最後の方程式
止まる理由は、もうない。
守るべきものは明確で、
進むべき道も、すでに決まっている。
それでも――現実は、理想のままではいかない。
目の前にいるのは、単純な敵ではない。
理解できるものでも、割り切れるものでもない。
それでもアレンは、選ぶ。
切り捨てるのではなく、守ることを。
たとえそれが、非合理であったとしても。
それが――彼の在り方だからだ。
(アレン)
廊下の空気は焦げたオゾンと張り詰めた緊張の匂いがした。体中の神経が研ぎ澄まされていて、目の前の人物から視線を逸らすことができなかった。
リリスは大理石の彫刻のように佇んでいた。その表情はいつも通り不可解なものだった。でも、僕は表面の奥を読むことを学んでいた――機械の埋め込みがある指先のわずかな震え、肩のほとんど気づかない緊張。彼女も限界だった。
「最後のチャンスだ、リリス」
自分でも信じられないほど冷静な声が出た。
「通してくれ。ひめかは君の実験じゃない」
「彼女は自分の遺産を理解する必要がありますわ」
リリスの声に、初めて情熱に似た何かを感じた。
「それは貴方には決して与えられないものですわ」
その最後の一言が火花になった。
命令なんて必要なかった。アヤ、エリザ、かんなは僕の意志の延長のように動いた。数え切れない戦いで磨き上げられた振付だった。
アヤが最初に動いた。光の雷のように鎖が飛び出し、リリスを捕らえようとする。
でもリリスはもう動いていた。指が空中にパターンを描く。青い糸が現れ、数学的な精度でアヤの鎖を逸らす幾何学的な網を編み上げた。
「スキル一つ目ですわ」
リリスはまるで報告書を読み上げるように言った。
「貴女の軌道は予測可能ですわ、アヤ」
エリザが突進した。銀色のエネルギーを纏った戦闘用グローブが輝く。幾何学的な網を殴りつけた瞬間、僕は破れると思った。
でも形が再編成され、衝撃を吸収し、エリザを数歩後退させるほどの力で反撃した。
「スキル二つ目ですわ」
リリスは続けた。
「全ての攻撃が私をより強くしますの」
かんなが側面から攻撃した。氷の刀が空中に霜の軌跡を残す。完璧な一撃だった――二つの幾何学的形状の間の、防御が最も薄いはずの点を狙っていた。
でも衝撃の直前、形が再構成され、エネルギーを転送し合った。
「スキル三つ目ですわ!」
かんなの叫び声が響いた。自分の攻撃の力の一部が返され、腕が痺れて力なく落ちた。
僕は自分の糸を通して全てを観察していた。物理的な糸じゃない――仲間たちの間の、リリスの動きの間の、バトルフィールドのあらゆる変数の間の繋がりだ。
アヤの苛立ち、かんなの痛み、エリザの決意が感じられた。
そしてリリスの中に奇妙な何かを感じた――恐怖じゃない、怒りでもない。不安だった。まるで必死に頭の中で計算し、常に再評価しているような。
彼女は戦いたくないんだ。
その認識は、気づいた瞬間には驚くほど明白だった。
自分がやるべきだと信じることをやっているだけで、心はここにない。
「どうして?」
一歩前に出た。自分の糸――今度は物理的なもの――が指から現れ、淡い銀色の光を放つ。
「間違ってると分かってるのに、どうして続けるんだ?」
リリスが僕を見た。一瞬、彼女の鎧に亀裂が見えた気がした。
「必要だからですわ。時には真実が嘘よりも痛いものですけれど、それでも真実は真実ですの」
「それは答えになってない」
「これが私にできる唯一の答えですわ」
攻撃した。
直接的な物理攻撃じゃない。糸をリリスに向けたんじゃなく、彼女の幾何学的形状の間の繋がりに向けて送った。彼女のスキルが僕の考え通り――相互接続されたシステムとして機能しているなら――その接続を断てば全体の構造が弱まるはずだ。
一瞬、うまくいった。
形が揺らぎ、まとまりを失った。リリスが眉をひそめた――本物の驚きの表情だった。
「興味深いですわ……症状を攻撃せず、システムを攻撃するのですのね」
でもすぐに彼女の指がより速く動き、形がより複雑で入り組んだパターンに再編成された。僕の糸が張り詰め、圧力で砕け始めた。
バトルは消耗的なリズムに落ち着いた――攻撃、反撃、調整、再構成。
分が引き延ばされた。背中を汗が流れ落ち、筋肉が焼けるように痛んだ。周りでは、アヤ、エリザ、かんなも同じ決意で戦っていたが、リリスは生きたパズルのようだった……彼女を捕らえたと思った瞬間、形を変える。
どれくらい経った?
