壊れる約束
閉ざされた空間の中で、逃げ場はない。
与えられるのは選択ではなく、役割。
求められるのは真実ではなく、都合のいい“答え”。
それでも――ひめかは、目を逸らさない。
怖くても、分からなくても。
それでも、自分の言葉で向き合おうとする。
たとえそれが、何かを壊すことになったとしても。
優しさは、時に残酷だ。
それでもなお、彼女は選ぶ。
嘘ではなく――本当を。
(ひめか)
最初の症状は、軽いめまいだった。まるで世界が、目に見えない軸を中心にゆっくりと回り始めたかのように。瞬きをして、視界をはっきりさせようとしたけれど、感覚は消えなかった――頭の中の不快な軽さ、胃の中の空虚感。
これは……プロセスの一部なのかしら? それとも恐怖?
決める時間はなかった。なぜなら、目の前の現実が引き裂かれ始めたから。
最初は音ではなかった。感覚だった――まるで空気そのものが、その限界を超えて引き伸ばされているかのような。古いドレスの生地が、縫い目から裂け始めるときのように。
それから光が来た。目を眩ませる閃光ではなく、淡い青の輝きが虚空から現れ、空中に線を描いた――まるで誰かが、虚無の上に光る インキで描いているかのように。線は交差し、絡み合い、回転し脈打つ幾何学的なパターンを形成した。
そして、その視覚的な渦の中心で、空間そのものが折れ曲がり、現実の織物に開いた傷のように開いた。
ポータル。
わたくし本能的に後退したけれど、足はほとんど動かなかった。麻痺していた――外部の力によってではなく、自分の筋肉のコントロールを奪うほど内臓的な恐怖によって。
こんなこと……ありえないわ。起こるはずがない。
アカデミーで奇妙なスキルは見てきた。エネルギーの光線、光の武器、無から創造された元素さえも……でも、これは違った。
これは人間のパワーが現れているのではなかった。
これは……現実そのものが書き換えられている。
当たり前だと思っていた世界の基本的なルール――空間は固体であること、物質は安定していること――が目の前で壊れていく。
口が渇いた。こめかみで痛みを感じるほど脈拍が速くなった。すべての本能が叫んでいた――逃げろ、目を閉じろ、あの……あの世界の裂け目から出てくるものを見るのを拒否しろと。
そして、声が聞こえた。
「パパ?」
かすかなささやきだったけれど、距離にもかかわらずはっきりと聞こえた。幼い声、甲高く、無邪気。そして奇妙なほど悲しい。
息を呑んだ。目はポータルを探った、声の源を探して。何も見えなかった――ただデータとエネルギーの青い渦だけ。
これが……エーテリアル原初?
「パパ、そこにいるの?」
再び声が、少し強く。そして今度、奇妙なことに気づいた。声はわたくしに直接向けられているわけではなかった。まるで存在、エッセンスを呼んでいて、わたくしはただその存在がいるべき場所にいるだけのように。
「わ、わたくしは……ここにおりますわ」
なんとか言えたけれど、自分の耳には震えた奇妙な声に聞こえた。
しばらく沈黙。それから――
「どうしてそんなにとおいの? どうしてオレ、ここにのこされちゃったの? パパのところにいきたいよ!」
話し方があまりにも単純で、あまりにも幼く直接的だったから、わたくし不条理な認知的な断絶を感じた。この子供の声が、現実を引き裂くポータルから出ていて、質問をしている。
「パパまってて、いまそっちにいくから」
観察用のクリスタルに横目を向けた。ガラスの向こうに科学者たちが見えたけれど、誰も特に警戒しているようには見えなかった。実際、何人かはメモを取っているようだった――まるでこれがまさに彼らが期待していたことであるかのように。
観察している。いつも通り。まるで実験であるかのように。
その考えは、怒りの波を与えた。皮肉なことに、それは恐怖を少し和らげた。憤りは、純粋な恐怖よりも扱いやすい感情だった。
そのとき、ラボの入り口に動きが見えた。三つの人影が走って入ってきて、小次郎としずくを認識したとき、胸が高鳴った。
それに……武蔵会長?
生徒会長の存在は困惑させたけれど、それを処理する時間はなかった。なぜなら、知った顔を見て安堵した部分がある一方で、別の部分……より深く利己的な部分……すぐに自分自身を恥じた……失望の痛みを感じたから。
アレンは……一緒じゃない。
でも、すぐに考えた。
小次郎としずくがここにいる。それは、アレンくんが送ってくれたということ。あるいは……来るということ。近くにいるはず。そうに決まっているわ。
希望……その不合理な頑固さは、どんな恐怖よりも強く心に食い込んだ。
小次郎としずくがここにいるなら、アレンは遠くにいるはずがない。来てくれる。いつものように。
その新たな決意とともに、深く息を吸い込み、完全にポータルに向き直った。
「あなたは……誰ですの?」
より堅い声で尋ねた。
「オレはオレだよ……パパのこども」
幼い声が答えた――まるで質問が馬鹿げているかのように。
瞬きした。
息子?
