ライラの失望
今日も学園からの帰宅途中、なんとなく『解呪専門店くろとら』に足が向いた。
そっと窓越しに見たティアさまは、うつらうつらしていて、いつ寝落ちしてもおかしくなさそうでした。
また心がざわつく。
これは自堕落ではありません。
きっと大怪我のせいです……。
今夜それを確かめます。
昨日のこともあって、今夜の食事は少し気まずい空気が漂っていた。
ティアさまはわたしにチラチラと視線を送りながら、遠慮がちにちびちびとワイングラスに口を付けている。
目が合うと、
「こ、これ一杯だけだから、適量だよ?」
と、オドオドする。
わたしはざわつく心を悟られぬよう、ニッコリと笑顔の仮面を被った。
「ちゃんとお酒を控えてくれてうれしいです。これでお母さまも安心できます」
「え、えへへ~」
「ティアさま。今夜は一緒にお風呂に入りませんか?」
「えっ、いいの!? ずっと嫌がってたのに!」
「はい。お酒を控えてくれたご褒美です」
「ん~~~~~やったあっ! ライラちゃんとお風呂だ♪」
ティアさまがうれしそうにはしゃぐ。
無邪気に喜ぶティアさまを見ていると、騙しているようで少し胸が痛んだ。
でも……これは必要なことなのです。
疑いさえ晴れれば、こんなことをする必要も、こんな思いを抱き続けることもなくなるのですから――。
脱衣所に着くと、ほろ酔いのティアさまはあっと言う間に服を脱ぎ捨てた。
ティアさまは肌を隠そうともせず、あまりに堂々とされているので、逆にこちらが恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。
ただ、チラッと見えた限りでは、ティアさまの正面に大きな傷跡は見当たりませんでした。
とすると、傷は背中なのでしょうか?
「もー、ライラちゃんったら、いつまで服を着ているの? 脱がなきゃお風呂に入れないよ」
「い、いま脱ぎますから、ティアさまは先にお風呂場へ行っててください」
ただでさえ恥ずかしいのに、目の前で見られていたら余計脱げません!
赤く火照ったわたしの顔を覗き込んでいたティアさまは、にやっと微笑んだ。
「ライラちゃんもエンリと同じで恥ずかしがり屋さんだねぇ」
ティアさまが両手を伸ばしてわたしの服を掴む。
「あの……ティアさま? その手はなんですか?」
「えへへ~。わたしが脱がしてあげる! わたし脱がすの得意なんだよね!」
ティアさまの瞳が一瞬銀色に輝いたように見えた次の瞬間、くるりと回転させられたわたしは足の裏に冷たい床の感触を感じた。
胸とおしりもやけに涼しい。
足元を見ると、わたしの服と下着、靴下が散らばっていた。
「え? ……えっ!?」
ということは、いまのわたしは……っ!
「きゃああああああ!」
「さぁ行くよ。おっ風呂♪ おっ風呂♪」
ティアさまがわたしの背中を押してお風呂場へと向かう。
先程回転させられた時もそうでしたが、わたしの両足は裸足で床に着いているはずなのに、まるで摩擦がなくなってしまったかのように抵抗なく床の上を滑っています。
ひょっとして靴下もそうやって?
こんなにつるつるに滑る状態で押されていたら転びそうなものなのに、バランスを失う前によくわからない力が働いて重心を正される。
これは……ティアさまの魔法? ですがこれだけ近くにいても魔力はまったく感じられません。
かけ湯をして洗い場に向かう頃には、わたしの足の裏はちゃんと床を掴めるようになっていた。
いろいろ疑問や混乱はありますが、いまは落ち着いてティアさまの傷跡を確認することが最重要です。
「ティアさま。お背中を流しましょうか?」
「えへへ。じゃあ洗いっこしよう」
ボディタオルを石鹸で泡立てる。
風呂椅子に腰掛けるティアさまが、わたしに背中を向けたのが気配でわかった。
心臓の鼓動が高鳴る。
意を決したわたしは、泡立ち過ぎたボディタオルを片手に顔を上げた。
ティアさまの小さな背中を視界に捉えた瞬間、わたしは全身から血の気が引いた。
湯気に包まれたお風呂場にいるのに、指先まで冷たくなったみたいだった。
目の前にあったのは――傷1つない綺麗な背中だった。
「どうしたの?」
頭だけ振り返ったティアさまが、肩越しに不思議そうな顔をする。
「い、いえ……なんでも」
わたしはボディタオルでティアさまの背中を確かめるように擦り始めた。
つやつやで柔らかい弾力のある若い肌には、大きな傷跡どころか小さな傷跡すらない。
自分の腕を見る。
よく見なければわからないほどの小さくて薄い傷跡ですが、お父さまとの訓練でついた傷跡が2つ残っている。
筋量だってわたしの方が明らかに多い。
「あの……ティアさまは、本当に魔界で大魔王達と戦ったんですか?」
「ん~、一応?」
一応……とは、どういう意味ですか? 戦ったのはタイガちゃんだけで、ティアさまは見ていただけですか?
不躾に過ぎる追及の言葉を必死に飲み込んだ。
「怪我はされなかったのですか……」
「ちょっと血が出てたと思うけど、大したことなかったよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。……あっ、ひょっとしてライラちゃん、噂を聞いたの?」
心臓が飛び跳ねた。鼓動が速まる。
「あれは誤解なんだよお」
「え……誤解、ですか?」
ティアさまの表情は見えないけれど、微笑んでいることは口調から分かった。
誤解――そうだったんですね。
苦しかった胸の奥に、僅かな安堵感が広がる。
ですが次のティアさまの言葉で、わたしの小さな希望の光は、暗い闇の底へと堕とされた。
「わたし叙勲式の日に倒れちゃって。そのせいで大怪我したとか、病気になったとか、変な噂が広まっちゃったんだよね。そんなこと全然ないから、心配しなくても大丈夫だよ。えへへ」
あのあとティアさまと何を話したのか、わたしはどんな態度を取っていたのか、殆ど覚えていません。
部屋に戻ったわたしは、ベッドに倒れ込むと堪えきれなくなっていた涙を枕で押さえた。
胸に大きな穴がぽっかりと空いたような虚無感と、憧れが踏みにじられた怒りと失望の叫びを、わたしは誰にも聞かれないように枕の中へ閉じ込めた――。