頭に向かって飛んでくる幾何学的形状を逸らしながら考えた。
数分? 数時間?
ひめか……
戦っている一秒一秒が、ひめかが5iの手の中にいる時間だった。不安が胃の中で結び目になり、呼吸するたびに締め付けられた。
そのとき、世界が変わった。
最初は音だった――鋭く、耳障りな警報が空気をナイフのように切り裂いた。
次にスピーカーから機械音声が響いた。
「封じ込め失敗! 原初の被験体が制御不能! 緊急プロトコル発動!」
全てが止まった。
リリスの幾何学的形状が瞬時に消えた。彼女は完全に静止し、初めて――彼女を知ってから初めて――その顔に明確でフィルターのかかっていない感情を見た。
純粋で、本能的な、恐怖だった。
「い、いえ……そんなはずは……」
囁き声は奇妙に小さく聞こえた。
糸を下ろした。
「リリス? 何が起きてるんだ?」
彼女が僕を見た。その目には、僕が彼女に期待していなかったものがあった――絶対的な困惑。
「エーテリアル原初が……逃げ出したんですわ。制御不能ですの」
「それはどういう意味だ?」
息を整えながらアヤが尋ねた。
「つまり」
リリスの声がわずかに震えていた。
「全てのエーテリアルのネットワークを繋ぎ止めている唯一のものが解放されたということですわ。そしてそれがどんな形を取るのか、何をするのか、私たちには全く分かりませんの」
廊下そのものが息を呑んだようだった。
それから、照明が点滅し始めた。普通の電気故障の点滅じゃない――不規則で、混沌としていて、まるで現実そのものが揺らいでいるようだった。
前方の半開きのドアを見た。隙間から、コントロールルームのような場所の内部が見えた。コンピューターの画面が歪んだ画像で点滅している。机の上の電話が一度、二度鳴り、それから甲高い叫び声を上げて沈黙した。
照明が消えるたび、闇はより深く、より絶対的になった――まるでインクに沈められているような。戻ってくるときは、より短く、より弱い光だった。
リリスは自分の手を凝視していた。指の金属繊維が淡く光り、暗くなり、また光る――照明と非同期で。
「システムが故障してますわ」
自分自身に向かって言っているようだった。
「全てに干渉していますの。テクノロジー、電気、おそらくスキルまでも……」
彼女を観察した。何かを考えている。計算している。振り返って、去ろうとしているように見えた――戦いを完全に放棄するつもりのように。
急に焦りを感じた――答えが必要だった。そして彼女はそれを持っていた。
「リリス、待って――」
でも文章を終えられなかった。
次の点滅で、闇が廊下を少し長く包み込んだとき、何かが彼女の背後に現れたからだ。
徐々に現れたわけじゃない。ただ……そこにいた。一秒前にはいなかった人影。
息を呑んだ。
横でアヤの息を呑む音が聞こえた。エリザの囁きが聞こえた。
「なんてこと……」
それは影のシルエットだったが、これまで見たエーテリアルとは違った。あれらは認識できる形を持っていた――歪んでいても、人型だった。
これは……不定形だった。変化していた。嵐の雲が大まかに人型に凝縮されたような、でも大きすぎて、広すぎて、精神が反抗するような比率をしていた。
これが……エーテリアル原初?