リリスの言葉が心に響いた。『あなたは、最初のエーテリアルを創造した科学者の子孫よ』
この……子供は……わたくしを曾祖父様と間違えているのかしら?
答える前に、ポータルがより強く脈打ち、何か――誰か――が現れ始めた。
最初は小さな手だった。肉と骨ではなく、ポータルを構成するデータと影の同じ物質で形成されていた。それから腕、肩、そして最終的に、完全な姿が青い渦から解放され、目の前に立った――あるいは浮いていた、判断するのは難しかったけれど。
息を呑んだ。
エーテリアル原初は……子供だった。
少なくとも、子供の形をしていた。小さなシルエット、おそらく子供くらいのサイズで、常に動き変化しているように見える影で構成されていた――人間の形に閉じ込められた黒い煙のように。明確な顔の特徴はなかった――ただ輪郭だけ――でも、その姿勢、軽く左右に揺れる様子、すべてが幼く無邪気な性質を伝えていた。
これ? これがそんなに恐怖を引き起こしたもの? この……子供?
「パパ? アナタなの……?」
今度は声が明らかに目の前の姿から来ていた。
「やっともどってきてくれたね」
唾を飲み込んだ。
「わたくしは……あなたのパパではございませんわ……いいえ……でも、家族ですわ」
姿がわずかに傾いた――好奇心のジェスチャー。
「きみをかんじる。パパだ。でも……ちがう」
「わたくしは彼の家族ですわ」
慎重に言葉を選んだ。
「彼の……子孫。でも、彼ではございませんの」
震える手を伸ばした――本能的な、ほとんど母性的なジェスチャー――怯えた子供を落ち着かせるためにするような。
「こわがらなくてもいいですわ」
そう言って、その言葉が自分のためでもあることに気づいた。
「わたくしも……怖くございませんわ」
エーテリアル原初はその手を観察し、それからわたくしを見た……少なくとも、見ているとわたくしは思った、見る目がないにもかかわらず。
「どうしてこんなにおそくなったの?」
幼い不満の口調で尋ねた――父が家に帰るのをあまりにも長く待っていた子供のように。
「パパ、またいっしょにあそぶって、やくそくしたのに」
喉に結び目を感じた。
遊ぶ。遊ぶと言っている。まるでこれすべて……すべての恐怖、バトル、トラウマ……がただ中断されたゲームであるかのように。
「何を……どんなゲームですの?」
かすかなささやきで尋ねた。
「オレたちのゲーム」
まるで当然のように言った。
「なにかをつくるゲーム。モノをうごかしたり、かえたりするゲーム。パパがおしえてくれたよ、おぼえてる? とくべつなゲームだって。そうぞうのゲームって」
ピースがめまいがするほどの明快さで心の中で収まり始めた。
曾祖父様、アロン・ウルフリックは「モンスター」を創造したのではなかった。
これを創造した。幼い意識。現実の操作を「ゲーム」と見なす存在。そしておそらく、実験があまりにも危険になったとき、倫理が介入したとき、彼は止めなければならなかった。彼の「創造物」を一人にしなければならなかった。
そして、それ以来ずっと待っていた。創造主が戻ってまた遊んでくれるのを。
予想もしなかった方法で同情が湧き上がった。数分前、この生物は恐怖の化身のように思えた。今は、迷子で、混乱し、見捨てられた子供が見えた。
「聞いてくださいな」
手を下ろしたけれど、柔らかい口調を保った。
「よく見て。何か違うことに気づきませんこと? わたくしは女性ですわ。あなたの……あなたのパパは男性でしたでしょう?」
エーテリアル原初は反対側に傾いた。
「きみがみえる。パパだ。それがオレのみるもの」
「でも、わたくしの声」
主張した。
「わたくしの姿。違って覚えていませんこと?」
「パパをおぼえてる」
そして初めて、声に混乱に似た何か……知らないことの混乱ではなく、何かを確信しているのに矛盾する証拠を示される人のような……を検出した。
「そしてきみがパパだ」
深く息を吸い込んだ。
これは間違ったアプローチだわ。この生物は人間のように現実を知覚していない。性別も、物理的な形も、おそらく人間が当然と思う多くのカテゴリーも区別していない。本質、つながり、共鳴を知覚している。
