛び立っていった。
「タイガちゃん……大丈夫でしょうか」
あんなに怒っているタイガちゃんを見るのは初めてで、今夜何をしでかすのかと思うと怖い。
もし取り返しのつかない事をしてしまったら……。
「心配するな。どうやら奴の怒りは相手に対してではなく、自分に対してのもののようだ。おそらくティア様を守れなかった事に対してのだろう」
わたしが不安そうにしていると、ヴァレンテイルさまは言った。
「目の前の敵を屠る以外に何も考えていなかった奴が、まさか自分を省みるとはな。ティア様と出会ってから随分と変わったものだ。いまの奴はティア様が悲しむような事はすまいよ」
「そう……なのですね」
天使であるヴァレンテイルさまがどうして魔族のタイガちゃんについてそんなに詳しいのか……長命種同士、わたし達が知らない関係があるのでしょうか。
わかりませんが、いまは彼女の言葉を信じる事にします。
わたしは床に膝をつくと、いまだ苦しんでいるティアさまの手を取った。
「ティアさま……。本当にもう、わたしに出来ることはないのでしょうか。少しでも苦痛を和らげて差し上げる方法は……」
「目が覚めていれば苦痛を和らげる方法がなくはないが……昏倒している今の状態では見守る以外ない。それよりライラよ。お前は夜食を摂ったのか?」
わたしは首を横に振った。
こんな時に夜食なんて……喉を通るわけがありません。
ヴァレンテイルさまはわたしの隣に膝をつくと、わたしの頭にやさしく手を置いた。
周囲が暖かい空気に包まれたかと思うと、額の傷の痛みがすぅっと消えていく。
「ならお前に出来ることはちゃんと夜食を摂り、十分な休息を取る事だ。ここだけの話だが、ティア様の無茶は今に始まった事ではないのだ。おそらくこの状態は数日続くだろう。お前がティア様の家族なら、目が覚めた時に元気な顔を見せてやれ。それが今お前に出来る最善の事だ」
「ティアさまは……大丈夫なのですか?」
「ああ。そのために私は来た。ティア様を失うことは、この世界を失う事だ。世界の均衡を司る七大天使として我が名に誓おう、ティア様は必ず守ると」
ヴァレンテイルさまはティアさまの状況がわかっているご様子です。
……彼女が言うように、何も知らないわたしがこの場にいても出来ることはないのでしょう。
わたしに出来る事は……。
「わかりました。わたしはお屋敷へ帰ります。きっとサリーさんもリヒターさんも心配しているはずですから……事情を説明してきます」
立ち上がったわたしは、ヴァレンテイルさまに頭を下げた。
「ティアさまの事、よろしくお願いします」
ヴァレンテイルさまが小さく頷く。
「今夜は私もここに泊まり込む。明日、日が上ったら屋敷とやらへ御身を移そう。案内を頼めるか?」
「……はい」
『くろとら』を後にしたわたしは、乗合馬車に乗り込んだ。
馬車の小窓から、流れ行く魔法の灯りに照らされた王都の夜景をぼんやりと眺める。
タイガちゃんもヴァレンテイルさんも、わたしが知らないティアさまを知っている様子でした。
ティアさまには何かがある……? あの苦しみも……。
わたしはずっと救世の英雄さまであるティアさまに憧れてきました。
ですが――本当のティアさまのことを何も知らないのですね。
ティアさまが苦しんでいても何もしてさしあげられない……。
情けなくて、悔しくて……思いが溢れて、景色がぼやけて見えなくなった。