リリスはまだそれに気づいていなかった。僕を見ていて、明らかに別のことを考えている――選択肢、確率を計算している。
「ご存知かしら」
リリスが言った。その声には奇妙に内省的な響きがあった――まるで内なる思考を共有しているような。
「創設者も、アロン・ウルフリックは感傷的だと言っていましたわ。自分の創造物に執着しすぎたと。だから失敗したのだと」
言葉が空中に浮かんだ。
そして、影の存在が話した。
どこか一か所から来る音じゃなかった。場所そのものである音、空気の中で、地面の中で、骨の中で振動する音だった。
「なに……いった……パパの……こと?」
声は多重で、不協和音だった。子供の声に動物の唸り声が重なり、静電気が重なり、砕けるガラスの音が重なっていた。でも混沌の中を貫いて、感情は明確だった。
怒り。
深く、傷ついた、子供じみた怒り。
リリスが凍りついた。
ゆっくりと、とてもゆっくりと、振り返った。
リリスの目がその存在を見つけた瞬間が見えた。リリスの顔――常にコントロールされた、完璧に作られた――が崩れ落ちる瞬間が見えた。
血の気が引いて、蝋のように白くなった。唇が開いたが、音は出なかった。
恐怖だった。
純粋な、議論の余地のない、原始的な恐怖。
エーテリアル原初が動いた。
人間や動物の動きじゃなかった。ある場所にいる状態から別の場所にいる状態への移行で、その間に僕が処理できない何かの点滅があった。
影の腕が伸びた。明確な形を持っていなかった――触手というか、突起というか、何かだった。
リリスの腹に打ち込まれた。
嫌な音がした――鈍い衝撃音の後に、崩れた肺から無理やり押し出される空気の喘ぎ声。
リリスは地面から持ち上げられ、布人形のように空中を飛び、十メートル先の廊下の壁に激突した。
「リリス!」
叫びが喉の中で窒息した。原初が僕の方を向いたからだ。
一瞬、見つめ合った。
そしてその瞬間、何か根本的なことを理解した。
これは理屈で説得できる敵じゃない。冷たい科学のリリスでも、腐敗した実用主義の学園長でもない。
これは形になった痛みだった。純粋な怒り。
突然乱暴に起こされた捨てられた子供のような――傷つけることだけが知っている唯一のことだから傷つける。
でもエーテリアル原初は再びリリスの方を向いた。
彼女は壁に寄りかかり、立ち上がろうとしていた。口から血を流していた。片腕が不可能な角度で垂れ下がっていた。
それでも、その目は明晰で、計算し、脱出口を探していた。
エーテリアル原初が近づいた。
というより、滑った――その動きは床にこぼれた油のようだった。
「やめて……お願い……」
リリスが呟いた。その声に本物の懇願が聞こえて驚いた。
エーテリアル原初は言葉で応えなかった。
暴力で応えた。
もう一撃。今度は脇腹に。肋骨が折れる音が聞こえた。リリスが悲鳴を上げた――鋭く、引き裂かれるような、あまりにも人間的な音で、一瞬、彼女がしたこと全てを忘れた。
もう一撃。脚に。
もう一撃。肩に。
それぞれの衝撃は几帳面で、ほとんど儀式的だった。盲目の怒りじゃない。冷たく、計算された怒りだった。
失望させたお気に入りのおもちゃを壊す子供のような。
立っているわけにはいかなかった。できなかった。
「もうやめろ!」
糸が飛び出した。原初に向けてじゃない――役に立たないのは分かっていた。リリスに向けて。彼女の体に巻きつけて引っ張り、もう一撃が降りてくる直前にモンスターから引き離した。
エーテリアル原初が僕の方を向いた。その存在の怒りは触知可能で、肌を焼く熱だった。
「じゃまする」
多重の声が響いた。
「パパの わるくち いった やつ まもるの?」