そして、わたくしの血は曾祖父様の共鳴を持っている。だから彼を見ているけれど、わたくしを見ている。
「周りを見てくださいな」
戦術を変えた。
「他の人々が見えますの?」
エーテリアル原初はゆっくりと振り返った――ジェスチャーは従来の回転というより、全体の形の傾きだった。
「みえる……たくさんのそんざい。つよくひかるのもいる。よわいのもいる。あと……」
小次郎、しずく、武蔵会長がいる方向を漠然と指して止まった。
「……しんぱいしてる。パパのこと」
胸に温かさを感じた。
小次郎としずくが……わたくしのことを心配してくれている。
「その人たちは……わたくしを見ていますの? それとも、わたくしである人を見ていますの?」
「パパをみてる」
すぐに答えた。
「でも……こだまもみてる。オレがみるのとおなじやつ。でもかれらにはよわい。オレにはつよい。さいしょにみえるもの」
そして突然、エーテリアル原初の子供は話題を完全に変えた――まるで前の会話がただ不快な前置きだったかのように。
「ねえ、パパ、またあそぼうよ? すごくひさしぶり。つぎはもっとおおきいことするって、やくそくしたよね。もっととおくまでとどくやつ」
瞬きした。
「遊ぶ? 何をして遊びたいのですの?」
「つくるの!」
初めて興奮した声で言った。
「あたらしいかたちつくれるよ。あたらしいうごき。ぜんぶかえたり、うごかしたりできる。まえみたいに、でももっとすごいやつ。パパ、つぎはもっとすごいのにするっていったよね」
唾を飲み込んだ。
すべてを変えて動かす。現実を書き換えることについて話している? そしてそれを「遊び」と呼んでいる?
「いいえ……それはするべきではございませんわ」
慎重に言った。
「時には、物事を変えることは……他の人を傷つけることがございますの」
「きずつける?」
エーテリアルの子供は言葉を考えているようだった。
「パパがきゅうに、おなかがいたいっていったときみたいなこと? あと、あのかみきれをけせっていわれたとき? ときどきおこる。でもゲームのいちぶだよ。ずっとそうだった」
背筋が凍った。
紙切れ……死について話している? 人間の命について? そしてそれを「ゲーム」の自然な部分と見ている。
この生物への同情は減らなかったけれど、今は恐怖と混ざり合った。
邪悪ではなかった。もっと悪かった――その破壊性において無邪気だった。ハエの羽をむしり取る子供が、痛みを引き起こしていることを理解していないように。
「聞いてくださいな」
正しい言葉を探しながら始めた。
「人々は……ゲームの『かけら』ではございませんの。生きている存在ですわ。動きを止めたら、永遠に。痛いのですわ」
エーテリアルの子供はしばらく静止していた。それから、本物の好奇心で言った。
「いたい? パパが、からだじゅういたいっていったときみたいなこと? なにかをおしたら、われるおとがするとき、それがいたい?」
答える前に、増幅された声がチャンバーを満たした。
「いいや、不知火ひめかさん。そういうことを説明してはいけない」
その声を――眼鏡の科学者、前に見た人。口調は冷たく、プロフェッショナルだったけれど、苛立ちの縁があった。
「彼に君が創造主だと思わせておくのだ」
声は続いた。
「その方が良い。彼のゲームに従いたまえ。本当に彼を排除するために必要なのはそれだから」
怒りが内側で沸騰するのを感じた。
「彼のゲームに従う? 正気ですの? ご覧にならないのですか――」
「完全に見えている」
科学者が遮った。
「そして協力することを提案する。君自身のためにもね」
脅迫は、遠回しだったけれど、明確だった。クリスタルを見たけれど、見えたのは無関心だけだった――この人たちは自分たちの愚かな実験にしか興味がない……愚かなことに。
そのとき小次郎の声が聞こえた、遠くから叫んでいる。
「彼女を放っておけ! 怖がっているのが見えないのか!」
小次郎と科学者の間で議論が勃発したけれど、ほとんど登録しなかった。なぜならエーテリアルの子供が近づいてきて、今はすぐ目の前にいたから。
「だいじょうぶ、パパ?」
突然心配そうな声で尋ねた。
「きみの……ひかり。ゆれてる。どこかいたいの?」
驚いた。
わたくしの感情を感じ取れるの?
