天使の魔法
「ティアさま……?」
身を寄せていたティアさまが、急に苦しみ出して倒れた。
額に脂汗をにじませ、蒼白になった表情は苦悶に歪んでいて、小刻みに浅い呼吸を繰り返している。
意識が朦朧としているのか、ティアさまの焦点の合わない目は虚空を見つめていた。
「ティアさま!?」
「うぅ……ッ!」
突然、ビクッと身体を仰け反らせたティアさまが、うめき声をあげた。
悶えるように何度も寝がえりを繰り返しだす。
この苦しそうな声に、わたしは聞き覚えがあった。
毎晩ティアさまの部屋から聞こえてくる声……ですがその苦しみようはただ事ではなかった。
これはアルコール依存症なんて生易しいものではありません。
ティアさまは否定されましたが、やっぱり何かご病気が……? それとも男達に暴行を受けた際に、何か致命的な怪我を!?
「ああッ! うう……ッ!!」
苦悶の叫び声をあげて、ティアさまが爪を立てて胸元を掻きむしり始めた。
皮膚が裂けたのか、流血で胸元が赤く染まりだす。
「やめてください、ティアさま!」
わたしはティアさまの上に覆いかぶさった。
一体何が起こっているのか、頭の中は混乱していた。
どうすればいいのか、どうすべきなのかわからない。
ただ1つ、これ以上ティアさまに自身を傷つけさせてはいけない。それだけははっきりとしていた。
わたしは激しく暴れるティアさまの身体を必死に押さえつけた。
――どれくらいそうしていたでしょうか。
10分か15分くらいだったとは思うのですが、もっと長かったような気もします。
ティアさまの身体が動かなくなって、いつの間にかうめき声も止んでいた。
一瞬、怖い想像をしてしまいましたが、押さえつけているティアさまの身体からは、ちゃんと生命の息吹が感じられてほっとした。
ただティアさまの顔色は相変わらず真っ白で、額は汗でにじんでいる。
さっきまでと比べたら大分落ち着いたとは言っても、浅い呼吸を繰り返していて苦しそうなのは相変わらずです。
わたしは鍵を見つけて手錠を外すと、ティアさまをおぶった。
小柄なティアさまは見た目以上に軽かった。
「ティアさま……っ」
涙が溢れそうになるのをぐっと堪え、わたしは早足で『くろとら』へ向かった。
『くろとら』に着いたわたしは、カウンター奥にある階段から二階へあがった。
床に転がるお酒の空き瓶に気を付けながら、ベッドまで進むとティアさまを寝かしつけた。
小さくうめいて、ティアさまが身をよじる。
ティアさまの血の気が引いた顔と苦しそうな表情を見ていると、不安で胸が締め付けられた。
「すぐにお医者さまを呼んできます。少しだけ待っていてください」
この街の病院の場所はわかりませんが、街の人に聞けば見つかるでしょう。
もうじき夜になります。兎に角時間がありません。急がなくては!
わたしは階段を駆け下りた。
お店のドアを開けて外へ飛び出すと、何かにぶつかってわたしは尻もちをついた。
「ご……ごめんなさい!」
わたしは謝罪の言葉を口にしながら顔をあげた。
そこには見た事のないデザインの真っ白な服を着た、長身で金髪碧眼の美しい女性が立っていた。
「慌ただしい娘だ。以後、気を付けるがよい」
女性はそう言うと、わたしを素通りしてお店の中へと入っていった。
わたしは女性を追いかけた。
「あの! 『くろとら』のお客さんですか?」
女性が足を止めて振り返る。
「今日は……その、店主が不調で……臨時休業なんです」
「ティア様が不調? ……なるほど、そういう事か。上がらせてもらうぞ」
女性は二階へ続く階段を上っていった。
「待ってください!」
ティアさまのお知り合いかもしれませんが、いまは得体のしれない人と2人きりにする訳にはいきません。
2階へあがると、女性はティアさまが眠るベッドの前で立ち尽くしていた。
近づくと女性から魔力とは違う、暖かくて力強い何かを感じた。
女性はベッドで寝ているティアさまに向かって手をかざした。
「何をなさって……あっ」
わたしは驚愕した。
ティアさまの流した血が煙のように消えて行き、傷がみるみるうちに癒されていく。
「これは……まさか治癒魔法!?」
魔法学園の金色の魔法の講義で習いました。
魔力では決して治癒の魔法図形は発動しない――発動できるのは金色の魔力、すなわち天力だけだと。
そして天力を持つ種族は、この世でただ1つ……。
「あなたは……天使さまなのですか?」
女性がゆっくりと振り返る。
「私は元四天にして最古の天族。天界を統べる七大天使のひとり、ヴァレンテイルだ」
女性の背中に美しい純白の翼が広がる。
天井に吊るされた魔法の灯りに照らされて煌めくその姿は、まさにお伽噺の世界から飛び出してきたような美しさだった。
「骨折1箇所、ヒビが13箇所、裂傷7箇所。内臓にも軽微だがダメージを受けていた。そして多数の打撲傷。一体、この方の身に何があった」
彼女の姿に目を奪われていたわたしは、ハッとして我に返った。
声は静かですが、彼女からは怒りにも似た威圧を感じる。
わたしは事の経緯をぽつぽつと語り始めた――。