「彼女は――」
言い始めたが、説明する時間なんてなかった。
攻撃は瞬時だった。
影の塊が僕に向かって飛んできた。ギリギリで避け、床を転がった。
横で、アヤ、エリザ、かんなが動き出した。
アヤの鎖がエーテリアル原初を包んだ。一秒間、抑え込んだように見えた。
それから鎖は単純に……崩壊した。デジタルの光の塵に変わった。
エリザが突進し、グローブが輝く。影の塊を殴りつけ、一瞬、効いたと思った。
でも影が彼女の腕の周りで再形成され、エリザは何かが内部で砕けたときに悲鳴を上げた。膝をつき、腕が無力に垂れ下がった。
かんなが氷の刀で攻撃し、彼らとモンスターの間に霜の壁を作った。
エーテリアル原初は紙のようにそれを突き破り、反撃がかんなの胸を打ち、後方に吹き飛ばされて動かない塊になった。
「やめろ!」
叫んだ。友達が次々と倒れるのを見て。
アヤが次だった。鎖の盾を作ろうとしたが、原初は単に溶解して彼女の後ろに再形成された。背中への一撃が彼女を顔面から床に叩きつけ、血を吐いた。
今や一人だった。
友達を、リリスを傷つけ、おそらくひめかも傷つけたであろう存在の前に。
ひめか……
その思考が奇妙な明晰さをもたらした。
このモンスターがここにいて、自由なら、ひめかは……
思考を終えなかった。
代わりに、愚かで、自殺的だと分かっていることをした。でも必要なことを。
突進した。
原初に向かってじゃない。リリスに向かって。
彼女に到達し、腕に抱き上げた――驚くほど軽かった――そして走った。目的地なんてない。ただモンスターと距離を置く必要があった。
でもエーテリアル原初は、三歩進む前に目の前にいた。
「わるいこ した ひと まもる」
子供じみた声が、今度は観察をする子供のように聞こえた。
「どうして?」
「人間だからだ」
息を切らしながら、リリスを慎重に地面に下ろした。
「人間は他の人間を守る。たとえそれに値しなくても」
原初はそれを考えているようだった。
それから言った。
「パパ オレ まもって くれなかった。ひとりに した」
そして攻撃した。
全ての糸を展開し、自分とモンスターの間に網を作った。糸はこれまでにない強度で輝いた――スキルだけでなく、意志の全て、絶望、友達への愛、ひめかへの愛、さらには足元のこの壊れた少女――多くの痛みを引き起こしたリリスへの愛でさえも糧にして。
糸は持ちこたえた。
数秒間。
指に食い込むのを感じた。皮膚が裂けるのを感じた。血が滴り始めるのを感じた。痛みは鋭く、明るかったが、これから来るものに比べれば取るに足りなかった。
りん、ごめん……
なぜその名前がこの瞬間に浮かんだのか分からなかった。
糸が砕け始めた。
一本、次に別の、それから十数本。それぞれの破断を、内部で骨が折れるように感じた。
エーテリアル原初が解放された。
その腕、触手、塊が、打撃のために持ち上がった。
そして、廊下が輝いた。
普通の光じゃない。
データで。
グリッド、コードの行、デジタルの雪のように空中に浮かぶ数字。
世界が青と白になった――現実の上に重ねられた現実。
誰かがデジタルの光の閃光の間に到着した。
不可能な速度で動く人影。キックが原初の質量の中心と思われる部分に衝撃を与えた。
影の存在が後方に飛ばされ、反対側の壁に衝突した。衝撃が廊下全体を揺らした。
まばたきして視界を晴らそうとした。
二つの人影が今、目の前に立っていた。
りん。
そしてヨルム。
りんは戦闘態勢で、呼吸は少し荒いが姿勢は完璧だった。ヨルムは彼女の横にいて、ホログラフィックタブレットのような何かの上で指を動かし、コードの行がその手の下を流れていた。