「わたくしは……心配しておりますわ」
真実を言うことを認めた。
「しんぱいしなくていいよ」
子供が言って、影のような手を伸ばした。
「オレがいまここにいるから。あそべるよ。きぶんがよくなるから」
伸ばされた手を見た――現実を「変えて動かす」ことができると自分の言葉で言った、影とデータで形成されたその手。
そして決断した。
偽り続けることはできなかった。曾祖父様のふりをすること、戻ってきた「パパ」のふりをすることは。嘘だからというだけでなく、この生物は真実に値するから。
本当に意識があるなら、本当に感じて心配できるなら、理解に値する。
「聞いてくださいな」
堅いけれど柔らかい声で言った。
「理解していただきたいことがございますの。わたくしは――」
「やめろ!」
スピーカーからの科学者の声が甲高く、怒って響いた。
「これを台無しにするな!」
そして、痛みが来た。
電気的だった。文字通り。青いエネルギーのアークがわたくしが立っているプラットフォームから出て、脚を打った。テーザーの制御されたショックではなく、もっと残忍な、もっと浸透するものだった。
体のすべての筋肉が一度に収縮した。心臓が永遠の一秒間止まったように見えてから、激しく加速した。悲鳴が喉に詰まった。脚が崩れ、金属のプラットフォームに膝をついて倒れた――神経系を駆け巡る電気的な痛みを通して衝撃はほとんど登録されなかった。
「ひめか先輩!」
小次郎の声がはるか遠くから聞こえたけれど、実際には数メートルの距離から叫んでいることは分かっていた。光の閃光が見えた……スキルが発動している、おそらく小次郎が近づこうとしている……でもすべてが曇って、ぼやけていた。
最も明確で、最も即座だったのは、エーテリアルの子供の声だった。
でももう、前の好奇心に満ちた幼い声ではなかった。今は甲高く、必死で、人間を超越したパニックに満ちていた。
「パパ! パパ、どうしたの? どうしてひかりがきえるの! やだ、またやだ! またいっちゃうのやだ!」
話そうとした、「ここにいますわ」と言おうとしたけれど、唇が動かなかった。手を上げようとしたけれど、指をわずかに動かすことしかできなかった。体全体が重く、役に立たず、裏切り者だった。
曇っていく視界を通して、エーテリアルの子供の形が変わり始めるのが見えた。
「パパああああ――!」
もはやコンパクトで認識できる子供のシルエットではなかった。振動し、歪み始めた。それを構成する影が濃くなり、拡大した。成長した――高さではなく、質量において――より広く、より密に、より脅威的になった。幼い性質が消え、無定形の、混沌としたものに置き換えられた。
「いかないで!」
生物が叫んだけれど、声はもう子供だけのものではなかった。複数で、不協和音で――まるで何十もの声が一度に叫んでいるかのように。
「やくそくしたのに! いかないって、やくそくしたのに、またいっしょにあそぶって、やくそくしたのにいいいいい!」
胸の痛みはもはや物理的なものだけではなかった。見ること、遅すぎると理解することの苦悩だった。
この生物はモンスターではなかった。父が死ぬのを見た――少なくとも、そう信じた――二度目の、見捨てられた子供だった。
そして痛み、裏切り、怒りが……引き裂いていた。
部屋が揺れた。前のめまいではなく、物理的な激しい震えだった。観察用のクリスタルにひびが入った。ライトが点滅し、いくつかは消えた。
スピーカーから、ロボットの声が繰り返し始めた。
「封じ込め失敗! 原初の被験体が制御不能! 緊急プロトコル発動!」
原初――もはや子供ではなく、今は影と怒りの成長する塊――その注意を壁に、クリスタルに、周りのすべてに向けた。
音というより耳を出血させる圧力のような音とともに、攻撃した。
最初の壁が崩壊した。壊れたのではなく、崩れたのでもなく。ただ固体であることをやめ、空中で溶解する岩と破片の雨に変わった。
次に次の壁。
クリスタルの向こうの科学者たちが叫び、走ったけれど、ほとんど登録しなかった。見えたのは、子供だった存在が、今は痛みと破壊の嵐に変わり、メインドアに向かって進み、すべてを破壊していく姿だけだった。
ごめんなさい……
闇が最終的に包み込む中、考えた。
本当にごめんなさい。わたくしは……わたくしは彼のふりをするべきではなかった。希望を与えるべきではなかった……
そして完全に意識を失う前の最後の意識は、不条理で穏やかな確信だった。
アレンが来る。そして今、これにも対処しなければならない。ごめんなさい、アレン。すべてごめんなさい……。
次回――
崩壊の中での選択。
制御を失った存在が、すべてを飲み込もうとする。
もはやそれは、対話できるものではない。
感情に引き裂かれた“何か”。
その暴走は、止まらない。
一方で、別の戦場。
アレンたちはリリスと対峙する。
だがその戦いは、決着を見る前に中断される。
鳴り響く警報。
崩れ始めるシステム。
そして現れるのは――
制御を失った“それ”。
敵か、災害か。
その前で、アレンは選ぶ。
守るべきか、切り捨てるべきか。
倒れていく仲間たち。
孤立する戦場。
その極限で――現れる影。
そしてついに、すべての線が交差する。