「遅くなったね」
りんが言った。その声には僕がよく覚えている落ち着いた響きがあった。
でも振り向いて僕を見たとき、その目は別の物語を語っていた……安堵、心配、そして何か他のもの――僕の心臓を奇妙に跳ねさせる何か。
「りん……」
なんとか言えた。
彼女は頷き、それから視線がリリスに落ちた。
「彼女を助けに来たの。でも……」
「死んでない」
急いで言った。
「怪我をしてる。重傷だけど、生きてる」
りんはリリスの隣に跪き、指が脈を探した。弱いが安定した脈を見つけた。表情が少し柔らかくなった。それからアヤ、エリザ、かんなも見た――同じく負傷していた。その残酷な光景を見て、一瞬怒っているように見えた。
ヨルムは僕にもりんにも注意を払っていなかった。目はエーテリアル原初に固定されていた――壁の瓦礫から立ち上がり始めていた。
「一時的に封じ込められるかもね」
ヨルムが言った。指がホログラフィックインターフェース上を飛んでいた。
「管理者モードだから環境システムにある程度のコントロールがあるんだ。でもこれは一時的な解決策に過ぎないよ」
「ひめかは?」
嗄れた声で尋ねた。
「彼女が鍵なんだ」
ヨルムが作業から目を離さずに言った。
「彼女だけが本当に止められる。繋がりが深すぎるからね」
複雑な感情が押し寄せた――りんを見た安堵、彼らの到着への感謝、でも同時に深く、傷つくような無力感。ひめかを救うためにここに来たのに、今や彼女だけがこの災害を解決できると言われている。
「どこにいるんだ?」
「この廊下の先。大きな両開きドア。メインラボだ。でも科学者たちには気をつけてね、アレン。彼らは絶望してるんだ。そして絶望は人に恐ろしいことをさせるものだよ」
頷いた。
りんを見た。
「来るか?」
彼女は頷いた。
「もちろん」
一瞬――ただの一瞬――目が合った。
そしてその瞬間、二人の間の全ての言葉にならないものが見えた……離れたときの彼女の心配、ヨルムと一緒にいた彼女への僕自身の恐れ、時間がなくて解きほぐせなかった複雑な感情の網。
りんは何か言おうとしているように見えた。
代わりに、僕を完全に驚かせることをした。
抱きしめた。
素早く、強く、息を呑むような緊急性に満ちていた。肩に当たる彼女の頭、周りの腕の固さ、体のわずかな震えを感じた。
「心配してたの」
肩に向かって呟いた――僕だけが聞こえるほど小さく。
「僕もだ」
認めた。そして一秒間、その抱擁に沈むことを許した――彼女がここにいる、生きている、僕と一緒にいるという現実に。
それからヨルムが控えめに咳をした。
「一時的な封じ込めが劣化してる。動かないと」
りんが離れた。頬がわずかに紅潮していたが、表情は決意に満ちていた。
頷き、一緒に、ヨルムが示した方向の廊下を走り始めた。
でも遠くまでは行けなかった。
誰かがすでにその同じ廊下をこちらに向かって来ていたからだ。
科学者だった――一人だけ――でもその存在が僕を立ち止まらせた。
外見のせいじゃなかった。目立つものではあったが――三十歳を超えないくらいの若い男性、精密に整えられた髪、太い縁の眼鏡。
それは姿勢だった。崩壊しつつある廊下を歩きながら、その目にある絶対的な静けさ。
そして微笑み。
小さく、静かな、全ての混沌の中での微笑み。
人生で見た中で最も恐ろしい微笑みだった。
「ああ、更なる訪問者か」
男が言った。その声は柔らかく、礼儀正しく、講義をする教授のようだった。
「だが申し訳ないが通すわけにはいかん。不知火ひめかは現在無力化されており、この実験に干渉することは誰にも許さん」
警戒態勢をとった。ひめかに何かあったと聞いて怒りを感じた。
横で、りんも警戒態勢をとるのを感じた。
「君は誰だ? ひめかに何をした!」
絶望に駆られながら尋ねた。
「私はアイザック・ヴァレンタイン博士である」
男がわずかに頭を傾けた。
「ご奉仕いたす」
後ろで、ヨルムが聞こえる息を呑んだ。
「ヴァレンタイン博士……でも君は……創設者は君を右腕だと考えていた」
ヴァレンタインがヨルムを見て、微笑みが少し広がった。
「ああ、若きエージェント。そうだな、『彼』は私に対していつも感傷的すぎたのだ。同じ……倫理を共有していると信じていた」
その言葉はかろうじて覆い隠された軽蔑とともに出た。
「くだらない自己紹介はやめて、ひめかに何をしたか教えろ」
硬い声で尋ねた。
「必要なことだ」
ヴァレンタインが肩をすくめた。
「原初の被験体には触媒が必要であり、彼女は完璧な触媒である。マトリックスとより深く同期させるための少々の電気ショック、それだけである」
怒りが内側で沸騰するのを感じた。熱く、暗く。
「君は彼女を傷つけた」
「一時的な副次的損傷だ。回復可能である」
ヴァレンタインは僕の向こうを見た――リリスが傷ついて横たわっている場所に。表情は変わらなかった。
「ああ、そしてリリスがついに報いを受けたようだな。彼女は常に……感情的すぎた。科学的冷徹さを装っていたにもかかわらず」
その瞬間、僕の中で何かが壊れた。
この男がひめかを傷つけたからだけじゃない。そこに折れた骨で横たわり、おそらく死にかけているリリスを――失敗した実験のように――語っているからだけじゃない。
その目の中に、悪意も、残酷さすら見えなかったからだ。
絶対的な無関心を見た。
まるで僕たち――ひめか、リリス、みんな――が方程式の変数に過ぎないかのように。
「君は……本当のモンスターだ」
囁いた。
ヴァレンタインは静かに笑った。
「興味深い! それはまさに『彼』が使った言葉である。『彼』は根っからの詩人だったのだな」
眼鏡を直した。
「だが詩人は世界を変えはせん、少年よ。科学者が変えるのだ」
手を伸ばした。掌の中で何かが形成され始めた――通常の武器じゃなく、浮遊する方程式の球体のように見えるもの、回転して再編成される数学記号。
「私のスキルである」
ヴァレンタインが言った。声に本物の喜びの響きがあった――お気に入りのおもちゃを見せる子供のような。
「『無限演算カルキュレーション』。あらゆる物理変数を攻撃力として投影できる。簡単に言えば……数学を武器に変換できるのだ」
手の中の方程式が激しく輝き、複雑なパターンに再編成された。空気がエネルギーで充電されるのを感じた――嵐の前のように。
「りん」
ヴァレンタインから視線を逸らさずに言った。
「準備しろ」
「準備できてる」
彼女が答えた。声に恐怖はなく、決意だけがあった。
ヴァレンタインが微笑んだ――あの静かで恐ろしい微笑み。
「素晴らしい。『彼』がこの世代を特別だと考えた理由を示してくれたまえ」
手の中の方程式が僕たちに向かって放たれた。
そして、最後のバトルが始まった。
次回――
終焉、そして解放へ。
すべての戦いが、一つの場所に集約される。
アレンとりんは、最後の敵へと挑む。
数式を武器とする異質な存在。
予測し、操作し、すべてを支配しようとする意志。
だがその戦場に、現れる影。
支えられながらも、自らの足で立つ少女――ひめか。
そして、小次郎、しずく、武蔵。
それぞれの戦いを越えた者たちが、ついに合流する。
やがて訪れる、最後の対話。
それは戦いではない。
終わらせるための、選択。
“創られた世界”の結末。
残すのか、壊すのか。
すべては、一つの決断に委ねられる。




